春色三分,二分塵土,一分流水。


    維新の怪。がらにもなく。
    ?ヤキがまわったのかな

    センキョのため?「維新=マトモ」あぴーるか?
    でも・・・・
    そもそも維新の支持者はおおむねネトウヨだろーが。
    そんならネトウヨのやんちゃ筆頭を除名しちゃったらセンキョにまずいんじゃないか?
    とおもはるる

    もう一人ヘンなのがいたな,
    アカのことが大キライな,あ,がつく議員。
    彼を温存する限り戰爭小僧一人をはじいてみたところでまともな政黨とは思はれまい
    ともおもはるる

    だあれにあぴーるする,の,コトなのかさっぱりわからん
    ??
    やってもムダな決議案
    そもそもゲンロンの不適切でもって議員のクビは切れない。ノダ。
    戰前じゃあるまいし。

    へんなの。
    反軍演説とかやって議員クビになった人にシツレイじゃないかw

    維新の思想信条的立場に立って考えるに,かの發言のどこかかれらにとってモンダイなのか? 

    サッパリわからん
    それとも,
    ヒトとして,佯りないホンネを語る,そのことがモンダイなのか?
    とかんぐってしまうわ
    まあ政治屋としては,モンダイなのかもしらんが

    本音を隠して政治家になったり政黨つくったりするなよ,
    とおもってしまう,すなおなわたし。

    唐突だが
    曾て赤尾敏は,いつでもどこでも本音をいっさい隠すことなく政治活動に信念もってのぞんでいた

    さすがもと社會主義者だw
    アカ,であっったときも,轉向したとても,本音丸出しの勇猛邁進だ
    このヒトも。
    幸德秋水の死後,盛り下がるばかりな社會主義運動の中で
    堺,大杉らのもとで理想社會を實現しよーと一念發起がんばりはじめたひとだったが

    わたしは右翼プロパーというとやはりこのヒトを思い出す
    子供のころなぜかわすれたが我が家では月に一度日曜日に數寄屋橋で外食するお樂しみがあって。
    當時毎週日曜にきまって演説していた彼の姿を父とよく見物したが,
    (わたしはコドモだったのでなんとなしにだが,)。
    今日もゲンキでやってるか,と,その無事に安堵するかのような訕笑するような父にフシギなものを感じていたが
    「彼はシンネンに正直が取り柄だ」,とも言ってたように思うw


    さて。脈絡ない事このうえないが

    ナゾな轉向をして裏切り者の烙印を押され,落ちぶれきったアナキスト劉師培の
    宿遷道中は宿,遷,道中ではなく,宿遷という地名,そこを過ぎる時見た杏花,を詠う,これも詞牌
    柔情かつ軟弱。

    「漢詩」好きなら蘇軾の《水龍吟》を則思うことまちがいなしな
    "付與二分塵土"

    しかしそこには柔能克剛のふういささかもなく
    蘇軾の忼慨壯氣なく,陸遊の不羈灑脱なく
    ・・・・
    ただただ
    悲慯と,零落而して摧き捽かれし心,柔腸寸斷されし哀音,

    落ちぶれ男の,悽悽,悄然たる,のありさまのみ

    以下我流に意譯,

     荒れはてた驛站,古城壁。
     數えるばかり杏の花が咲くも,花辮の孤としてまさに落ちなんとすをみる
     花の香愉しむ人,もとよりとうに去りぬ,
     幽情,たれにぞ訴へん,一抹の心,問ふても傾く夕陽あるのみ
     金いろの花粉の淒迷,悲傷に堪えず
     塵土を分かちて,生あるも死にゆくさだめの
     ことはりあり
     情緒なし
     我,傷を得て淪落の天涯,飄零すること汝の如し



    《掃花游 宿遷道中見杏花》 劉師培杏孤花落英殘

     東風度(わた)るをいくたびか閲(けみ)したり
     満點の花朶飛び,春また暮れて
     芳心また自苦を負ふ,それ,あらたまるべきものにかならずやあれり
     すでに玉顔,憔悴し,瑤華,語らず。

     一笑嫣然。
     肯(うけが)ひて學ばん,嫵(みめよき)媚態,夭桃の美しさに
     相思ひ合しが處。 
     憶ふは江南
     小樓に,聽く雨の聲



    なかなかに,ナサケナイの極み,と。
    健男兒の悲壮感なし,言志なしと。

    そもそも劉師培の裏切り轉向は,先に官衙に拘束された妻の何震を救いたいあまりに,その弱みから體制側にからめとられたという説もあり,そんな心情うかがわせるような詞だが,

    以前,ブログで龔自珍の劍膽簫心にことよせて
    林庚白と劉師培の《賣花聲》を比較したことがあるが
    詞牌は劉師培の人性よく表してるいように思う
    この詞も。
    いつ,なんど讀んでも

    すばらしい!

    としかおもえないんだがw
    とりわけ
    一笑嫣然,以下
    小樓聽雨にいたるあたり,

    みずからの淪落うたうにもかかわらず,まったく反省の色がみえないというw

    アナキズムを彼に教唆した幸德や,大杉榮でさえ,泣き言書くときも,
    もう少し反省じみたこと,思い悩んで書いてたよーな,キがするんだが


    詩人だなあ,とおもはるる,が。。

    このようなうたうたう革命家にして・・・・アナキスト。
    若くして國故斯文の才は高大,考證學の名門に生まれ
    一八歳の時すでに弟子を抱えていたほどの,先祖にならって,一家を樹つるべき叡哲であった
    國學の儒士劉師培

    これも “文人” の「歴史的誤會」の一例か,と思いはせるばかりである


    劉師培という人の矛盾はとほうもなく,
    複雜な時代情勢にあったとしてもマッタクあり得ない
    (劉師培がもとよりなんの志なし,考えも無しという無節操の變節漢ではないかぎり,ということだが,)
    ナゾの轉向をしていたわけで,

    そもそも,革命という事象を扱う研究者からは,ほんの一時期,辛亥革命にかすっただけの人
    “ "中國革命" になんら資するところなかった視” されがちなアナキズムの徒として,
    一時期頑張っただけというヒトであり
    ・・・・。
    そのうえ裏切り者とあっては彼についても言及するひとももない,
    のはいまさらあたり前なんだけど



    似花還似非花,也無人惜從教墜
     
    ちなみに。

    蘇東坡 《水龍吟》

    似花還似非花,也無人惜從教墜

    暮春に路傍の楊
    楊花とは,
    花に似るも,花に非ず,
    世上,春に花の落ちるを惜しむ人は多かれども,
    楊花を惜しむ人至って少なし

    古來,楊花は離別送別のかなしみ象徴であるがそれはなぜなのか?

    細かに看やれば,春に楊花の舞い飛ぶは
    點點と,是れ、離人の涙。


    いまちりちりに離れ,また遭うことの奇遇はあるか?
    離れることは遇うことにおなじ

    楊花の舞う情景を觀じて,
    その實中に虚を見,轉生變成の無窮をみる

    また。
    春色三分,二分塵土,一分流水

    かりに春の容姿を三分してみれば,二分は,化作塵土,一分は,流水,
    つまり
    花落ちて潰え塵となり土となり。
    年華如水,時流れゆく水の如く,
    流流轉轉,
    それが,春。
    なのだ,
    とゆう
    冬を經て萬物自生する春,春光は夏の熱に
    いかし春の花は來春のために落英する

    しかし
    百花と雖も,楊花におなじ。花開くは花落ちるに同じ。
    という禪定の境地をうたい
    なお。
    即物即人,兩不能別
    擬人化といえど,詠物の詞といえども,ヒト,モノ,事象,結合在一を詠いこむ,
    中國詩にはそういう作法があることが,
    あきらかならしめられている
    うたわれた情理。

    情景,的確にして交融する
    虚實相間の刹那をきりとった
    蘇軾の傑作中の傑作といえる


    蘇軾 《水龍吟次韻章質夫楊花詞》

    脈絡ないことさらになし,だが

    蘇軾は中國人11世紀の文人

    これに日本人に固有ドクトクの,と言われる "ワビサビ "に似たものをかんじるひとがいるかどうかはしらんけれども。

    禪のココロ,は中國が先行することは知っておいた方がいいだろう
    ネトウヨの言葉は真に受けると世界で恥をかく




    “人心有一部真文章” ―菜根譚

    令人不快。 「深信不疑」則危胎。

    奇胎は危胎, 胎はほどなく殆に向かう

    新聞を讀まなくなって一週間
    讀書がサクサクすすむ
    精神いたって健全
    心もすこぶる健康體だ



    邵雍《自餘吟》

     自餘吟   Zì yú yín

     身生天地後  Shēn shēng tiāndì hòu  身は天地の後に生き
     心在天地前  Xīn zài tiān dì qián.    心は天地の前に在り
     天地自我出  Tiān dì zì wǒ chū     天地は我より出ずる
     自餘何足言  zì yú, hé zú yán     自餘,何を言うに足らん

      自餘=爾餘 このほか


    イッタイ
    民の意と, “權” もしくは “權をささえる媒體” の作為

    つまらんことばづかいすれば,
    大衆迎合するメディアジャーナリズム作為と,
    大衆が,迎え入れたくなるオトギバナシを欲する意
    とは
    どっちがさきに,あらわれる?
    いや
    どちらの意が,さきに在る?

    かといえば
    これは
    ニワトリとタマゴどっちが先にゐたか?,というアポリアとおなじ
    であって,
    生命の神秘を解き明かさねバ,ゼッタイに
    不可解な時系列
    だ。と。
    あきらめることは,精神衛生上肝要なのだ
    もしくは心の安寧を得るためには

    胎とは殆ナノダ
    殆とは危也。


    兩者,の意,と,作為,もつれあって
    螺旋状に
    虚構の階段を
    昇ることは,

    惡いことではないね,なぜなら上に行くんだから。
    おっこちるよかましだろう。

    口々に
    いいあって,手と手を取り合って,
    和を號令し,和,せしめながら,がらんどうをのぼっていく

    らせんの階段に,いや大伽藍の堂堂に
    柱はあるか?骨格はあるか?とおもえば
    ある,

    そんなキもするw
    危者,在高而懼也

    それこそが國體であり,
    ニホンジンでいることの, “利” であるところ,支えてしかる,骨,だ
    そして。

    らせん階段というのが案外安全。
    直上の階段にくらぶれば
    直情徑行にくらべてなんとなく,シリョブカイ感あるし
    “旋” は多數を巻き込むにも都合がいい形状かもしらん

    バイ體が,
    戰爭を翼賛し,大元帥をたたえるべきだと考える,意
    民が
    それを良しとし,フルハートでもって歓迎する

    新聞も一個の企業シュ體。
    ショウバイする,の意が先に立ってしまえば,大衆に迎合,は “理” のトーゼンとなる。

    むかしむかし
    滿洲事變の異常性に目をつぶり
    なしくずしにすすむ關東軍の謀略を知りながら
    カイシャがつぶれちゃ困ると陸軍,關東軍にとりいり
    はては熱心に
    「滿洲國」へのニホンジン移民を奨励し。

    それらの作為はそのジツ,新しい王道樂土における朝日新聞の販賣部數獲得競爭,朝日新聞社の社運を賭した生存競争。
    なかなかに軍部に人氣がなかった時に白い目で見られていた朝日新聞,


    ゲンロン彈壓嚴しくなる中でやむをえなかった,というムキもあるが
    ソノジツ。
    特ダネをもらうためにも關東軍にべったりだった朝日の奉天支局。

    朝日新聞社が生き殘るためには仕方なかった
    そんなw

    ミもフタもない真實。

    戰爭のあまりにもおおきな,悲劇,
    とほうもない被害に比べて,拍子抜けてしまうほど ショボいその實相を

    朝日新聞社の,ジャーナリズムとしては,負の,異常な歴史を
    みずから,一切のタブーなく,われわれにむけて,
    是可是,
    ザンゲするでもなく,過去の作為者を弾劾するでもなく,
    淡々と赤裸々に,
    ただ “報道” した

    朝日新聞の,『新聞と戰爭』

    という連載が,かつてあった。

    連載當時わたしは。

    とりわけその取材班の4番バッターと言われたらし上丸洋一氏の書いた
    『社論の転換』章を,
    夕刊がただただ待ち遠しいと思えるくらいたのしみに,讀んでいた。
    そこに暴かれていたのは,それまで日中戰爭を追ってきたものにとっても
    “實り” ある事實の發掘であり,
    また朝日取材班の内面的,真摯な檢證の過程をよくしらしめてくれた

    集められ提示されたた資料もさることながら,その筆の
    “こころざすところ” が,わたしにつたえてくれたことは。
    とても重く。

    ジャーナリズムの主體として,朝日新聞は,信用できる,このひとがいるかぎり。
    そう想ったし

    自分たちがいる限りは。おなじあやまちはくりかえさない

    そんなかれらの矜持と信念をうけとったように思った

    だったとおもう
    もうよくおぼえてないがw
    夕刊に週5回,1年以上にわたってつづけられていた連載で
    東日本大震災のたしか4,5年前であった。

    丹念に切り取ってダイジに保管していたその紙面の束を
    わたしはw
    あるとき腹立ちまぎれに捨てちゃったが

    慰安婦報道問題で
    箸にも棒にもかからん粗雜なリヴィジョニストのリクツにしてやられ,一敗地に塗れた

    朝日が慰安婦存在をネツゾウしたなんてばかげた虚構を,信じ込みたいあまりにw
    朝日を途方もなく過大評価しているヒトビトにだ
    つまりはアベの一味とネトウヨどもに膝を屈して伏して謝罪した,
    そのときにだが

    『新聞と戰爭』
    いま文庫化されてるので連載年次を確かめるべく檢索すると。

    アマゾンの書評にぶつかった
    その書評は歴史知識のない人特有の讀まれ方をされたあげくの,
    もしくは歴史知識があり過ぎなw,ネトウヨレベルの感想文で。

    當時,歴史の事實や時系列有因有果を当事者意識を以て檢討したことがある人びと,や,戰爭體驗者に向けて書かれ,
    その,裏のそのまた裏が書き記された,部分は,
    どうもこの書評子讀者には傳わっていないようだ
    が,そういう書評に「役に立った」とこたえて買うのをやめたひとはおおいだろうなw


    連載當時の讀者の反應は決して輕いものではなく,重く考えさせられるものだった,
    それはまず第一に,アジアへの加害と侵略の實體を追い考えてつづけていた人々の心につたわった

    とゆうことで。

    いまアマゾンで本を買う人の多くは,(意圖してと意圖としないとかかわらず)ネトウヨ史觀に染められてる人々と思ってまず間違いないだろうし

    ドダイ,問題意識の設定,いや日中戰爭の根本的認識から,端的な事實認識からして違うヒトビトの書評ということになるし。
    あまりにも一方的に過ぎて朝日のこの連載取材班のかたがたには,ほんとうにおキの毒なんだが
    ・・・・・。

    柳条湖事件いわゆる滿洲事變のころ,軍部,憲兵隊,政治的の,朝日に對する壓力はあった,
    あったものの,侵略と事變の勃発に奇妙さを感じ,敢然と軍部,國策を批判した言論人はあったというのに,
    《朝日の中にもいた》

    まず東京朝日が,その後,大阪朝日が,
    論調を變える

    有形無形の,リベラル系新聞への壓力,朝日は弱腰だ,と戰爭好きの民の意による,不買運動もあった,
    新聞發行部数の減少にもおそれをなして・・・
    満州國建設と日中戰爭と太平洋戰爭を翼賛していくだけの作為のカタマリとして
    勇猛邁進した朝日新聞。


    永く深く廣い,「日本帝國」,と,「中華民國」の, “戰爭”
    のうち,
    大本營が設置されるだいぶ前に,起首を置いて,出出し檢證することがまずレアな試みなのである,とゆうこと

    つまり,まだ帝國が,「小さな經濟侵略と武力行使,そのゆえの小競り合い」として,卑劣にも戰爭を布告しなかった(わざと)そうゆう段階から事變擴大を煽ることに手をかしていた朝日新聞。

    この,『新聞と戰爭』にあらわされたことごと,檢證の試みとは,
    大本營發表を鵜呑みにして戰爭鼓吹したメディアという從來のサンザンなされてきた戰爭翼賛メディア批判の圖式から,
    より遡って,よりもっと根深いものをさぐろうという姿勢,でもってはじめられたものだった

    ことばをかえれば,まだ戰爭に疑義を呈し,逆に,反戰意羲を鼓吹することもできたのではないかという,そうした “為し得たはずの作為” と,
    “為し得なかった” ,朝日,そうさせられてしまった朝日をとりまく環境の,それぞれの限界點,動機と作為の閾を探る意圖,
    さらに
    意,もて探った結果,

    われわれは敢てなさなかったのだ

    という,結論を導き,その證左をあきらかにし,明らかにすることで
    “その閾値に不感でありすぎた”,という痛切な自責と自省,
    慙愧の念を自覺する朝日新聞 “主體” を,當時朝日新聞のある種の讀者に實感させてくれたのである

    そうした朝日自らの負の歴史を徹底的にあきらかならしめなければならない,今,それを,しなければいけないという問題意識が生じたきっかけはある讀者の一通の手紙にかかれたひとことだった,という,

    いわく
    「祖父のクチグセは 『朝日の論調がかわったら氣をつけろ』 でした」
    とゆう。

    ・・・・。

    戰爭の,侵略の,日本の,ニホンジンの,
    ことの因果関係や,なぜ “それら” が不問に付され,戰後忘れ去られてしまったかその消息を,
    その機微,
    歴史のキモともいうべき、アヤともいうべきを
    きちんと提示してくれたようにおもえた連載だった



    過去,朝日新聞が
    なんだかんだと “作為” をかさねてやってきたこと。

    いや,

    この時代のメディアのやったこと。
    といえば。
    極端にいってしまえば,こういしたリクツの普及でしかなかった,

    ――日本の農村の貧困を何とかするためだ――

    日本の農村では人口増,農地不足,食糧難,娘は賣られて,二男三男はタコ人夫,蟹工船というとき,

     滿洲という大地,中國人という主體が犠牲になるのはいたしかたなかろう?
     韓半島だって日本のモノにしてよかったんだから。
     朝鮮人も「支那」人も劣等者。無法者。ニホンジンに意味なく逆らう不逞の輩
     廣い大地も,資源もかれらにはブタに真珠。

    全く理のない日本人の身勝手を美辭麗句のスローガンで飾って “フィーバー” 作為した

    こうしう熱氣が因となって結果,

    一新聞社,一企業體の作為として,それは經營努力だ。

    内地で頭打ちだった販賣部數の伸び惱みが解消され
    王道樂土では, “世帶” が増幅したことでが飛躍的に販賣部數が伸びちゃった
    そうした,
    ちっさな有因有果

    そのさらなる結實おおきな “國益” とおおきな國益亡失,國家の敗亡
    とゆう起因而して因果有結實
    とわゆへ

    部數の減をふせぐ,新聞社の社運と,つぶれないための經營努力,社員たる記者の生活が優先されることは,
    そのときほんとうに “いたしかたなかった” かどうか,は,

    それをいくら考えてもヒトの價値觀はそれぞれである,

    ただただそれをもって,ヒドイと糾彈する資格も權利も我々にはないし今更できようはずもない。(しかしその是非をいつでも考えてつづける義務はもしかしたらあるのではないか?
    ある,とは,わたしは,おもっているが。)

    それはこと新聞社に限らず。

    あの時代はああなるより仕様なかった,いたしかたなかった,
    われわれも被害を受けたんだ,と言ってザンゲしながら
    責を,言いぬけて,責の負い,からまぬがれることができたのは,

    われわれが新しく “民” になることができたからである。

    “あの戰爭の主體としての國家” のその “國體の一部” では,われわれはなくなったから,な,はずだろう,
    臣民ではなくなった

    だからである。

    しかし敗戰後の焦土に立ちすくみヒロヒト氏とともにシノビガタクヲシノビ,
    共に戰爭責任からまぬがれたニホンジンは,

    しかし,ほんとうに
    責を言いぬけて,責の負い,からまぬがれることができた
    んだろうか?



    いまも,天皇とコッカ主體はいつでもわれわれの前になんとなく
    民よりなんとなく,お上にゐて,
    なんだかんだとお社にこもって
    天照と,何かの秘密の更新もとい交信をしているワケである

    教育勅語はいいこともかいてあっただの,
    幾ら天皇がガイコクに慰霊に言ってもそこにミタマはいない,だのw
    ゆーよーな時代錯誤フェチな連中だけでなく。

    すべては。
    國の民の質。キ質であり,アイデンティティ體

    そもそも

    アラヒトガミ曰ク
    『我が國人が英米を侮ったからである』

    この言葉も考えてみたらスゴイ!天皇ノー天機じゃん
    これほど大ざっぱで國民にシツレイなソウカツもないもんだが

    わたしはおもうわけだが。
    仰せの通り,というキもすごくする

    たしかに
    今戰爭といえば,アメリカとたたかったこと,特攻隊,大空襲され原爆落とされた日本,というイメージが日本人の大勢である
    「支那」を侮ったことなどすっかり忘れ、その「支那」に敗れた痛痒をかんじることもなく
    いまだ侮りつづけているのである


    『我が國人が英米を侮ったからである』

    敗戰直後の慙愧の念のカタマリであるし
    それは戰後のヒロヒト的國體の大御心であり,核心でもあるところの,
    ヒロヒト氏に言わせれば,言葉のアヤたるにすぎないの『戰爭責任』
    その,とほうもないおおきな欠落ということになる
    とゆう
    こんな “仰せ” の數數を日本の民が,理もて容認しない心,容赦できないというの情をもちつづければ,
    ソレはヒロヒトの欠陥でありつづけたが
    いまでは,そんなこを口にするものもいない。
    まるまる,正是ニッポンの,欠落ナノダ

    昭和の終わりに,それを聲にして銃撃された市長があったが
    ・・・・


    おもえば陛下とレイワしてキョコクイッチ
    コクミンなんだから。天皇の赤子,いや國主主義國家國の民,たるの民主體なんだから
    ナンチャッテ民主國家の整合性,とは
    レイワ的國民國體の風格であるし。
    しかもヒンカクなのである
    ヒンカクはやたら儒教を忌むが。

    天皇家そのものは儒教にその,徳性も仁質も,因し淫しまくっているのではなかったか,そもそも


    侵略と戰爭擴大に疑義を抱く機會,それを國民に提示することは必ずしもできなかったわけではなく,
    權力への抵抗,などという悲壮感を持たずにそれをすることは,本当は出來たのに,
    あの時點では,この時點までは。
    しかし
    「それを敢て作為しなかった新聞」,であった,という,過去のいきさつをおもう。


    そうした時點,時點を踏み越えていった,メデイア・媒體と國民國體。

    それは日淸,義和團事變,日露,ナニナニ出兵,ナニ國併合,ドコドコ出兵,

    明治の時代に幸德秋水を筆頭に,堺利彦ら,内村鑑三ら,が斷固として
    いや,敢然として反戰を訴えた姿勢とは程遠い

    しかしながら

    その “敢然” がため にこそ大逆事件は,捏造され,
    明治の終わりに,
    その處刑は
    天皇にとって實りあり,“功” あるものとなってしまったのだというかんがえかたもできよう
    その後の報道主體が,
    委縮也,
    國益追求に追髄する也,
    社益追求也に邁進したがために,功は大きく果となり,
    見せしめ効果は結實した,ともいいえようではないか?

    又こうも考える

    幸德秋水はお上によって,とにもかくにも法の下,處刑されたが
    敢然たる長崎市長の發言に對する銃撃は, “民”による “ テロル” であるとゆうことも。

    そしてこのテロルを最後に,日本では,
    こうしたテロルは,

    カミソリ贈られたり,通信販賣の商品を大量に送りつけられたり,すしの出前を大量にとどけられるといった
    簡便にして柔軟,レイジーかつフレキシブルな "テロル" に變容し,

    それはネトウヨがやってる限りは,ヤリタイホーダイという
    おおくのネトウヨが,かつての發言者や兇行者とちがって匿名體であることは,
    ゆうまでもない。




    鄭聲淫,佞人殆

    報道とは何か?

    人心有一部眞文章,都被殘編斷簡封錮了。
    有一部眞鼓吹,都被妖歌艶舞湮没了。
    學者須掃除外物,直覔本來,纔有個眞受用。
    ―『菜根譚』


    『菜根譚』は中國の處世訓を説いた通俗書
    検索すれば和譯はあるので,論語同様割愛だ
    (學者は,ガクシャのことではなく,
    學ぶということは,という意味だ)

    いつの時點もあっさり踏み越えられていった無謀
    踏み越える前にナニカ,
    考えるに資するナニカを報道することはできなかった
    「それを敢て作為しなかった新聞」,であった,
    という,過去のいきさつ

    そのことと
    假りに,考えるに資する何かを “報道” なり,意見陳述なりをしたなら,民がそこで考えることができたか,というのは

    そんなことはしったこっちゃないが

    たんなるメディアではなくジャーナリズムなら
    きちんとわれわれに,わかりやすく,考えるに資するなにかを提示させてくれるべきである
    すくなくとも。ジャーナリズム主體である,いや,そうなのるなら。
    いや, “報道” ,であるのなら
    そんなことを考えていた
    メーデーであった
    ケンポー記念日であった
    ごーるでんなういーくであった


    もう, “祖父の口癖を覺えている讀者”

    いなくなっていくだろうw

    異議を唱え,國民の狂躁に冷静をうながす視点に資するジジツを提示することは必ずしもできなかったわけではないのに,

    企業體と國體の,あくなき,利の追求,理の喪失,

    理念と信念とココロザシの喪失だったと,大いに “考えた” 自省したジャーナリストは,
    今このレイワ轉換フィーバーの中でいうべきことは,ほかにおもいつかなかったか,
    またもや
    國民に迎合することは企業として理のトーゼン
    という◯の追求にまみれたか?

    “ゲンロン彈壓嚴しくなる中でやむをえなかった” ,というよーな時代ではないんだし
    ??

    お上,とは,
    民主主義國體であるなら,それは “國” の主體たる民である。
    その民はなぜか,天皇の “德” に無条件の信頼を置く
    仁,にして清能有容, “國” を治むるの,お上が存り
    レイワに和せしめられて
    御國に淫して
    ゐる

    というような構圖,あふれる紙面

    そーゆうー理解でいいのかな
    ふむ

    戰後はその象徴たるにすぎないとはいえ,天皇家

    “仁” も “德” もヒトのヒトとしてあるべき姿と概念化したのは儒家だが
    儒教の神髄と五行思想を逆手にとってw

    建國以來万世一系の日本こそ世界に冠たる, “中華” なりと
    という,
    中國侵略の正當性と正 “義” の理論的構築したコクタイそのもの,
    マッタクワケのわからん “鬼見た” ようなハナシだが。

    孔子のたまうところの君子,徳ありと,易姓革命,これは何ら矛盾せず,
    そこに整合性を見出した,統治思想のダイナミズムが儒家の思想のキモだとおもっている
    わたしには,

    そもそも
    天命によって易姓できない民のおかげか,わがくにの天皇の德が世界中にかつて見られないほど素晴らしかったか,の檢證をすることなく
    いとも簡單に “思い,上がって,いった” 民の責である,ともおもえるわけだが

    らせん階段はまだまだ存續する
    いや,いつでもある,いつでも姿を現す

    天皇がいまだ存在するということジタイ(自體)
    萬民草自生に真っ向矛盾するジタイ(事體)としかおもえないのも
    わたしにはいたしかたないのでありる

    ロイヤルファミリーがいるのはかまわんがw
    いまどきジンケンのないロイヤルファミリーは世界にめずらしいので。
    やっぱり日本の皇室は,ろいやるふぁみりーじゃないなともおもうし
    わたしは今上と皇后に何の含むところもなく
    まして結婚時の,お約束を忠實に果たし妻を守りつづけたヒロノミヤさんには人間として共感を寄せていたし
    雅子さんの精神すこやかであれと。ジンケンのないことに痛ましさを感じてきたのではあるけれども

    皇室は皇室である,嚴然と天孫降臨をその實存として天子であらせられる
    ジンケンの埒外に在る
    つまり
    人,を超越したお方が天地に未だゐらせられるという,
    そのゲンジツには
    言いようのない不安と不快と東亞にとっての不穏をみることしかできない
    のだ


    さはさり

    天地自我出,自餘何足言

    いや

    ふと,韋應物の名句を想う,萬物自生聽

    韋應物《詠聲》

    詠聲  Yǒng shēng

    萬物自生聽  Wàn wù zì shēng tīng.  萬物自ずから聽(聲)生ずるも
    太空恆寂寥  Tài kōng héng jìliáo.     太空とは恆に寂寥なり
    還從靜中起  Hái cóng jìng zhōng qǐ  還た靜中より起こるとおぼしきも
    却向靜中消  què xiàng jìng zhōng xiāo 却つて靜中に向かい消ゆるもの
      


    ※聽=通 “聲" 。二字は古音においては聲母接近,韻母相通と,
        まさに此の句の謂うところ,



    うーん
    精神衛生上すこぶるよろし 

     還た, “靜中起こる” ,は,ほどなく, “靜中消えゆ” ,に向かう。
     意,あり,萬物自ずから生じ聽かしむ “聲” あり
     しかし,つねに太玄虚空は恆りて寂漠,ゆえ寥寥たり・・・

    こんなふうにも讀み解いてみる



    無主⑮“歌意終,詠令和”  幸德秋水 “堺利彦宛 書簡”

     歌意終, 詠令和   

     明治              Míngzhì.
     文明正始分明子    Wénmíng zhèng shǐ fēn míngzi
     大逆今猶埃氛死    Dà nì jīn yóu āi fēn sǐ
     昭雪交融草化成    Zhāoxuě jiāoróng cǎo huàchéng
     意移春靄竟秋水    yì yí chūn ǎi jìng qiūshuǐ

      

     平成              Píngchéng
     大勢會感平民子   Dàshì huì gǎn píngmín zi,
     聞道無聲皇大死   Wén dào wúshēng huáng dà sǐ,
     雖有晻明裕仁   Suī yǒu àn míng Yùrén xīn,
     誰不控制飮狂水   shuí bù kòngzhì yǐn kuáng shuǐ,



     令和              Lìng hé
     尚在我心東亞子    Shàng zài wǒ xīn dōngyà zi.
     今更誰爲言靈死    Jīntiān shuí wèi yán líng sǐ.
     何誂平坦令調和    Hé tiǎo píngtǎn lìng tiáohé,
     下雨零零流趨水    xià yǔ líng líng liú qū shuǐ.


    流水=水をながすではなくw
         水に流す
    .令=仄聲は命令,律也,法也,善也,告也
       




    昭和はけっきょくつくりきれなかったw

    昨日も今日も。
    臺灣からのストーリーミング放送で野球を見ていた。
    臺灣には日本のプロ野球ファンは多く,篤志家?wがスカパーのプロ野球を流してくれているのでグレイゾーンではあるが,テレビがないわたしもただで樂しめるわけ


    平成最後のホームランはわが紅鯉大刀,
    どみにかんぱわーふる,ドレッドヘアーのバティスタが放ったんだが。

    彼は試合後記者にその事についての感想を問われて

    昨日の時點で
    かれは平成が終わることも令ワが始まることも知らなかったそーだw

    おしっ

    と思ったしw

    ぽん。とひざをうつw

    それが唯一の救い?であった
    畫面には臺灣人,中國人のコメントが無數に流れていくが令和の字を見ないですむ公共空間は心地よい
    ちなみにバティスタは臺灣人の間では包大人と呼ばれているw
    包大人はおそらく包靑天ノコトダトオモウガ

    20190430.jpg

    おもへば。

    元旦,
    他にないからしょーがなくて讀んでるアサヒシンブン朝刊でヒロヒト氏の,お歌,
    を眼にして以來,
    なんだか知らんが天皇の事ばかり考えてたら結局幸德秋水のことを書く羽目に陥って
    すでにだいぶたつ

    なんだかなあー,とおもうワケ
    だが


    もとはといえば,天皇の退位の意向をうったえた “おことば” ,
    あの憲法違反につながりかねないアキヒト氏のご発言
    からはじまった,リベラル,左翼っを巻き込んだ
    「天皇,にんげんっぽいっ」
    フィーバーが始まりだったわけだが。
    すでにもう何度もこのことに関するブツクサは書きまくっているし
    いまさらなんだが。

    かててくわえて
    或る特定の宗教の淨闇だか、天照だか,
    よくしらんが,
    神に奉納する祭祀,秘儀,國事行為ではなくいわば私人としての一家の宗教行為じゃねーか,
    なぜ國民の血税が膨大な額に上るにもかかわらず予算審議も無しに野放圖に使われているのか,とかいうようなブスイなことをいうひとも表立ってはいいづらいのか,
    アキシノミヤのこれはいかがなものか?とゆうよーな蛮勇發言があっただけとゆう。。。。

    ホウチコッカでリッケンミンシュ國政體の謎めきは
    よりいっそう深まるばかりとゆう。。。

    先日來の朝日の論調には,世間と横並びというほどでもないにせよ,

    びうちふるな “國” の,うるわしき調和

    その情景を目のあたりにさせる記事ばかりで,ほんとにこんどこそウンザリだった。
    そもそも
    新聞なんてよまなくてもべつにいーんだがw


    日本語でいうところの,令和。
    英語でいうところの,びうちふるはーもにー?だと?

    コレはひょっとして,あの,不快な “どーちょーあつりょく”
    commanded "Tuning" ではなかろーか。

    もしくは,
      現代のアナキスト,ノムチョムスキーゆうところの
      めでぃあこんとろーる
      それも,日本國體版。
    などなど。

      まてよ,そーいえば,新天皇の最初の國賓は,ドナルドトランプ氏,だそーだから
      くるなよw

      日米合作,菊と星条旗の
      「令和」版バージョンアップかよ。
      おもしろいかも
      
    などなど,と要らぬことまで考えてしまうが

    けさのってた原武史の小言じみたひとことも。
    苦言とゆうには程遠くあたりさわりない事しかのってないし。

    そもそもあの,夏の退位願望玉音,に
    これはいかががなものか?と
    きちんとブツクサ,ぢゃないや,屁理屈,ぢゃないや。マトモなことを言ってたのは原武史だけだった。
    本人があの時は,ガクシャ仲間のうちでも,コドクだったと,言ってたのだからほんとに彼だけが言うべきことを言ってたよーで,というのに

    唯一。
    以前からいつもいーことゆう!とおもっていた齒切れのいい
    女性記者編集委員(高橋純子女史)のコトバくらい
    少し前のコラムだが。

    “あるひとに會いに行った” ,
    というコラムである
    以下 一部無斷轉載しておく


     新元號・令和の意味をいまひとつつかみかねていたのだが,英譯が
     「ビューティフルハーモニー(美しい調和)」だと知った時,我が腑にストンと落ちてきた。
     「赤信號みんなで渡ればこわくない」
     コレだ。
     小聲で孤獨にひざを打つ。
     ポン。 
     氣が重い。
     天皇に對する畏れとか,天皇をめぐって過去に流された血への恐れとか,そういうことから來る重さではない。
     むしろそのような、天皇制と向き合う際の基本の「構え」みたいなものがスコンと抜けてほぼほぼ見えなくなり,人々のあまりにも屈託のない語り口,わりと純度の高い「ありがとう平成」を目の当たりにして,有り体に言えば,びびってるのである。
     不協和音を奏でて怒られるのが怖いのではなく,奏でたところでもはや誰の耳にも感知されなさそうでコワイ,とでも言えば少しはわかってもらえるだろうか。
     30年前,あの人はどんな思いでいたのだろう――。
     新元號發表の2日後,ピアニストの崔善愛(チェ・ソンエ)さん(59)に會いに行つた。
     大阪市に生まれ,北九州市で育つた在日韓國人三世の崔さんは1981年,外國人登録の更新時に義務付けられていた指紋押捺を拒否した。
     大學2年生だつた。
     同じく拒否した父親とともに外國人登録法違反に問われ起訴された。
     「日本という鏡に映る私はいつも醜く,苦しかった。
     これほどまでに私を苦しめるものの正體を知りたいと,裁判で鬪ことを決心しました」

     崔さんの父は,日本の植民地だった朝鮮半島出身。
     朝鮮人を日本人に同化させ天皇に忠義をつくさせる「皇民化政策」によって,日本語で敎育を受け,日本式の名前に變えさせられた。
     裁判では
     「現行法を拒否した私が罪なのか,現行法が戰爭という罪から出ているのか,考えてほしい」
    と訴えたが,一審,二審とも有罪判決を受け,最高裁へ。

     ところが,昭和天皇の逝去に伴い,
     『遺徳をしのび,人心を一新する』 ための恩赦(大赦)の對象になることが決まる。
     崔さんらは拒否を宣言し,裁判での決着を求めたが,89年七月に免訴判決,つまり,起訴自體が「なかったこと」にされた。

     「象がネズミを噛んでも,ネズミが象を噛んでも,痛いのはネズミだけ。
     どちらにしても痛いなら,噛まれて自分を失うよりも,噛んで自分を取り戻したい」

     と,實存を賭けて臨んだ裁判だつたが,天皇の名のもとに「恩」をかけられ,「赦」された。

     「有罪以上の屈辱でした」
     
     大赦の英譯はアムネスティ。
     語源は「忘れ去ること」だという。
     三〇年が經つたいまも,崔さんは考え續けている。
     誰が,忘れ去りたかったのだろう?
     何を,忘れ去りたかったのだろう?

     令和元年まであと1週間。
     「フィーバー」と稱された發表時の盛り上がりは,ある種のリセット願望の表れでもあるだろう。
     イベント屋としての才にあふれる安倍政權はさすがにそのへん熟知しており,首相の記者會見では「希望」という言葉を七回使つて新時代の到來を演出していた。

     「多事奏論令和「フィーバー」 忘れ去ってしまいたいのは?」 
      2019年4月24日



    まあ,イベント屋としての安倍政權とはいうものの,
    そもそも天皇家,皇室ジタイ,國家イベントの主催者であること,

    コレを忘れちゃならん,とおもうが
    そしてその,天皇のイベント,ぱふぉーまんす,めでぃあこんとろーる,ヨロン誘導,戰意高揚,大本營發表,
    さまざま言いようがあるが
    それらことごとくに手を貸し,いや,戰前は率先しての,旗振り役としてがんばった朝日新聞が
    アベノ一味のやり口をあげつらうより,
    先ず,自社と天皇,皇室のとりわけ,明治天皇の神格化,明治から昭和の戰爭賛美,に,おおいに論調そうぞうしく貢献してきたこと。
    それを書くべきだ,などというようなことは考えてもここには書くまい,と思えてくるくらい(書いてしまったがw)
    このコラム。とてもすてきだ

    そう。
    忘れるなよ,
    だ。
    記憶される記憶がある限り
    くつがえしようのない反證は深い記憶のなか
    にあり,ありつづく

     世に死は多く  
     生も多い。
     ただ生かされてだけ  
     生であるなら  
     しいられた死もまた 
     生かされた生だ。
     國軍によつても守られることなどない  
     見放された自由のなきがらなのだ
     敵でなく,同胞であつてはなおさらない  
     他人のはずの民衆でもなく、



    ところでw

    もし
    大逆事件の公判が長引いて,
    まあ長引くことジタイが,そもそもフレームアっプ,あり得ないことだ
    公判はサクサク進んですぐ,處刑だったが
    そのあとワリとすぐ死んだ明治天皇だ,

    當時
    皇宮内には,夜な夜な幸德の亡靈がでてきて・・・というようなワケのわからんウワサバナシもあったそーだがw

    もし死んだおかげで大赦されてたとしたら
    幸德秋水なら

    どうしたろうか?

    崔氏ほどの煩悶には。

    直面しはしなかったろうな
    そんなことをも考えてみる

    それが,もしかしたら

    コクミンと
    祖國を亡失させられたディアスポラ,いわゆる “氓”

    そのちがい

    それをふかくかみしめかんがえるよすがにもなろうか
    と。
    そんなことをおもっていた

    幸德秋水の年老いた母は,高知から遠路はるばる帝都獄中の秋水に,處刑の前面會にくる。
    その旅程の疲勞,心勞もあってか歸着後,病に臥し,秋水の處刑の前に,亡くなった。

    周圍は幸德の母は自死したのではないか,と考えたものが多かったそうであり,また
    秋水自身も一瞬は疑つたようだ,とはいえ,
    すぐにその考えを自ら否定している

    堺利彦宛 書簡
           明治四十四年―月一日



    (母の)
    訃報の來る三日前に受け取つた手紙も,代筆ではあつたが
    「お前の先途を見届けぬ中は病氣なぞにはならぬから,ソンナことを心配せずとも本を讀んだり詩を作つたりして樂しんで居なさい」
    と書いてあつた,
    僕もマー病氣も出なかつた歟,と喜んで居た時だから若しや自殺ではないかといふ疑いがムラムラと起こつたのだ,
    僕が日糖事件のやうなことで入獄したなら,假令,輕罪でも,母は直ぐ自殺したかも知れぬ,
    今度の大罪も無論非常の苦痛を感したであらうが,併し是は僕の迂愚から起こつたことで,一點私利私慾に出でなかつたことだけは,母も諒してアキラメてくれたらうと思ふ,
    單に之を恥ぢた,とか非觀(ママ)したとかで自殺することのないのは,僕は,よく知て居る,
    萬萬一ホントに自殺したのならその理由は一つある,
    即ち僕をしてセメてもの最期を潔くせしめたい,
    生き殘る母に心をひかされて女々しく未練たらしい態度に出ないやうにとの慈愛の極にほかならないのだ,
    この理由に於てはあるいは刃に伏すことも藥を仰くことも

    爲しかねない氣質であつた。


     『幸德秋水全集第九卷』 明治文獻昭和四十四年一月十日初版





    これがしかし,自由の境地,というものか?
    とこれを讀んだとき思ったものである
    瞿秋白の獄中言志を讀んだ時も同じことを考えた,
    或る意味,自由の逆説的ジツゾンであると。

    また,假に,幸德が,

    萬萬一,大赦で,罪を不問にす,
    忘れ去ってやる
    とのオオミココロに
    直面したなら

    大赦いさぎよしとせず,

    自ら死を選ぶこともありうる,と。われわれは考えることもできよう
    幸德秋水自身に,選擇の余地はあるだろう,
    しかし。

    崔氏,また。
    大勢の朝鮮人民、韓民族。
    彼は,彼らは,


    平成という現代に至るも
    うむをいわさず大赦,せしめられる。

    さまざま,作為,せしめられてきた


    こうした作為,これを。作為するその主體。

    そして,行使できる,あるいは,

    和,せしめる,

    こと

    これをしも,
    まさに “權力” というのだろーが。
    (自由といわないことはいうまでもない)

    もしくは

    大君,
    おおきみ,の大權,とゆうものであろーが。

    整合性など,もとよりいっさいないが。

    ととのうてあるもの。
    The 調和

    調和は
    埃氛は。
    “理” を超越す。

    それが,象徴
    日本のアイコンだ

    幸德秋水⑪“社會主義者の座右の銘” 北一輝 『支那革命外史』

    幸德傳次郎ほどの著名人で,傳奇的面白さをもった生涯を生きた人は,
    毀譽褒貶さまざま
    たくさんのジンブツ傳あり,
    研究書もたくさんあれば,アナキズムハウツー本から小説まであるわけで
    それらもきっとオモシロイだろうと思うのだが

    しかし本人 “幸德秋水” が書いたものがヤッパリ一番オモシロイことは

    いうまでもないのであるw



     “社會主義者の座右の銘

    一, 子曰,知者不感,仁者不憂,勇者不懼。
    一, 司馬牛問君子,子曰,君子不憂,不懼。
       曰,不憂不懼,斯謂之君子矣乎。
    一, 子曰,内省不疚,夫何憂何懼。
    一, 子曰,志士仁人,無生以害仁,有殺身以成仁
    一, 子貢問曰,有一言而可以終身行之者乎, 
       子曰,其恕乎,己所不欲勿施於人。


    以上論語に出づるの語, これも僕の病に中るを覺ゆ, 即ち平生愛誦
    して座右銘に充つ, 但だ,性駑鈍にして, 未だ寸毫の躬行する所なき
    を恥づるのみ。

     
        「光」一卷三十一號,明治三十九年十二月二十五日,幸德秋水

      




    これから劉師培のハナシにすすもうとおもっているのだけれども。
    先頁に景梅九の書いた,幸德の持している,『道德論』,を載せたが
    その裏付けとなるところの一端をまずは幸德秋水のことばで載せてみた

    明治三十九年(1906年)が終わろうという,時期に書き殘したところの,幸德秋水の「座右の銘」。
    であるが


    わたしは,ガキのころから,「偉人伝」とゆうものがイマイチ好きでなく
    理由などなく生理的にキモチわるくなる
    なんだか讀中,ムズムズとして讀後はモヤモヤ過ぎてだまりこんでしまうタチだった

    讀んではじめて面白いと思ったのは司馬遷の『史記』の列傳だったwというワケで
    今から考えるとつまりは
    「万人から禮讃される生涯などありえない!」,
    というギワクに幼少のころからムシバマれていたからだったんだろうか,

    長じてからも,ひとが書いた「ジンブツデン」とゆうものを無意識にか避ける傾向がある。人の評價によって自分の「考える營み」が,影響もしくは邪魔されたくないというセコイキモチもモチロンあって

    さらには生前書き残したものが山ほどあるなら
    とりわけ,讀むに特段の苦勞もいらない日本の「文人」なら
    その本人の書いた文章を “きちんと” 讀まないうちにジンブツデンを讀むことはシツレイかも,
    とかおもって
    他人の批評は意圖してさける,とゆうことをするようになった。
    わたしが幸德秋水に興味を持ったのはもうだいぶモノゴコロついてしまってからで
    すでに「他人の書いた評傳,批評は讀まない」
    ことになってしまっている

    それでも全集を讀んでいると
    全集には親類縁者友人の書いたものや編者のあとがきや解題,解説が必ず付くので,
    また,「月報」という,なんかオモシロいものもおまけについてくるw

    それは目を通すことなる
    それだけで十分かなと。
    それを讀めばだいたい,どんな批評,評価が下されているのかはわかるし。
    とおもっているのだが

    どうしても別の關連から,眼に入ってしまうことは多々あるわけで
    なかでも
    とりわけマルクス主義者が書いた幸德秋水へのワルクチというのは
    不快なものがおおくw
    とはいえベツに
    ハンタイ意見は,わたしはよみたくないし,うけつけつけません,

    というのではなく,それなりに面白く讀んでいるし,
    幸德秋水への理解が深められ勉強にもなる。
    しかし。

    こと
    ここに “中國” が絡むとなると
    とたんにこれがわたしのフクザツな心情事情でもって,カンタンに,不穏な感情がバクハツするw

    中國のアナキストと幸德秋水のかかわりについてかかれてあることジタイあまりないというかほとんどない,とおもうんだが
    ・・・・
    ムチャクチャな批判が加えられていることが
    ある。
    ・・・・・。

    後の世,に.。
    ずいぶん偉い歴史學者のセンセイが
      幸德秋水は自身のアナキズムに足をすくわれて,中國革命に
      何らの利をもたらさなかった
    的,
    ひいては
      中國同盟會内部の確執には,幸德にも責を負うべき一端がある,

    幸德秋水への批判を加えている

      幸德秋水は,中國人革命家のことを,なにもわかっていなかった
      彼ら中國人に幸德がつたえ啓蒙したつもりの革命思想,
      つたえた張本人である幸德秋水自身が,中國革命の意義を理解できて
      いたんだろーか?

    などなどと。

      アナキズムを崇拝するあまりに,中國人民の民族主義が素朴に発露された
      感情と發露,不買運動の萌芽といえるとりくみを「鼻で笑った大杉榮」
    みたいな,
    ましてや
      幸德や大杉らアナキストの中國革命家を啓蒙教導してやろうという思い上がり
      それはもとはといえば「アナキズム」に魅かれてしまった幸德秋水の弱さのせい

    などという,ソウカツがなされるならば・・・,
    w
    幸德秋水を批判したいのか,そもそもアナキズムを批判したいのかよくわかんないし

    社會主義にかぶれたヒトのポレミックな批判精神がフルハートでもって發奮されると
    しまいに,ナニを批判しているのかサッパリわからなくなってくるとゆう凡人の陥りやすい穽,わたしも自身が抱えている痾だが
    がw
    すぐれた學者でもソコおなじなのか??とか
    何を目的にコレを書いてるのか??とかいろいろ
    その背景を勘ぐりフカヨミ,とっても示唆に富んでいて時代時代の流行やその人の個性をカンジさせられ,すごくおもしろいんだが
    (わたしは,なんとなく。そもそもこの評者は中國人革命家のシッチャカメッチャカとフクザツを理解しているか?とか
    もっといえばひょっとして中國への侮蔑的視線?を感じるところおおいにあり,か?とついついリテラシーをハッキしてネクラな猜疑をしてしまうが,そもそも日本國史が専門の日本の歴史學者の中國蔑視はハナハダシイこと多々あり。)

    それはともかく。
    目下の課題,であるところの

    中國の,清末民初,中國人革命家の「アナキズム」

    というのは,なぜか異常なことに
    とんでもなく民族主義的であるというのは,時代の要請としてありうることはもちろんわかりやすく,しかし

    時代,とかゲンジツとか,カンケーなくもっと本質的ラディカルなところで

    當時の日本のアナキスト,もしくは社會主義者は,そもそもわかっていたか,いなかったか,といえば。

    當時,こと,幸徳やとりわけ親密にかれらとエスペラント學習を通じて親しく交流していた大杉榮は,よくわかっていたはずである,

    とわたしはは考えていて
    そのことをわたしが信じる理由はもちろんいろいろあって
    (やみくもにデンパケイ的に確信しているワケではない)

    こと,幸德秋水の書いた「漢詩」,漢籍を利用して書かれた言説,が,さまざま漢人革命家の書いてるものとそれほど内容的に隔たりないことが確信できるからなんだが
    (「漢詩」で以て,その人の考えが理解ができ得ると考えることジタイ,そもそも
    デンパケイのショーコじゃん,と言われりゃそれは反駁できないのが苦しいトコだが)


    當時幸德秋水が心酔していたアナキズム理論を自身が普及させたいと考えた,幸德のココロザシ,
    それこそが中國の留日學生たちの心をとらえていたということを書きたいし
    そしてまた同時並行的に
    中國のアナキストたちに切實な共感を寄せ愛情ある支援を行っていたこと

    最終的にもう少し書いて強調したいと思っている

    つまりは,幸德が
    彼らの
    「ナニ」に觸れて
    「ナニ」を善し,と考え,病苦と貧窮,日本國體(國民)からの迫害の中で
    わざわざ貴重な時間を割いて,かれらの革命に資するであろう何かを提供したいと考えていたか
    ・・・・
    幸德秋水はもともと,中國の知識階級に近いほどにも中國思想の涵養を受けていたことは,知られるところだと思うが
    その幸德が,中國の第一流の知識人,國故斯文とりわけ先祖代々考證學を家業としていたような文人たち,と,何を土臺に何を話し,何を教え,また何を教えられ,むしろ何を彼らからうけとったか,ということはなかなか明らかになるようなことではなく想像たくましくするしかないのだが
    ・・・。

    ザンネンながら幸德秋水の「西洋新思潮アナキズム」は,
    中國の革命思想――それが民族主義的であれ社會主義的であれ――その發展になんら資するところがなかったように言われる
    しかし。

    ある思想が,社會になにかの “資” を,提供する,
    それ,そもそもどういうことなのか

    いや,それよりもむしろこう書いたほうがいいか,

    文學,詩,哲學,そういうものはヒトの人生に資するものである,というのは日本人の理解としてわかりやすいけれども

    そして, “思想” は,政治や社會に資する
    というとき,

    その “思想” ,と,は,イコール “文” である,という

    中國人の理解。

    あるいは
    蓋文章經國之大業、不朽之盛事
    「蓋し文章は經國の大業にして不朽の盛事なり」


    というフキュウの名句を想えばわかりやすいかもしれないが・・・・・,

    清末の中國文人革命家にとって
    ある “思想” の一家をたつる,とは,すなわちどういうことなのか。

    ・・・・・・・。
    畢竟,それは “文” とはなにか。
    いや,文人のレゾンデトル,とは,
    というハナシにもしかしたらなってしまうのかもしれないが

    現状そもそもかれら漢族の “國家” ,は別の民族(滿洲女真族)による,そしてまた列強,日本帝國を含む,先進諸國の,軍事力,グレータアインペリアリズムの國策による,干渉と,統治支配,經濟的搾取が,横行する
    民,を苦しめる
    淸國政體の手を介さず,外國民間資本が直接手を突っ込んで酷い搾取が行われたりさえ,しているなかで。

    被壓迫民族にとっては民族主義による革命が道理であるのはもちろんだが
    その民族主義を発揮しようにも。
    だ,

    壓迫主體もいろいろある。
    その支配の手法もイロイロ,
    したがって支配側の美辭麗句も,もイロイロ
    そこから抜け出そうという誘いを掛ける 外來“思想” もイロイロ。
    邪惡な動機も,様様,形形色色せめぎ合っているのである

    彼等は, “二重二層の桎梏”,二種の政タイ=コクタイ によって
    堪えがたい苦痛,アッパクとサクシュをうけていた
    その桎梏から,彼らが,“解放”,されるためには?

    “桎梏” の一層,内側一重には,一種たる清王朝という女真,愛新覺羅姓の政體。

    これを倒す,覆さなければいけないと言うとき,それは,
    攘夷光復なのか,叛亂易姓革命なのか?
    というリクツが
    鄒容,章太炎,劉師培らによってまず,三者三様ではあるが,整理され,
    まっさきに,そして執拗に繰り返し提示される。

    そういう “桎梏”の, 更にその外層には,もう一種ある

    大英帝國の前盛期初頭からの經濟侵略侵寇,
    帝國ロシア,という國境を接する隣國からの脅威
    仏領インドシナ,の宗主國フランス,朝鮮半島宗主国の帝國日本。

    阿片戰爭から清仏戰爭,日清戰爭,義和團事變,日露戰爭
    すべての戰爭は中國領土内で起こされ,遂行された。

    さまざま思惑から,この一種と第二種の主體は手を結び,又反目し,
    かつ,
    第二層の複數ある主體同士もそれぞれ手を結びあう,もしくは反目する,
    中國というおいしい大きな果實ののために,或いは配分を巡って。

    そんな “瓜分” されつづけた大地の中で,何を惡とし,だれを敵とし,だれを味方につけカクメイするか,なんて無數の方法論,優先順位があるのはあたり前である

    しかも,
    中國大陸は,
    やたらひろい。むだにひろいといえるほどどうしようもなく。めっちゃひろいのである

    北から南まで,混亂の因果,混亂を起こす主體,主因はさまざま
    北は帝國ロシア,南はフランス,東南は大英帝國,東北は新興の日帝がメチャクチャをやる,各國やりたい放題というなかで

      改良でいい,いや改變だ,
      それじゃダメだ革新だ,
      革命だ,
      尊皇攘夷,扶淸だ,
      いや,攘夷だ,皇帝は異民族ぢやねーか

    からはじまって

      白人攘夷が先だっ,
      いや同じ黄色人種がわれわれの黄土を支配しようというのがきにいらん
      ちがうそもそもアイシンギョロがいかん,日本は夷族としてはそれよかマシだろう,

    もあれば,

      いや西洋だ,カガクだ,サイエンスだ,アメリカはスゴイ
      いや,ドイツ社會黨だ
      それよりマルクスだ,いやレーニンがすごい
      中國は農業國だ。ナロードニキだ。
      まずは暗殺。虚無黨という手もあるぞ
      トルストイ流無政府主義がいいな。アンチボナパルトだ!
      いやクロポトキンだ!マラテスタだ!
      マッツィーニだ!
      バクーニンはひとでなし!

    イデオロギーによるならどんなイデオロギーに依るか?據るか?
    どこにならって何を鍛えて,
    東亞の病夫といわれた無能の大國を健康タイにすることができるだろうか




    かつ,ダイジなことは

    中國ドクトクの方法論も古來から綿綿と受け継がれる傳統としてあるのである,
    ということ

    根深い老荘思想と,野に隠棲する自由主義思想は,田園のなかに隠れ濳む

    秘密結社と宗教結社の暗躍は “水滸” の時代から,
    いや郭解朱家の時代から脈々と野につたわり流れてそもそもが無政府主義的方法論の一をなす

    そもそも
    白人,黄色日本を追い出すという「攘夷思想」自體に
    國粹主義的なところはもちろんあり,
    彼等,中國革命家の中には,
    “志士仁人,俠骨丹心” から,無生以害仁,有殺身以成仁
    カンタンに虚無黨みたく發展していく,
    或るいは佛敎大同思想からの連想と敷衍で,
    すべてはクウであるといって出家スルのもある
    ということで


    そのうえにだ,これらを通じてなによりダイジなことは


    彼ら漢民族のインテリゲンチャのなかには嚴固とした “中華思想” ,( “中國の思想” ではない,自國 “文明” が中心という思想,トランプ流 “自國ファースト” というのとは似て非なるが)

    「中體西用」原則
    があり,
    (これは和魂洋才の和魂などというホンワカしたものでなくもっと實をともなった體,それへの自負心をあらわすことばだ)

    そもそも最新の, “用いられるべきところの” 西洋思想,を,さえも,
    用いる以前に,かれらはかれらの内なる「孔孟老荘」を「用いて」,アクロバチックに消化淘汰してしまう,

    という,

    そういうかれらの癖。習性。

    「中國はもともと文明もってる」的,自尊心
    そういう中國人。革命家

    だから。

    幸德がはたして
    “彼らを,また彼らの革命を理解したかしないか” ,
    というとき,

    この中國人の癖,習性は,まず,理解の對象として,あるべき大前提にしなくてはならない,

    ということになる。
    そして。

    漢民族はいま,攘夷をして光復する!,そのうえでカクメイするのである!
    と主張した人びとのなかに

    清朝を追い出して次に,われわれを指導してくれるどこかの既存の “くに” 概念
    をむかえいれよう

    などと考える人は,革命家に限ってはいなかったのであるw

    これはあたり前,

    彼らは漢民族の復興,漢民族によるあたらしい,なにか,國家,もしくはコミュニティ,共和國,立憲民主國でもなんでも――とにかく,社稷の合同,そのよりどころとして存るべき政體あるいは非政體,の,樹立,を
    目途にすえていたのであって

    これをまずはとことん理解しないといけないのであるが。


    とりわけ幸德秋水と彼ら中國人革命家の接點があった時代。
    まだ清王朝が日本政府を通じて中國人革命家の結社や出版物を簡單に邪魔立てできるのだ,という時代。

    同じく深刻な迫害を受けていたものどうしである
    彼らの間にあったシンパシーには様ざまな情感あったろうことを想う

    つづく


    ちなみに北一輝の著述も寫しておく
    『支那革命外史』(1916年(大正五年) 第四章後ろ半分

    少し長くなるが一部だけ引用,というのはよくないことだとおもうし。
    この文章ジタイすごく面白く。
    そして
    太字にしたところが幸德秋水と中国アナキストの接觸,というところ
    是から書こうとおもう劉師培一派の裏切り行為ということになるしw

    下線は人名,太字『』組織,出版物など固有名詞
    ※不肖=北一輝自身の自稱


    『支那革命外史』 第四章

     回顧は大觀に止むべし。
     明治三十八年,内田良平宮崎滔天二君等の斡旋によりて所謂廣東派と湖南派の合同となりて『中國同盟會』なる秘密結杜は東京に成立したり。
     十年前の微力少數にして半覺醒なりし當時に於て二省は革命の先達としてあたかも維新前の薩摩と長州にも比すべし。
     薩長の反目が倒幕を挫折せしめその握手が維新の中堅たりしに視るも,黨と系との合同を策せる二君の功績は後の民國史を編すべき隣國史家の閑却すべからざるところなり。

     しかしながら合せ物は終に離れざるべからず。
     孫逸仙君の米國的思想は勢ひその運動に於て餘りに多く世界主義的なるに過ぎ,黄興君の系統のむしろ排外的なる國家思想と距離甚だし。
     則ち同一目的の下に或る機會に際して連合し得べきも一黨として融合すべきものなりしやはもとより問題たりしなり。
     加うるに『訄書』を著はして明の復興を唱へたる章太炎の出獄して,三百年不世出の文豪たる雷名とその熾烈なる國粋的覺醒を齎らして來り投ずるあり。
     大陸的豪雄譚人鳳の江畔一帯の哥老會匪を率ゐて負嵎虎睨するあり。
     當時其内訌が不肖の入黨數月後に起りしを以て諸友は不肖の行動に責を負はしめたり。
     しかも不肖は彼らの思想的色彩の漸く鮮明ならんとするを悦び覺醒の各々向うところに徹底せんことを望みて敢えて自己一身の非難を顧慮せざりき。

     思想の異同に依る離合は氣運の計らい以外に人工は多く效なし。
     君が革命の始を爲せりという廣東獨立案と,等が各々企てゝ各々破れたる明の復興運動とは,已に國家觀念の根本に於て越ゆべからざる溝壑あり。
     更に章太炎の鼓吹により日本的思想の普及によって彼ら領袖らの覺醒が深刻を加うるに從い,君の世界的民主々義と他の凡ての國粋的復古主義國家民族主義とは當然に手を別たざるを得ず。

     疎隔の事情は今日之を是非するの要なし。
     君の英米化せる超國家観を以てせばその追わるゝに當りて日本政府より出でたる數千金の餞は亡命客に對する國際的憐憫とも解せられたるべし。
     しかも太炎の國粋的自尊心を以てすれば君が留學生を率ゐて去るの威を示さざるを憾み,何ぞ阿屠物を密かにして喪狗の如く追わるや,となして總理辭任を迫れる所以も解せらるべきなり。
     隔裂が如何なる動機を假りて來たりしにせよ,かくの如き思想傾向の兩極的相異は凡ての行爲に悉く相異を生じ,革命運動に於て亦自ら撰ぶところを異にせざるを得ず。
     大同團結的氣勢を殺ぎし當時一時の遺憾は,今日之を顧みるに各自の思想に基く運動の自由となりて大局の幸慶たりしものゝ如し。

     寛洪にして彌縫を事とする君は合せ物と考うるよりも疎隔その事を憂惧したり。
     熱狂兒,張繼君は當時已に一黨の輿望を負ひて立ち,革命の前に先づ革命黨を革命せざるべからずとして排の第一先聲を叫びたり。
     彼は黨首の恃むべからざるを視て自ら暗殺團を組織したり。
     太炎はその炎炎たる火筆を揮つて亡明の熱涙を留學生團の熱頭に注ぎたり。

     四十年夏,君憂を抱いて南に去り故宋敎仁は北の運動より歸り來れり。
     君に導かれて來訪せる彼は交を重ぬるに從ひてその組織的頭腦と(秦)(儀)的才幹の誠に歎賞すべきものを具備したりき。
     彼は冷頭不惑の國家主義者にして生れ乍らに有する立法的素質はその集團を組織するの任に當りたりき。
     革命指導者等の最も能く覺醒したる當時の一二年間に於て,彼の完璧なる國家主義は太炎の國粹文學,張繼の雷霆的情熱と相並んで如何に遺憾なく革命黨の理論と情熱と組職とを作り上げしぞ。
     しかも不幸は革命に伴う影なり,君は鎭南關に再起する能わざるべく破れたり。

     汪兆銘君等は攝政政王暗殺の成らずして終身の獄に捕われたり。
     幹部に在りし一員の飜えりて彼らの釜中に毒を投じて世を驚かしたるあり
     隣國政府の依嘱によりて唯一の鼓吹關たりし『民報』の日本官憲より永久に發行を禁止さるゝあり。
     不肖の幸徳秋水氏に介せるが禍して君の思想は意外にも無政府主義に奔逸し僅かに捕吏の手を免かれてパリに逃れたるあり。
     かくの如くにして去り,去り,去れる後の中國同盟會は聲焔の外に顕わるるものなく日本官憲の彈壓亦甚しくして,來り顧る一遊侠子だになかりき。
     しかも故君の卓越せる組織的天稟はこの間に於て著しく發揮せられ,深透擴汎して止まざる國家的覺醒民族的情熱はこの間に於て殆ど一黨一理想の健確なる結束をなし,實戰の敎鞭に打たれて愛國魂を鍛冶されたる軍事留學生は亦この間に於てその征服者と戰うべき叛軍の訓練の爲に陸続として歸郷したり。
     而して實に革命勃發の二年前,故君は團匪的豪雄老を擁立して徐ろに密かに愛國的革命運動の参謀府を主宰しつゝあるを見たりき。
     かくの如く不肖は少しく考うるところを異にして去後の支那革命黨の暗黙なる秘密運動に接近したるが故に,武漢爆發の運動につきて誤りなき真相を敍述し得べし。

     思想の相異は當然に運動の袂別なり。

     米國的思想より出づる運動方法はその獨立の密謀と共に英本國の抗爭國たる佛人より多量の武器弾薬を給付されし便宜に習ひて,隣國の黙諾の下にそれ等を密輸すべき『辰丸』を浮ぶることにありき。
     而して覺醒せる愛國者は日本が清國政府と何の抗爭の利害なきのみならず,その保全が犯すべからざる外交方針たるを以てこれを一白晝夢となし,辰丸事件によりて蒙れる如き國家的侮辱は彼らの愛國的情操より繰り返すを許さずとしたり。
     もとより彼らは獨立戰爭と革命運動との學究的考察を經て茲に出でたるものに非ず。
     又米國の創設と支那の革命との比較的差別を發見して撰ぶところを取りしものに非ざるは論なし。
     只彼らが支那人にして運動が革命なりしが爲に,米人の行きしところと方向を異にして斷岩絶壁の革命道を蹌踉として歩みたりき。
     則ち叛逆の劍を統治者その人の腰間より盗まんとする軍隊との連絡これなり。

     ――革命さるべき同一なる原因の存在は革命の過程に於て同一なる道を行く。

     實に腐敗頽乱して統制すべからざる軍隊は古今東西,革命指導者の以て乘ずべしとするところ。
     彼らは全黨の心血をここに傾注したり。

     フランス革命に於てバスチールを陷れたるとき已に近衛兵二大隊の援助を得,國王をマルセーユよりパリの議会に引致するときスイス傭兵三百名の死守せし以外親兵護國兵の凡てが戈を倒まにしたる歴史を見よ。
     對岸の島國より一発の弾丸と雖も密輸せられたることなし。
     維新革命に於て薩長の革黨がその藩内の幾政爭に身命を賭して戰ひしは蝸牛角上の爭ひに非ず。
     その藩侯の軍隊を把握せずんば倒幕の革命に着手する能わざりしを以てなり。

     攘夷せんとする外國の浪人より囂々たる助カを受けたることなし。
     支那が革命さるべきならは革命の途は古今一にして二なし。

     特に當時青年トルコ黨の軍隊を味方とせる革命の成效は如何ばかり彼ら指導者らを啓發したるべきぞ。
     彼らは米國的夢想家が黄白二人種の二大連邦共和國と比較して自ら樂しむとは正反對なりき。
     常に割亡さるべき悲慘なる對照として中亞の老大國を悲しめる東亞の靑年黨は,實に愕然としてトルコ革命の實物敎訓に決起したり。
     トルコと支那。
     靑年トルコ黨と中國同盟會。
     天下またかかる符節を合する如き同似あらんや。
     この如くにして半亡國の要求に沒交渉なる米國的夢想家と分離したる革命黨領袖の多くは更にその革命運動に於て外邦の武器を持たず外人の援助を仰がざる革命の鮮血道を踏歩したりき。

     四十三年夏、追われたる君は突として來り,數日にして再び追われたり。
     故君との會見は誠に冷かなるものなりき。
     不肖は當時親しく接近してこの數年間の思想的徹底より來れる革命運動の漸く正道に入りて躍進しつゝあるを視,分割の亡運或は彼らの頸血によりて既倒に廻らし得べきを待望したりしなり。 而して他方,幾多日本のいわゆる支那浪人等が置酒高歌して當時尚廃銃拂下運動を以て大に東亞の大策に參畫しつゝある殘酷なる滑稽を眺めたりき。
     この滑稽劇は頭山犬養二氏を座頭として翌四十四年,革命地方を興行し廻われる脚本の一齣なりとす。
     あゝ諸公。
     かくの如くんば國士窮時の交によりて賓客たるべきも,革命運動の参與指導を以て誇負するは僭も極まれりとふべし。

         『北一輝著作集 第二巻』  みすず書房






    北一輝著作集第二卷 石母田正著作集第一五卷
     北一輝著作集第二卷  石母田正著作集第一五卷

    つづく

    劉申叔③《長亭怨慢・送春》,朱靑長《哭劉申叔》

    春去也、落花流水,畢竟春歸何處

    きのうの如夢令よりも更に惨憺たる送春曲。

    この,一曲,聽くも,金樓に歌を殘して,
    沈沈たる簾の絹,東風,暗く度る。
    萬點,慘たり,“無主”花の紅
    閒門に嫣やかに笑う。


    是が中國の,アナキスト。革命の詩人狂骨,自由高歌!
    とゆう。

    水に落ちる花辮を,
    飄零として,游絲が道を横切るさまを
    看ては,ゆく春を惜しむ
    畢竟,春は何處に歸る?

    幾番と行くを閲す
    芳しきときは万事,飄零として,輾轉と,
    ホトトギス,誰を憐れみ啼くか血を吐くごとく,

    一氣呵成に天の理をうたいあげる
    下片の
    すばらしさ!

    那挽得韶華小住
    閲幾番芳事飄零,又化作漫天飛絮



    那挽得,韶華小住は,
    挽かれ行く春の光よ,しばしとどまれ
    というカンジだろうか
    この七言は三字,四字,で區切って解する

    輪流更代,替天又化作。
    杜鵑啼血,婉惜送春歸・・・・

    Individualist anarchism にはまった國粹主義且つ革命家詩人,
    清末民初,近代中國の矛盾を一身に背負ったかのような。
    痾えるインテリゲンチャ

    絶世の美女(といわれた)を妻にしながら性的不能者であったという

    體制に絡めとられ,さいごは “轉向” どころかスパイ密告者となって革命を裏切った

    劉師培,

    であるが。

    帝都日本にて。
    幸德秋水,大杉榮らとの交わりの中で,
    アナキズムに傾倒する

    社會主義講習會, ☞ 亞洲和親會の中心人物
    一九〇七年のこと。
    次からそのあたりを。


    《長亭怨慢 送春》 劉師培


    長亭怨慢 送春  Chángtíng yuàn màn  Sòng chūn

    聽一曲、歌殘金縷       Tīng yī qū,  gē cán jīn lǚ
    沈沈簾幙,東風暗度     Chénchén lián mù,  dōng fēng àn dù.
    閒門嫣紅,萬點慘無主   Xián mén yānhóng, wàn diǎn cǎn wúzhǔ
    懨懨人病,             Yān yān rén bìng,
    弄得春光遲暮           nòng dé chūnguāng chímù.
    看九曲闌干,           Kàn jiǔ qū lángān, yǐ
    已無復流鶯軟語         wú fù liú yīng ruǎn yǔ.


    春去也、落花流水,     Chūn qù yě, luòhuāliúshuǐ,
    畢竟春歸何處          bìjìng chūn guī hé chù.
    游絲橫路               Yóusī héng lù.
    那挽得韶華小住        Nà wǎn dé sháohuá xiǎo zhù.
    閲幾番芳事飄零,       Yuè jǐ fān fāng shì piāolíng,
    又化作漫天飛絮         yòu huà zuò màntiān fēi xù.
    曉夢畫樓西,           Xiǎo mèng huà lóu xī,
    啼血誰憐杜宇           tí xuè shuí lián dù yǔ.


         劉師培(申叔,光漢)1884-1919

           劉師培(申叔,光漢)1884ー1919



    朱青長と劉師培の關係はよくわからない

    この詩を読む限り,だが,
    革命の春秋にての交わりでは恐らくないと思う
    朱青長は四川の人  辛亥革命後の國士舘顧問。
    劉師培は一時期四川の國士舘に職を得ていた

    《哭劉申叔》朱青長


     哭劉申叔 二首選一

     錦江帆布送君歸   Jǐnjiāng fānbù sòng jūn guī, .
     碧柳章臺訪少微   bì liǔ zhāng tái fǎng shǎo wēi
     瘦馬高車遊子倦   Shòu mǎ gāo chē yóuzǐ juàn,
     寒天修竹美人稀   hán tiān xiū zhú měi rén xī.
     葳蕤玉樹埋黃土   Wēi ruí yùshù mái huángtǔ,
     零落金篇散紫薇   língluò jīn piān sàn zǐwēi.
     此去重泉逢故友   Cǐ qù zhòng quán féng gùyǒu,
     無言相對作噓唏   wúyán xiāngduì zuò xūxī

    錦江にうかぶ帆, 君歸るを送る
    章臺に柳の碧。訪うも少く微かに。
    瘦馬高車,遊子は倦みて,
    寒天修竹,美人,稀なり。

    玉樹,葳蕤を黄土に,埋づめ
    金篇,零落して紫薇,散れり。
    此こを去りても泉下にて,重ねて逢はん故友,
    相對するも噓唏す,無言のままに



    ※章臺=前頁参照
    ※高車=古代の馬車,立って乘るさまをいうのか
    ※修竹=身長の高いさまをいう喩
    ※葳蕤=植物 玉竹 イズイ
    ※紫薇=サルスベリ
    ※噓唏=咽び泣く,抽泣す

    葳蕤
          葳蕤


    劉申叔②《如夢令・游絲》《菩薩鬘・詠雁》,柳亞子《偕劉申叔何志劍楊篤生鄧秋枚黃晦聞陳巢南高天梅朱少屏沈道非張聘齋海上酒樓小飲約為結社之舉即席賦此》


    春去らんとす,春。 問はん,爾に。主は誰ぞ?
    飄零として 春去れり。



    劉師培 《如夢令 游絲》


     如夢令 游絲    Rú mèng lìng yóusī

     本是靈和殿樹    běn shì líng hé diàn shù
     又作章臺飛絮    Yòu zuò zhāng tái fēi xù
     絲影戀妝樓      Sī yǐng liàn zhuāng lóu,
     不惜韶華遲暮    bùxī sháohuá chímù.

     春去,春去       Chūn qù. Chūn qù
     問爾飄零誰主    Wèn ěr piāolíng shuí zhǔ
       



    如夢令,は曲牌,詞牌の種の一。
    “令” は詞曲の意,《百字令》など, 短いものは“小令”
     

    ※靈和殿=南北朝斎の宮殿
    ※章華臺=春秋楚の離宮
    ※飛絮=柳絮が風に飄飆と舞うさま遊女のたとえでもある
    ※妝樓=婦女の室 酒樓・
    ※韶華=春の美麗温柔の陽光 





    本より柳絲は靈和殿の樹
    また章臺に

    飛絮漂花
    韶華惜しまずとも
    遲きに暮れて。

    春光
    惜しむことなく 往く春よ


    令人惋惜。

    また。
    安那其才子の哀韵,革命詩人の怨音
    憶江南,繞雲山

    《菩薩鬘詠雁》 劉師培

     
     菩薩鬘 詠雁       Púsà mán yǒng yàn

     傳到琵琶幽怨意    chuán dào pípá yōuyuàn yì
     爲誰飛上江南    Wèi shuí fēi shàngjiāngnán dì
     冀北雪花飛        Jì běi xuěhuā fēi. .
     鴻歸人未歸        Hóng guī rén wèi guī

     衡陽春色暮        Héngyáng chūnsè mù
     又逐東風去        Yòu zhú dōngfēng qù
     系帛漢時宮        Xì bó hàn shí gōng
     雲山隔萬重        Yúnshān gé wàn zhòng.


    琵琶,傳へ到る幽怨の意。
    誰が爲に上がり飛べる江南の地へ。
    冀北に雪花の飛ぶころ。
    鴻,歸るも,人,歸らず。

    衡陽に春色暮れて
    又,逐,東風,去る。
    系帛,漢時の宮にとどかんか。
    雲,山,萬重の隔てあり



    ※冀北=北京,直隷,河北あたり 
    ※鴻雁歸飛,で,筆勢の俊逸,秀麗をけいようすることば、此の詞のタイトルは詠雁
    ※衡陽=地名 南岳衡山の南,湖南の市
    ※系帛=繋,帛書おそらくだが蘇武の故事から遠くより届く便り




    やたらとウルワシくも憂れはしいアナキスト劉申叔の詞牌

    劉師培①


    前列左)何震 中)劉師培 右)柳亞子,光緒三十三年(1908)九月於上海
    劉師培,何震,柳亞子,光緒三十三年一九〇八年九月柳亞子 《偕劉申叔何志劍楊篤生鄧秋枚黃晦聞陳巢南高天梅朱少屏沈道非張聘齋海上酒樓小飲約為結社之舉即席賦此》


    偕劉申叔何志劍楊篤生鄧秋枚黃晦聞陳巢南高天梅朱少屏沈道非張聘齋海上酒樓小飲約為結社之舉即席賦此


      慷慨蘇菲亞    Kāngkǎi Sū fēi yà
      艱難布魯東    jiānnán Bù lǔ dōng
      佳人真絶世    Jiā rén zhēn jué shì
      余子亦英雄    yú zǐ yì yīng xióng
      憂患平生事    Yōu huàn píng shēng shì
      文章感慨中    wén zhāng gǎn kǎi zhōng
      相逢拼一醉    Xiāng féng pīn yī zuì
      莫放酒樽空    mò fàng jiǔzūn kōng



    劉申叔何志劍楊篤生鄧秋枚黄晦聞
    陳巣南高天梅朱少屏沈道非張聘齋
      偕に上海の酒樓にて小飲し結社之舉を約し即席にう此れを賦す。



    ※蘇菲亞=ソフィア・ペロフスカヤ  テロリスト  1853 1881
      1881年アレクサンドルⅡ世暗殺によって絞首刑
      劉師培の妻何志劍(何震)女士をソフィアペロフスカヤにたとえている

    ※布魯東= Proudhon ピエール・ジョゼフ・プルードン アナキスト 1809-1865
    ※相逢拼一醉=相い逢うて一酔をつなぎ
    ※放す莫れ酒樽を空にす

    ほぼ詩人文人の革命結社南社のメンツ

    劉申叔は劉師培の字,何志劍は何震,劉師培の妻
    劉申叔は柳亞子が南社同人に誘つたが果たせなかった一人


    幸德秋水⑩“新見卯一郎宛書簡” より

     マッタクおっしゃるとーりで

    議會と政黨

    議會は年々召集され閉會さる,政黨は年々分裂され合併さる,
    之が爲めに費やす所の勞力と時間と金錢と夫れ幾何ぞや,
    而して人民の幸福之が爲めに加える所夫れ幾何ぞ

       「自由思想」 明治四十二年五月二十五日 無署名



    政體ある限りしょーもないこと

    彼らの,
    ダイジにスるものがわれわれにとってダイジではナイ,とか
    ソレをヤルな,とはいわないけれども。

    われわれのタメにナることをすこしはヤッてはくれない歟,
    とおもうこのごろ矣


    ところで
    以下至言。

    孟子と『莊子』の違いもよくわかるw

    自由,革命。
    自然,無爲。

     “人有,閔其苗之不長而揠之者。
     芒芒然歸、謂其人曰、
     「今日病矣。予助苗長矣。」
     其子趨而往視之、苗則槁矣。 天下之不助苗長者、寡矣”




    一,無政府共産は革命を以て直ちに得らるべきか

    是は「革命」てふ語の定義如何に依ることです,
    從來の革命は多く少數政治家,一個の階級が他の階級に取て代るので要するに政權爭奪にすぎない,
    上からやればクーデター,下からやれば革命と名づけたのですが,今後の社會的革命は大分是とは趣を異にして人民大多數の革命であらうと思ひます,
    少數階級が人民の名に依て或は人民を蹈臺にして他の階級を倒すのでは何にもなりません,
    今後の革命は二三の豪傑のやることではない,
    革命黨,ジャコバン黨などの一黨一派のやるのではない,平民全體がやるのです,
    其處でお説のとおり,當時の平民がその革命の目的を知つて居なければならぬと思ひます,
    人類全體といふ譯にも行きますまいが,大多數が此方針に向て居なければならぬと思ひます,

    故に一面から言へば「為す」に非ずして「なる」のだとも言い得られますが,併し「なる」のには「なる」ように力を盡くさねばならず,即ち所謂孟子の苗を助け長すことは出來ないが,耕耘灌漑の勞はドウしても必要です,
    木は自ら長し花は自ら開き果は自ら生するのだが,それにも矢張り園藝家の技術と勞力は必要です,
    革命は成るのだけれども,それには革命が一般人心を開拓し思想界を耕耘し種子を蒔いて萌へるのを待つので,一面から言へば革命を起す,爲すとも言ひ得られましやう
    革命と進化とは別ではなく,革命とは進化の大段落を劃する者で,卵が雛になるのは進化で,其雛になって卵殻を破つて出るのが革命たらうと思ひます

            六月十日   秋水
           「新見卯一郎宛書簡」(證據物寫)


    ※新見卯一郎は大逆事件で處刑されたうちの一人  享年三十二歳
      幸德秋水からの,この書簡が有罪の證據になったもよう





    新見卯一郎が寄せた質問に幸德が大まかな答えとして應じた。


    卪 咊 

    和を令しなくてもいいから和せしめよ,とおもうわけ
    號,號す國體。


      李斯「会稽刻石」令字,和字






    一,共産は人間の權利なりや
     
    權利という語には,法律上の權利などと混するので語弊がありますが,英語のライトなりとは言ひ得やうと思ひます,
    で,革命を行うの權利もあるのですが,革命という者は少數人の行ひ得るものではない,
    多數人民の行ふて若くば多數人民が中心より承諾して初めて成功するものです,
    革命を以て少數者が暴力を以て政治的權力を獲得する者と解すれば,是,危險なる誤解です,
    過去の諸革命は往々如此き現象を生し,平民は其犠牲となりました,
    今後は共産黨,革命黨の革命でなくてドウしても平民自身がやる革命でなくてはなりますまい。

            六月十日   秋水
           「新見卯一郎宛書簡」(證據物寫)




    次に,バクーニンの “プロパガンダオブデッド” に言及する,
    デッドdeadではなく deed, “propagande par le fait”

    これを「行爲の傳道」と幸德秋水は譯している
    プロパガンダの,むしろ本意に留意してあてた譯語だろう
    これについてはまた別に。
    着手と起義の際について思う所有るのでそれとともに書いてみようと思うんだが

    幸德秋水の言葉というのは非常にわかりすく,
    自由思想をわかりやすく説いて解きほぐしてくれるし,
    わたしにとっては,
    新思潮(當時の)と古典がいかにつながりあったがゆえに,彼にして漢語によりあらわすことができたのか
    という
    その機微を,行間でつたえてくれる,もののよう。

    意,と,理,の深い結合を。
    幸德秋水の文に,彼の資質が投影されたものとして感じるのは,
    ただ感受性による,感じる者の好みにすぎない,ということなのかもしれないがw

    “權利” を
    英語のライトなりとは言ひ得やうか,という,
    その裏には,
    權利はそのままライトではない
    という幸德秋水の含意ももちろんあるだろう,
    權利
    とは。
    “權” という語と “利” という語の相關を理解しなければ,ならない
    英語の一單語が一語によってあらわされるならよいけれども,
    漢二字が用いられるなら,二字,權と利の意をよく按じ吟味しなければ,本來は
    その二つが合わさって出來上がった意味を
    解し得ようハズもない

    權には秤(稱),という意味があるということも,考えるよすがになろうか
    秤,字,には,禾と平らか,の字が含まれる
    利,字,には,禾と刀

    幸德が權利,というとき,
    それは。
    なになのか,と


    禾とはいうまでもなく,パン,であるが。  

      禾 Hé

    彼黍離離,彼稷之苗
    行邁靡靡,中心搖搖
    知我者謂我心憂
    不知我者謂我何求
    悠悠蒼天, 此何人哉




    幸德秋水⑨ “日本社會黨大會における幸徳秋水氏の演説” 『平民新聞』(後)

    身在江湖,心懸魏闕

    前頁につづいて
    その後の幸德秋水の演説は以下につづく
    とりわけ前半部分はまさにゲンジツを特に,日本のゲンジツをみていない。
    とそしられるあたりとおもうが。

    このころ幸德秋水の見ていたもの,それはなにか,
    といえばヨーロッパのサンディカリストの書いた論文であった,

    幸德秋水の,
    彼のその “意” を通して考えるならば彼のゲンジツ認識は,認識として有り,
    向かうべきところに向かうというとき,その,スジは通っている。

    ジッサイ的な手ごたえがあった,とか,彼の經驗にもとづいたものではまったくない。
    が。
    彼の否定したかったもの,については
    彼の現實認識はただしいとおもうし,
    むしろ,彼は,自己の立場を,社會黨のその弱點をよくわかっていた,だろう
    と考える

    そのうえで,

    幸德秋水の生來の老荘思想への傾きと, “權” への反發心が
    この時期のヨーロッパの最新の革命思想に,接觸し,共振したとき

    彼がそれまで接した革命思想の中で,アナキスムが
    もっとも強く美しく鳴り響いてしまった,
    というハナシである

    具體的には,クロポトキン,エリコ・マラテスタ,アーノルド・ロラー,ということになる。
    それぞれちがう手法を以て革命を成就させようという,
    それぞれがそれぞれの理由もて社會主義,共産主義と對立したアナキストの
    三者三様である。

    社會主義がそれらをすべて包括するものである,という理解は,社會主義の “神髄” として幸德秋水のその根幹にある考え方だが
    彼ら三人のアナキストにもマルクスにもおなじように心酔したというのであれば,キがふれた,としか
    いいようがない,と。
    もちろん後世の眼から見るとそうなんだが・・・・w


    日本社會黨大会における幸徳秋水氏の演説
       『平民新聞』 日刊二十八號(明治四十(1907)年二月十九日

    七, 今一つ,直接行動には犠牲が多いとの批難である,ストライキを軍隊で鎮壓する場合には犠牲を生ずるであらう,
    然し乍らゼネラルストライキを起こしたるの場合は歐羅巴でも案外少ない,今日の資本制度は毎年非常なる犠牲を出して居る,今日の資本制度が機械で腕を折たり、脚をモギ取ったりする數は,戰爭によりて生ずる犠牲よりも多い,
    佛國に於ても資本家制度の犠牲は年年十何萬にも上る,日本においても髄分ある,然も吾人は之を忍で居るではないか,之に比すれば数週,數月のストライキの犠牲は幾等でもない,
    現に日露戦争では四十萬の犠牲を出した,單に資本家を利益する爲に生じた此大なる犠牲ですら忍び得るのに,直接行動における少數の犠牲は何でもない,義性なくして進歩はない,
    古より迷信を打破するためには多くの科学者も犠牲になった,多くの志士仁人も進歩のために犠牲となった,犠牲を恐るるが爲に議會政策を執る人はよろしく社會黨を解散して,改良主義か國家社會黨に入るべきであろう


     田中正造翁もっとも尊敬すべき人格である,今後十數年の後と雖も,斯くの如き人を議會に得るのは六ヶ敷と思ふ,然るに田中正造翁が廿年間議會に於て叫だ結果は,何れ丈の反響があったか,
     諸君,あの古河の足尾銅山に指一本さすことができなかってはないか,然して足尾の勞働者は三日間にあれ丈のことをやった,のみならず一般の権力階級を戦慄せしめたではないか>拍手

     暴動は惡るい,しかしながら議會廿年の聲よりも三日の運動に効力のあったこと丈は認めなければならぬ。
    私は今日直ちにストライキを遣れとは言わぬ,併しながら勞働者は團結と訓練によりて充分に力をやしなわなければならぬ,
    今日社會黨が議員政策や議員の力を信ずるか,或いは勞働者自個の力を信ずるかと云ふ此分岐點は,將來社會黨が,紳士閥の踏臺となるか否かの運命を決する分岐點となることを信ずる,私はこの點から此修正案を提出したのであります。




    ゼネラルストライキを起こした時の犠牲は少ない,という。
    それはどこから來たかといえば
    ロラーの
    『社會的總同盟罷工論』という論文で,
    幸德秋水はこの演説の直前,足尾銅山の暴動が起こったことで,よけいにその論文の中身に確信をもち,希望を見出した

    犠牲が少ないの理屈は,
    總同盟罷工いわゆるゼネストは,積極的に革命に参加したくなければ,家にこもって仕事に出てこなければいいわけだ,とか,勞働者全員が参加したなら兵士によって鎮壓しようにも兵士が足りないだろう,とか,

    都市の經濟活動をマヒさせれば,人民のほとんどは,勞働者なのだから,小市民,平民連帯するだろうという,
    フランスやスペインやベルギーや都市の少數の成功體驗をもとにしてうちたてられた,
    どちらかというとリクツというよりかなり樂觀的な空想の物語。


    とにかく,ゲンジツ的,實踐的という意味でさらさら説得力無いことを言ってる幸德秋水だが。
    そもそも

    何と言っても彼がこの演説で,主張したかった真意とはw
    彼が主張したかったことは。
    田中正造翁云々以下,終わりまでのことば,

    それにつきる
    ということだろう
    あっさり言ってしまえば,この演説で彼が主張したことは

    議事者。身在事外。 宜悉利害之情
    任事者。身居事中。 當忘利外之慮



    さらに蠻勇ふるっていってしまえば
    もとより幸德秋水にとって。
    革命者たるもの
    身在江湖,心懸魏闕
    これはありえんだろう,
    おかしいだろう?

    という,

    そういう意があっただろう,
    そこまで,痛烈な批判を同志にぶつけることこそしなかった。

    その意,出でたるところの,秋水の氣骨故,この演説はわかりやすく,力強い,そう思う
    そう想いながら,同時に
    秋水の憔悴しきった姿,この演説を讀むと,むしろ思い浮かべてしまうw

    より根源的なものを見つめる視線は,ゲンジツを見ない視線とされがちであるけれども
    幸德秋水が向かうとしたもの
    向かう先
    それは議會ではなく反議會でもなく
    “有政府” ではなく。
    ではなんだったのか。


    社會とは何か。
    と考える,その前に“自由” とは何かと考え

    “文人” 的にそんなことを考える幸德秋水を,わたしは想像してしまうが。

    身は江湖に在り, 社會は江湖に非ざるなし。

    そんなことを・・・・。

    このあと,幸德秋水は,自身の考える革命思想によっておきた疑念,社會黨,また「社會黨の喧傳する社會主義」との齟齬をみとめ,そこから分離,つまりは
    “ゲンジツから乖離してしまう” ,

    また平民社への 當局の介入,つづく平民社閉鎖,
    革命運動の完全な行き詰まり,
    そして自身の病状の惡化もあって,

    彼自身が夢想する “東亞の瑞西” ,としての 帝都東京 を離れることになる
    故郷に病軀を養いながら
    明治四十年(1907)から四十二年(1909)にかけて,ヨーロッパのアナキストの論文の翻譯に没頭する。

    ロラーの,『社會的總同盟罷工論』は,この演説の後に幸德の譯で,平民社の同志によって,
    タイトルを『經濟組織の未來』と,偽装して袋とじで出版される
    が,あっさり,出版禁止になっている
    このころのマラテスタらサンディカリストの文獻は,日本では
    昭和の大戰間(というか日中戰爭前)に社會主義者共産黨員らによって
    より實踐的に,組織的に檢討されるまで

    忘れ去られる。


    さらに幸德秋水は明治四十一(1908)年から四十二(1909)年にかけ
    ピョートル・クロポトキンの,『麺麭の略取』(1892)
    悲願としていたその全譯に着手精力を傾ける

    やみくもに,と言っていい状態だったのかもしれない
    この時代にあっては,ヨーロッパのアナキスト唱道者の文獻に初めて觸れた,何しろ最初に翻譯を思いたった日本人が
    幸德秋水であったのだから,それこそ,
    まさに瞎子模象。
    當の文獻ジタイもまた,群盲象を評すの状態であった革命思想としてのサンディカリスムの黎明期である

    ここに擧げられたアナキストも三者三様,おなじことも,全く違うことも主張していること,その大きな違いも微妙な差異も深く解する間もなく,秋水はただ火急のこと,一刻も早くこの思想を世に知らしめる,を命,と考えていた。

    吟味せず,檢討も間に合わぬ,それを意識しつつも,病軀に鞭打ち翻譯に精をつくすのみ,という
    幸徳秋水の焦りも感じられる文言が私信も含め折々いくつも殘されている。

    それは,革命家,思想の領導者というより,一個の頭腦勞働者,文筆のアルチザンとしての呻吟のようにもわたしは受けとめている。

    さらには日清戰爭ののち,義和團事件の前から,好戰的世論,急速に軍國化していくあの “明治” という時代にあって。
    反戰平和を,自由思想のために,信念のもと時に愚直にガンコに訴えてきた幸德秋水が
    そもそも,彼が最も強く引き付けられたもの,
    それはアナキスムの非軍備主義,であったろうこと。
    海外の總同盟罷工論がもつ,非軍事的抵抗にその價値を見出していたのだろうこと。
    そのことは,容易に想像できる

    如此,
    勞働者の,ゲンジツ,實踐的,具體的なことはなんも考えていなかった幸德秋水の,平民主義的「直接行動論」ヂレクトアクションではあるが

    ただ,ひとくちに民權といってもにもいろいろある,しw

    クロポトキン翁を,ひたすら讃稱するのみの,
    幸德秋水がこのころ書き殘したものを讀み,また景梅九が,とくに記した錦輝館の幸徳の姿を想えば

    “麺麭の略取”
    とは,究竟,戰爭を全否定する仁人の発想である,
    と,とらえた
    と,いうことがわかる,
    というかそれだけはよくわかる

    逆にいえば, それしかわからない。

    こういうことだろう,

    “力” でうばいとっていいもの,それはなにか,
    それは,
    ただ,パンのみである

    という,
    かなり素朴な,「總同盟罷工」に託された直接行動の唱導である。

    さらには,平民の自由社會は勞働者によってささえられるのだから,
    水平社會は,勞働者によってジツゲンできる,
    もしくは
    勞働がそれを支える,その, 「“勞働の果實にに支えられる” 平民」 が,
    取りに行く必要があると。

    もとより,麺麭とは,“勞働の正當なる果實” その収用の着手,そのメタファーである

      収用 expropriation である。
      が
      revolt にちかいが, 起義ではない。 
      ということも,またキモであると,いえるのかもしれない・・・・
      そこはまた,別にもう少し書いていきたい

    フランス大革命は議會によってテロルの現場と化した。
    パリコミュンのバリケード封鎖がなぜ失敗したか。
    これからは,
    都市に防寨を築いて起こされる暴動では,革命は成就しない
    そのゲンジツを檢討し
    勞働者が全面的に連帶すれば麻痺させることができる,今の資本主義經濟の弱點,
    そこから思索されたアナキスム,シンヂカリスム
    である。

    “もはや都市に防寨を築くことはできない”

    非軍備主義の
    アナキスムの論述を,
    とりわけクロポトキンを,
    わたしには,理想社會を詠う長大な美しい詩のようにおもえる,『麺麭の略取』 を,

    アカへの偏見なく,社會主義に憎惡なく,“詩を讀むように” 讀むことができる人なら,
    ことばつくすまでもなくあっさりわかってもらえるだろうがw

    平民による大同の理想社會はある,ジツゲンできる
    日本の將來の夢にそれを見るという
    幸德の,娑婆における晩年,
    もとより彼が一貫して言いつづけていた事,反戰反議會にかんしては
    それは,最後まで,ぶれていない。

    ただひたすら,これらの文獻を日本語(多くは漢語だがw)にして,同志につたえる
    のみ。
    その峭刻のすがたは,いたいたしい,不得志人という感あるが。
    貧窮と,當局の監視干渉の中で權力にあらがう文人の痩骨聳脊である

    帝國主義の本質をいち早く喝破して,それは必ず國の亡びにつながることを予見していた幸徳にとっては,アナキスムの文獻によって
    肥大化し,膨張しつづける「資本主義」の全貌を垣間見たような手ごたえを,感じたのだろうことも
    思う
    帝國主義的侵略的作法での収奪を羲として海外澎漲しつづける日本の國體思想に反發する知性が,見出した理想
    アンチテーゼとしての,社會主義思想としてのアナキスム,
    いや
    ひょっとしたらアナキスムが全能の思想であるようにさえ感じられたのかもしれない。


    パリコミューンのバリケード封鎖


    さはさりながら,だ。 
    幸德秋水の現實認識、實現想思は,根本的認識として。
    彼が “意” とした。
    平民社會の平民によるジツゲンを,意,と,した
    幸德秋水のこころざし

    それこそが。
    たしかに,帝國日本の “社會” から乖離していたのである,という證左,
    絶望的な,歴史の經緯,もあるw

    たとえば,關東大震災で, “都市の機能がマヒしたとき” ,帝都ではなにがおこったか
    體制は,天皇は特に“兵士” を必要としなかった,
    “紳士閥” は傭兵するまでもない,
    民,が
    自發的に自警して,不逞の鮮人を格殺した
    官,は,
    國體は,
    幸德秋水らを處刑した主體は,
    癸亥,その十二年後も
    ただアナキスト夫妻を扼殺するだけでことたりた,
    という。

    帝國日本の,その恐ろしさを考える

    つづく

    幸德秋水⑧ “日本社會黨大會における幸徳秋水氏の演説” 『平民新聞』(中)

    なんで,ここまでムキになって幸德秋水の言葉を書きなぐっているのか
    かけばかくほど枉しくもなるのであるがw

    日本社會黨大会における幸徳秋水氏の演説
       『平民新聞』 日刊二十八號(明治四十(1907)年二月十九日



    四,勞働者が自覺して團結すれば,この團結に匹敵する力は世界にない,議會は解散し,買収することもできる,しかし勞働者の直接行動はそうではない,
    過日議會で,原啟は三百の勞働者が暴動すれば二百人の巡査を以てしては,何人と雖も鎮壓することはできないと演説した,これを鎮壓するの力は兵力よりほかにない,瑞西(スイス)の如き民主的の國 に於いても議會は民意を代表して居ない,故にレヘレンダム即ち全國民が一票宛の直接投票をするといふことが生じたのである,
    議會政策を執る人もその背後に勞働者の實力が無くては駄目だと云うて居る
    幸德秋水とおなじく修正案の提出者たる田添君も,現に是をみとめられて居る,唯議會に於ては其力を示すのみであると云うて居る,然れども勞働者が自覺してそれ丈の實力があれば,何を苦しんで紳士閥(※)の機關たる議會に依頼するの要あるか,<拍手 

    或る人は從來多くのカクメイは議會によってなされた,クロンウエルの革命も議會に依りてなされた,ではないか,と云ふ人がある, 成程是れ迄は議員が革命を代表したが,今後も然りと云ふ筈はない,
    佛國の革命も議會に依りてなされたのであるが,私は佛國の革命が議員によりてなされずして,勞働者の直接行動であつたならば,いつそう好結果であつたと思ふ

    佛國の革命に於てマラーやダントンやロベスピエルは何をしたか,彼らは一朝議會を乘取るや,勞働者は饑餓して居るをも顧みず政權の爭奪を事とした,だれが権力を得た,さあギロチンに懸けろと云ふ具合で,彼らの眼光は議會と政權の外に出づることは出來なかった,其結果人民は革命に失望して,彼の專制武斷なるナポレオンの許に膝まづいたではないか,佛國の革命が斯様なミジメな終をとげたのは,代議士に依頼して直接行動を執らなかつたためである。<拍手


    ※紳士閥=ブルジョワジー
     ブルジョワジーの幸德秋水の譯語 
     ブルジョワジーの譯語は,東洋では適切なものはない。
     中国語では布爾喬亞(音譯)
     たとえば瞿秋白なども市儈 という語や,民族資本,買弁,を時により
     使い分けたりしていたが,そもそもこの概念は17~19世紀ヨーロッパ
     という狭い域内,革命を担った主體,というくらいの意味であるから,
     ハイ,ミドル,或いはプチといって細分化されるとはじめて意味を成す,
     というくらいなもので,20世紀の初頭の東洋においてはあまり普遍性
     のない概念だったりもした
     マルクス主義革命において階級概念,敵を細分化するというときに
     はじめて便利に使われるような言葉だそもそも普遍性ない語だろう



    全くくおっしゃるとおりでというほかないw
    わらってしまうほど
    理路整然とした言説,現實認識,歴史認識であろうし。
    よーするに,幸德秋水は

    フランス大革命をムザンな失敗とみなし,
    その結末は,避けられたはずであり,避けることができなかった因は「議會」である,という,
    これは當時のレフトからすれば,淒じい短絡と言われるかもしれないが,
    全くその通りで,否定のしようのない,フランスのゲンジツであった。

    彼らは恐怖政治をやった,即ちテロルの語源であるところの terreur ジャコバンの肅清である。
    彼らの政治は,なぜテロールとなったか?
    彼らのテロールによる革命の失敗は,非常に根深い, “自由” の敗北であったと

    それはもしかしたら社會契約論の敗北であり, “市民社會” の敗北であったし,非常な傷心を,フランス人,いやフランス市民にもたらした。

    このたとえは,後世われわれが見て,とてもわかりやすいたとえとおもわれるのだが。
    しかし,こうした失敗をを避けるためにこそ,社會契約,且つそして,集約されるべき
    一般意志,
    その糾合を全うすることに意を砕こうとした幸德秋水,という見方はできるだろう,

    では,ジッサイに “糾合” のために,幸德が何をしたのだ?
    という批判はあるとは思うが。

    所詮,ただ文人の机上の空論に等しい,が如きモノと。

    そう,
    幸德秋水は行動者ではない,文人にすぎない。
    文人にすぎないが處刑された,
    これもまた事實である

    革命の主體が “社會” を見失ったことから起こった歸結である,
    その,「見失いやすさ」,を避けるべきである,
    という幸德秋水の主張である,とみることができるだろうがそこには,
    徹底した『何か』への反發がある,
    このナニカへの幸德秋水の反發心が理解できない人にとってはさっぱりわからないだろうけれども。
    このコダワリに共鳴できる立場からすれば,こんなにわかりやすいこともない。

    そもそも革命者に社會を見失わせたもの,それは何か,
    といえば,それが議會, 權力闘爭に眼が向った議員からであるという,
    そういうことで。

    兆民先生が國民同盟會に加擔したことを苦諌しつづけた幸德を思い起こす,
    もちろんフランス革命の失敗=ルソーの否定ではない。
    “ルソー” は,反議會の象徴でもあるともいえるのだ。
    ・・・・・。
    フランスにおいてさえ革命は成就しなかった,議會がそれを台無しにしたのだ,というかんがえのもとに歴史を冷徹に見すえたからこその幸德秋水の主張であったとも,
    わたしはおもわずかんがえてしまう,たしかにそうだ,と感じてしまう。


    ナポレオンに簒奪されてしまった革命の果實,ではあったが,それがすべて,ジャコバンのせいではない,とはいうものの,議會に依った,というが因であるとした幸德秋水の考え方は。
    この演説でははっきりしている,
    議會というものの本質を冷徹にみきわめ,これを見限っていた幸徳のアナキズムの発露であるが。。

    つづいて,エリコ・マラテスタを引き合いにますますメチャクチャ過激なことを言い始める幸德秋水。

    エリコ・マラテスタは,クロポトキンとともにスイスでアナキズムを主唱した反議會主義,反政府者の,當時日本ではあまり知られていないが有力な一人であった。
    クロポトキンのレヴォルテ周邊を追っていると頻出するアナキストだ。

    幸德秋水はこの演説の直前に
    エリコマラテスタの短文『無政府主義(アナキズム)と新勞働組合(シンヂカリズム)』を平民新聞紙上に紹介している

    彼もまた,流亡,亡命して,瑞西(スイス),に流れついたひとり,
    である
    この瑞西ジュネーヴは,また,ジャン=ジャック・ルソーの故郷でもあり,エミールが禁書となった後に亡命先となった地でもあったが・・・・。




    五,且つ昔の革命は中等階級,即ち第三階級が貴族に對する革命であったから,議會に依て出來たのである,今日の革命は勞働者の革命である,勞働者は議會に上るの必要はない,議會は取れなくてもいい,土地を取ればいい,金を取ればいい,取るべき權利ありと信ずるところのものをさえ取ればいい,何月何日から勞働者に引き渡すという風な法律を取り決めてから取るの必要はない,由来世間の人は政府に對して迷信を抱て居る,自分は政府の保護によりて生活して居るものだ政府が無ければ,秩序も何もなくなって生活して居られぬと云ふ迷信を抱て居る,
    マラテスタの言た言葉に,茲に一人の奴隷があって,汝は此の鎖があるが爲に歩めるので,此の鎖を取ったら必ず倒れると敎へられて成長したならば,彼は必ずその鎖を解くことに抵抗するであらう,今日の勞働者が政府と議會に對する迷信は恰も斯の如き者である

        ErricoMalatesta-0.jpg


    六,私は直接行動以外のすべての運動を惡事なりとは云はぬ,改良事業もいい,慈善事業もいい,社會進化の動機はたくさんあって決して一本道ではない,と云ふ,
    然しながら惡事でないことは,悉く私共の遣らなければならない事と云ふ譯はない
    世間には惡事によりて成佛する人もある,社會の事物はことごとく皆,革命を助くるものである,しかしながら之が故に社會黨がすべてのことをやらなければならぬ,ということはない,
    われわれが成さねばならぬことは唯一事である,われわれはこれに向て直進しなければならなぬ,
    社會主義は勞働者の解放を意味するものである,われわれは直に之に向て進まなければならぬ,
    普通選擧や政社法改正の如きは,われわれがやらなくても紳士閥が之を遣って居る,何も社會黨が夫れを遣ることはない,況や,普通選擧が却つて邪魔になる場合がある,即ち充分に勞働者の自覺えができた場合に,代議士の存在は却て革命の氣焔を弱める,
    直接行動と雖も一夜に革命を行ふと云ふのではない,即ち,自覺えを喚起し,團結を鞏固にする爲に長月日を費やすのだ,
    故に餘計なことに力を費やしてはならぬ
    ,力の集注が必要である。

     『平民新聞』 日刊二十八號(明治四十(1907)年二月十九日
     幸德秋水全集第六卷(明治文獻刊)




    下線をひっぱったところは引用もとで,傍点をうって強調されている,つまり平民新聞紙上に載せる際,幸德みずから強調したかったところ。
    革命の道程で,たびたび起こる内部對立。
    軸足を置くべき階級とはなにか,あるいは,階級概念の對立というより。
    領導が
    なぜそっちに向かうんだ,という
    中國革命に詳しい方なら,あるいは八七會議を想いうかべる人もあるかもしれない

    この演説のおよそ二十年後におきた
    陳獨秀ら,メンシェビキと瞿秋白らボルシェビキの對立として,大きな意味を持つ歴史の分岐である,
    「湖南の暴動」の成果,と毛澤東の指導力を最初に率直に認めた瞿秋白である,
    もちろん後瞿秋白は極左盲動路線と指彈されたがw。

    畢竟「農民による土地の略取」的直接行動で,中國のプロレタリア革命が成就した,其の關鍵には土地略取による農民の意識改革,があったことをかんがえれば,
    幸德秋水の,言葉の先見性はものすごいと,おもわずにはいられないしw


    またこうもいえる。
    幸德秋水が直接行動と言うとき,それは
    直截を意味しない。

    言葉を注意深く追っていけば,その意がどこにあるか自明である,
    まず,語によって知ることができる,それは

    直接行動とは何か?

    幸德秋水は,レフエレンダム,イニシアチブ,
    民がじかにおこなうこと,もしくは行おうとする意志,發意
    じかに社會をつくる,その主體となるためにこそある,其の主體となるための過程において糧となるであろう「直接行動」という,
    その意味で,ヂレクト(直接),であり,アクション(行動),という言葉を使っている,

    起義といういみもあるだろうイニシアチブという言葉,により近い
    ダイレクトアクション。

    此の “直接” とは,

    「間に何かよけいなものが入らない,」

    直に接す,か?, “間” に接すか,というハナシであって,

    “直接” には,直截的火急の,というニュアンスはない

    と理解されるべきで,短絡的,思慮淺い妄動と理解されるべきではない。
    むしろ,直截的なまわりくどくない真っ正直正攻法的手法というより
    自分の立ち位置を示す言葉として,直に接していくべきはなにか,と言っている
    それは彼が敢て強調した部分,この引用では下線を引いた部分を注意して讀めば
    わかることである。



     
     或る首領なるものが代表したる運動では決してない,
     彼らの間に首領はない,彼らは實に直接の行動を取つたのである,

     佛國の革命が斯様なミジメな終をとげたのは,
     代議士に依頼して直接行動を執らなかつたためである

     餘計なことに力を費やしてはならぬ


    演説ではつづいて
    さらにカゲキなことをいう,
    しかし,それほど,ゲンジツを見据えておらず間違ったことをいってるようにもおもえないし
    矯激でもなく激越でありすぎるとも思わないw

    そしてしかし

    ここに,幸德秋水ののちの運命は,既に決定づけられてしまった,と。
    そんなこともおもわされる,いやそうおもわずにはいられないw

    少數の犠牲はなんでもない,と幸德秋水は言う,
    彼自身,そして犠牲となった。

    それだけのことであるが。



    ここまで言って議會に依ろうとする社會黨に反對する。
    “自覺の喚起には,必要ではないばかりか,害になる”
    その意圖するものはなにか?
    もちろんその疑問はクロポトキンを讀めば氷解する

    幸德秋水は,此の演説の半年後,クロポトキンの『麺麭の略取』 に着手するのだが。

       まだつづく

    幸德秋水⑦ “日本社會黨大會における幸徳秋水氏の演説” 『平民新聞』(前)

    明治四十年二月十七日社會黨第二囘黨大會で,提出された決議案原案に,幸徳秋水が修正案を提出して演説したその内容を少し。
    この論爭は社會黨内,アカの中の二派が爭う,方法論をめぐるの狭い議論ということではなく,
    もっと根源的,本質的な,
    つまりは本質的であるが故
    いま,に通じる問題, “政府” ある限りかならずつきまとうモンダイであるともいえるし。

    またもうひとつ。

    ゲンジツってなんだろう。リアリズムってなんだろう,と。
    ひどく考えさせられるのである

    わたしの考えたことが。うまくことばにできてつたえられうるかどうか心もとないけれども,それはもちろん,わたしの考えが生半可で,煮詰まっていない,ということであるのだが

    この演説,も,またその前段としてあった片山潜,田添鐡二,西川光二郎らとの對立の中で
    幸德秋水は,

    「ゲンジツを無視している」

    という,批判に當時さらされる。(いまだ,じつはあんがい根強くこうしたニュアンスの批判は前面に出てきやすい)
    「ゲンジツを無視していた」

    この當時,この對立の場合,論點は何かと言えば
    ごくごくおおざっぱないいかただが,

    一方が 「漸進しよう,すこしずつ,やれるところ,から。」
    それは,議會政策であり,議員を送り込む,であったり,という考え方。

    他方が 「いやラディカルにいこう,イッキに,まず,やれることを」
    それは,勞働者大衆の意識改革であり,そのためにも,そのうえでも, “直接行動” がある,という。

    この考え,方法論,あるいは優先順位ということかもしれないが,はたして,どちらが正しいか,どちらが,兩者の目的とするところの成就へ至る近道か,という議論はあるだろうし,諍いとなって對立することはあるだろう,けれども,

    なんだかいつも・・・・日本では。
    ゲンジツを見据えている,か,見据えていないか,というハナシになってしまうキがするのだ。

    エダノ立憲と,トロ玉壊し屋連合の對立も正にそんなかんじだろう

    そして,
    かならずや,かれのほうが,ゲンジツを見ている,と,認められたる者が勝つ。

    という圖式があるキがしてならないんだが

    しかし。

    そもそも “ゲンジツ” ってなんだろう,と思う。


    クロポトキンが,「麺麭を略取する」,といったとき。
    それは現實にそれができるからそのように言ったのではなく,
    そうではなく, “意” を吐いているということ,

    まさに,原理を,原動力たる,意,カノニカルな普遍的な,(つまりはもしかしたら詩的ということばもつかえるかもしれない),言葉で以て,訴えたことだ

    しかし,日和見,機械主義いろいろ言われかたがあるけれども,
    そうした立場からは
    かならず「原理原則を言い募るもの」,は,間違いとしてはじかれる,あるいは反省させられ,
    ソウカツされるというハナシ,
    どこのカクメイでも必ずおこる,あの話柄だが。

    よーするにわたしはひどく,考えさせられた,し,絶望的なキブンにもなった
    のだ。

    この時期の,そして以降大逆事件最期のときまで幸德秋水が自ら持していたかんがえかた,彼自身が主持していた彼自身。
    その姿,がよくつたわる演説。

    まずは,
    彼の演説の中身はゲンジツをみていないだろうか?
    そうなのだろうか?

    おそらく,左翼の術語にウンザリして
    讀むキがしない人が大半とも思われるけれどもw

    一部を引用というのは,あまり良いとは思わないのだが
    とりあえず。
    一は(ごあいさつのようなもの),とばし,二を一部,三をまるごと寫す



    日本社會黨大会における幸徳秋水氏の演説
       『平民新聞』 日刊二十八號(明治四十(1907)年二月十九日

    一, ・・・・・・・・・・・・

    二,社會主義の續行を議會政策に依つて爲さんとするは到底不可能の事である,
    抑も議會なるものは現今の社會組織の産物である,資本家的社會制度の産物である,今日の議會は今の紳士閥※すなわち中等階級が,貴族の專制政治を倒す爲に造つた器械である,
    而して一方には専制政治を倒すとともに,われわれ勞働階級の血と汗とを搾り取るために案出せられた器械である,
    意識的なるか無意識的なるかは言はざれども,兎に角事實において斯くの如きものである,然るに勞働階級が今,この紳士閥を倒す爲にもやはりこの機械に依らねばならないという必要どこにある。
    或いは普通選擧が行われ勞働者の代表者を議院に送れば議會はもはや斯くのものではないといふが,畢竟これ一の夢である。
    ・・・・・・・・・・

    三,議會政策を取る人は,議員の腐敗を憂ふると同じく,ツレードユニオンその他の勞働團體の首領の腐敗をも憂へなければならぬ,と云うが,議會の代表者と,勞働團體の代表者との間には,性質の全く違うところがある,
     亞米利加に於いては勞働組合の首領が買収せられた事實もあるが,しかしながら米國に於いて勢力あるこれら勞働組合の如きは,社會主義に自覺を有せざる,資本勞働の調和論者である,ジョン,ミッチェルの如きは資本家勞働者の中間に在つて兩者の調和者の任を取りつつあるものである,故に稍もすれば資本家のために利用されるのである,實際勞働階級の自覺と訓練によりて,まったく資本を公有にするといふ場合には,決して勞働者の首領の必要はない,
     暴動は好まないが,電車事件の如き,媾和問題の騷動の如き,今囘の足尾(銅山)の騷動の如き,は,或る首領なるものが代表したる運動では決してない,彼らの間に首領はない,彼らは實に直接の行動を取つたのである

     早い話が,電車騷動の時に,西川君が太鼓を敲いて先に立つたとしても,決して勞働者は西川君に惹きつれられたのではない,太鼓を敲く人はいつでも必要ではない,
     假に西川君が途中で逃げ出したとしても,勞働者は構はず進んでいくことができる,勞働團體の首領は常に,勞働者が監視して居ることができるが,議員を出すのはただ一票の票を投ずるだけで,その後は議員の自由の行動に任せなければならぬ,
     實際議員は一度投票を得て議員に入れば夫れから先は,自個の自由行動を以て,院外者に臨むのである。
     故に獨逸等に於いても議員に對して,非常に院外者の不平が起てゐる,勞働者の直接行動においては,先に立て行く者は勞働者を引き連れていくのではなくして,後から押されていくのである
     又勞働者の組合が,適切に利害を感じて決議したる結果を資本家に迫るといふ場合に,その委員となるのは充分に勞働者利害關係を自分に感じて居る首領者が出る,勞働者の投票した議員と雖も,實際勞働者の利害關係を適切に感じて居るものはない,一旦投票せられて議會に入れば如何なる行動を執らうが勝手である,ただ再選のときに關係がある計りである。

     今の米國にある資本家と勞働者との調和を目的とする組合の如きはしばらく措き,革命を主義とする團體に於ては,既に萬國勞働者同盟の如きも首領なるものはなかったのである,カールマルクスも首領ではなく,單に相談役であつた,鼓吹者であつた,
     當時誰れも首領と呼ぶ者はなかった,實際に勞働者の地方の組合で研究した結果を,大會に持ち出すという風で,大會の決議を實行するため選ばれた委員も勞働者の實状を知つて居る人であるから,議會の議員とは全く別のものである。


      つづく

    ※紳士閥=ブルジョワジー
     ブルジョワジーの幸德秋水の譯語 
     ブルジョワジーの譯語は,東洋では適切なものはない。
     中国語では布爾喬亞(音譯)


    下線は,引用書のまま。



    そして,行き着いたところは究竟,
    幸德秋水の死,であった,

    だれもが,至極當然のなりゆきのようにかんぜられるという,

    “詩的” な言葉で送られて幸德秋水は泉下に向かったわけだが

    いきなりそれはちょおとラディカルにすぎる

    と言われ,

    その發想は現實を見てない,盲動だ,

    いわば身内から,このように言われ
    しまいに,アナルコサンジカリストの妄動者,盲動路線の如きいわれかたをされ批判される,
    その理窟は,こうだ,

    勞働者にそのような自覺があるだろうか?彼は,幸德秋水は現實を見ていない。
    ゲンジツがわかっていない,

    である。

    それはその通りかもしれない,しかし,かりにそうであっても。
    では,なぜ,その,「自覺のない勞働者」に,むかう,人民の中へ,という姿勢ではなく,
    そこから,「議會」へ向かって眼を轉じてしまうのか,という,

    モンダイは,そこではないか,對立の原因はそこではないか?
    二派のちがいはそこであるはずなのに。

    それなのに
    ゲンジツを見ているか,みていないか,
    の議論になってしまう。
    おかしなことである。

    これは究竟、
    官, “國”,政府 にはいりこむのか?それとも野に止まるべきか。
    という對立になるはずなのに。


    今もひょっとして,このように仕分けされうる,
    「幸德秋水のダメだったところ」

    付きまとう枕詞。

    幸德秋水の考え方が何も全面的に正しかったといいつのりたいわけではなく。

    なんだか整理のされ方が・・・。へん。
    ゲンジツを見ろ,というのは
    魔法のコトバ。
    それは考えることを阻碍する




    今,日本では,議會はまったくヨトウ専擅の,議論無き議會となっているが。

    直接と間接。

    政府に任せる。議員に任せる。一票を託して。



    政府はあれど。
    ひとりひとりが主持するという社會。主體。民が主。

    それは,あえて,有政府主義である,とは言うようなものではないはずである。

    政府はある,政府はあるが。
    政府,議會が代議士制をとるのであれば,そうであるかぎり

    「有るべきものとしては政府だね」主義,

    などという主義は,主,義ではないのであるしw

    政府とはあくまで・・・・・政府。
    しゃかい,ではない。
    社會,社稷の合同を担保する場,としての社會,ではない

    その認識を持つこと,それが無政府主義ということでもあるだろう?

    「無」政府,の主義とは,

    何もイコール「打倒」政府主義,「転覆」政府主義,國家破壊,國家転覆主義ではない,ということ。
    「政府ヲ亡キモノニシタイ」主義ではなく。

    政體というのはあるのである。政治あるかぎり,
    又,主體もありつづけるそれが民主ということだろう,

    む,せいふ,しゅぎとはなにか?

    景梅九が,冗談のように發した言。

    『留日回顧』に,記されたことば。
    「有主義は,無主義よりおとっている。」

    これこそが幸德秋水の考え方である,

    ということを,それを,中國人につたえ得たにちがいない,
    と。
    わたしは確信しているのだがw
    景梅九は,一言で,つたえてくれたきがしたのである,すくなくともわたしには。

    わたしにとって,幸德秋水の直接行動主義をわからせてくれたのは,結局,鄒威丹,と景梅九だった
    鄒容はこの前年に獄死してしまっていたが。


    ――――――――――

    なぜなら,人は無主であり, “主” であるから。

    一足飛びに行き過ぎてるが・・・・


    野,の現實,
    無政府状態の歴史をもつ,
    國家亡失の記憶を持つ中國,

    その,中國人は幸德秋水の本質を知るよき理解者,理,の解者であったろう,そんなこともあえて言ってみる


        平民新聞一周年紀念 幸德秋水,堺利彦,西川光二郎,石川三四郎 明治三十八年十一月十三日
         平民新聞一周年紀念 明治三十八年十一月十三日
         幸德秋水,堺利彦(後),西川光二郎(右),石川三四郎(前)


    幸徳秋水⑥“平民の職分”『平民新聞』 令月開和景?當令外國懼,不敢覓和親

    “雷電頒時令,陽和變歳寒”  か 
    はたまた
    “只要天和在,無令物性違”  か


    白居易だ。生年的に
    万葉の後塵を拜しているかw
    いやこっちかな

    “當令外國懼,不敢覓和親”

    これは,王維だ。ねんだいてきには万葉と同時代。びみょーな所。

    しかし。
    意味はこれ,やばいなwピッタリじゃないか
    敢て和親を覓ず,まさにガイコクを懼れせしむ。かw
    ぜったいちうごくじんなんかおもしろいこというだろうな

    あはは
    「日本新年號“令和”敢說沒有引用中國古籍?屈原生氣了!」

    まったくだ
    我很慚愧!
    我感到羞耻日本。對不起m(__)m


    どーでもいいが。

    かつて。日本で,『文選』とともに,

    万葉歌人にも

    最もよく愛讀愛唱せられたるの愛の歌,艶詩集 『玉臺新詠』
    そこに収められる南朝梁は 王台卿 (『玉臺』では 蕭子顯 の作とされる),
    超,超有名な,色っぽい,な樂府 《陌上桑》

     令月開和景,處處動春心。
     掛筐須葉滿,息倦重枝陰



    日本にこだわるなら。
    國書からです。と。
    あくまで言い張りたいなら 
    カタカナを使うべし
    レイワ元年,二年でいーぢゃねーか

    そうじゃない。
    倭ことばをつかえばいいじゃないか。だ。
    なんで漢字つかわなきゃいかん?
    へんなの。

    漢字は中國産,輸入もの。
    國書・・・無理があり過ぎるわ

    とにかくはずかしい。

    何が逆輸入だ。
    こっちが先にあてはめたっ
    えらいっ,すごいっ,ニホンジンってなもんだろーけど
    西洋思想の概念語,術語。
    すでにその概念があった,おなじようなことが漢字で表されていた!
    すごいっ中國人!とは言わないニホンジン。

    我我日本民族が,孔孟老莊中國漢語と西洋と結びつけてやったんだ
    だから中國は我我の日本漢語を逆輸入したんだろ?

    あほか。理念が中國にもともとあったんじゃ。
    彼の人のモノと,此の人のモノが似てるっと指摘しただけで何で我らのモノになるものかね

    ネトウヨとかわらんレベルのかんぼーちょーかん。ソーリダイジン。



    平民の職分

     和か戰か,吾人平民知るところに非ず
     吾人平民ただ平民の職分を有す
     平民の職分は平民全體の利益に在り,幸福に在り,
     道義の向上,文明の進歩に在り,貴族富豪の私怨の犠牲たるに在らず

       週刊『平民新聞』明治三十七年 



    うーん。チカラづよいな。幸德秋水の文章は。。
    と。
    では演説ではどうなるだろうか,という疑問が
    うかぶ人は・・・・いないか,もしくはそーとーにヘンなヒトだ,とは思うがw
    社會黨大會における幸徳秋水の有名な演説があって
    それがすさまじく,すごいっと思うっていて,それでそれを書こうと思ってんだが
    その前にぶつくさ

    幸徳秋水の著述は,以前讀んだ時は,ある種文辭的,文學的面白さに強く惹かれ,
    また,歴史,として,歴史の面白さとして,あたまにはいってきていたのけれど。
    この頃讀み返して,ひどく思う,
    かつてとひどくちがって感じ入るのは。
    これは・・・・

    彼の仇敵であるところのもの,もしくは彼を仇敵とかんがえたものたち,
    つまりは彼のコトバが彈劾し,彼のコトバによってあぶりだされている,モノ
    今も,つづく。
    つづいていたという現實感。
    わたしが生きているこの一秒一秒,一寸一尺の空氣と,
    時代時代をへながらたしかにつながっている,というような體感的な。

    時間はつながってるのであたりまえのことなんだが,いぜんはそのあたりまえの感覺はすっぽり抜け落ちていた。
    というか無かった。

    しかし,いま,
    日本は明治末年のころとなんら變わっていないという,ジジツが,おおきくひしひしと,ヒタヒタと
    重く嫌なものとして,壓迫感にも似て・・・迫ってくるように感じられる

    よくわたしの親の世代,が,いう,
    「今は戰前の空氣と本當に似てきている」
    という情緒的,感覺的な言葉が,なんとなく,戰前の空氣を知らないわたしにわかるキがするのである
    明治に書かれた書物を読んで,親たち世代の戰前を感じるということは,
    とりもなおさず
    “明治から始まっていた「戰前の空氣」”
    ということだがw。 

    黎明期の社會主義者の “知” と “理” が訴えかけてくるものを,必要にせまられてとらえようとしている自分がいる,
    ということでもある
    そういう自分に慄然とする
    もちろんこうした感情は,安倍政權と,天皇の,日本國の日々過ぎてゆく日常のおかげさまである。

    ・・・・・・・・・・

    幸德秋水『秋水三名著』昭和二十一年 


    先日画像に出した幸徳秋水の 『秋水三名著』
    というのは,昭和二十一年の発行。
    明治の社會主義者の文獻を出版するという企畫の最初のくわだてだった。

    わたしが幸徳秋水の全集を買って讀み始めていたころ,
    若いころアカに心酔していた父が,こんなのがある,といってひっぱり出してきた本だった。

    あの,ウワサの,幸德秋水,その書物,が出る,本屋に走ったという思い出話つきで。

    表紙にできるような紙もなく。

    なにかの肥料のポスター広告に使われてた,藁半紙よりは厚いというだけの紙が流用されて表紙に使われている
    當時,どれほどの物資の窮乏の中で,是が出版されるべき最優先と,みなされて出版されたのか。

    幸德秋水『秋水三名著』昭和二十一年


    終戰後,一年を經て出版された。
    1950代の人民中國の出版物よりもっとみすぼらしい本だがw

    その出版主旨は高らかにこのように宣言されている
    いわゆる逆コースがあからさまに始まるまでの榮耀,燦たる新生日本社會黨のすがたがある

    幸德秋水『秋水三名著』昭和二十一年出版主旨


    さはさりながら,堺利彦はともかく,だ,幸徳秋水は,この議席を九十餘かちとった「社會黨」とは,なんのかんけーない。
    ということをかんがえることも
    極めて大事なこと,
    である。と。
    ほんとうに今更ながら蒸し返して感じ入るのである


    十年いや十五年前になるか,最初にこの出版主旨を讀んだ時には,特になにもおもわず。
    そーか。

    とおもっただけであった。

    中國のカクメイと日清日中戰爭を追ってたわたしには,
    中國人にとってものすごく偉大な先驅者,としての幸徳秋水への,興味であるにすぎず
    とくべつ,日本の社會主義の歴史,変遷には興味がなかった。
    最近讀み返していて思うのは。

    とにかく,「無政府主義者幸德秋水」とはなにものなのか,という。
    いや,無政府主義とはなにか,ということだ
    そしてなぜ中國の文人は幸徳秋水を “文人” として非常に高く讃稱するのか

    幸德が,片山潜,西川光二郎らとめっちゃ對立したとき,平民新聞と社會黨の諍いというのは,セクト派閥のあらそいではなく。
    ジツはきわめて本質的な,根本の立ち位置のちがい,からきたる兩者の論爭で
    ものすごく示唆に富んでいて面白い。

    幸徳秋水が,「政治思想」家,ではけっしてないことを
    思想家であり,「社會」主義,者であり,かつ,アナキストであり,
    かつ自由主義の文人であったことが,(あるいはひょっとして文人にすぎなかった,ということかもしれないが)
    ・・・・

    とってもよくわかるキがするのである。

    明治の,日本社會黨大會第二回における,幸德の演説を少し引用していこうと思う

    無主⑭平民とはなにか 屈大均《天泣》《癸酉秋懷其七》

     
    たとえば,平民,という。
    あるいは水平という,ニホンジンにとって水平とはホライズンの事であり,對立概念はバーチカルすなわち垂直,それでいい。
    差別の問題に關心があるヒトなら,またちがうだろうが。
    平民とは何か
    a commonner


    “漢字を母語とする” 民にとって,熟語とは,單語ではなく,單語とは,字一つを言う。
    單は,複數のモノやコトでなく、單とは一と同義だからだw
    日本人は,單語として理解してしまっていることばも,漢字を母語とする民にとっては
    それは “文章” である,とも,いえる。

    水が平らかなるが如き,とはなにか。平らな水という現象はなにか?
    みず,とたいらか,がむすびつくときとは。
    言うまでもなく水とは常に平らであるとは限らない。丸い容器,容れる器に入り込んだなら,水は丸い。
    たいらなのは,容れ物が,平面を志向するとき,そこのはいった水の水面面だけが水平なのである

    平らか,とはなにか?
    平民とは何か?
    「そもそも平らかなる民」,もしくは「民の平らかなる状態」
    杉田水脈のようなサベツ主義者は,
    平民には,平民と, “新平民” があるね,というような,ヤマと國の歴史轉換期をマナブこと,で
    ジツは平民という言葉の本質をしることになるかもしれないがw

    その意味では勉強熱心なヒトビトではある

    つまり
    “新” 平民とはなにか?
    いわゆる “ヨツ” のことである。
    ヨツといってわからなければ,エタ,ヒニン,といえばわかるだろうか
    つまり,新時代の革新によって,身分制度しのうこうしょうえたひにんいなくなり,平民に格上げされたヒトビト,ということ。


    幸德秋水が,『朝鮮併呑論を評す』 と題した平民新聞の論説(1904年36號)のなかに德富蘇峰と,海老名彈正を批判した文章
    こんなくだりがある。 

     吾人の見る所を以てすれば,日本民族が如何に異民族に惡感を懐き居るかは,
     彼れが謂ゆる新平民に對することにても明白也。
     日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは,心ある者の常に憤慨せる所に非ずや。
     韓人が日本人と合同せんとする事あらば,そは合同に非ずして併呑也,韓人は到底使役せられんのみ。


    此の言の痛烈なこと
    言うまでもないが,明治も,ヘイセイが終わらんとする今現代も延延と,シュクシュクと持續されてきた,かわらない・・・性根。
    強靭なる差別思想であるw


    平民とは。
    あくまで身分制度がとりはらわれたからできた民の名稱にすぎない,と考えたい,つまり “狭い” 範圍の中での言葉づかい
    としてヘイミンという熟語を單語としてとらえるヒトビト。

    もしくは。

    サベツとは
    差あり,別したいの意,があえて差異をとりたてて見つけだす作為。
    差異を知るには仔細にあれこれ考えるなければできないこと,で,
    その意味で非常にベンキョウねっしんであるが
    差異がないときに,差異を言い募りたいココロばかり突出したヒトビトは
    さいごに,捏造にまで走る,

    ザイトク會のいいつのる「ザイニチ特權なるもの」もそうである。
    平和,大地を,海をかけがえのないものと考える,本土のココロ,と何ら變わりない沖縄に生まれ生きる素朴な,本土と差異ない心をもって基地建設にハンタイするヒトビトをも,
    差異がある,あいつらは反日,中國から金をもらってる特殊なヒトビト
    と決めつけるのも
    要は,
    沖縄サベツをしたい “意” もて,御ベンキョウネッシンなヒトビトの頑張って見つけ出した差異であろうか?

    このように進化してしまう
    ある種の作為,でっちあげ,とか,ふれーむあっぷ,とか,ともいうが。

    “新平民” 云云は,ニホンの固有ドクトクのモンダイだが。
    朝鮮人差別,中國人差別,三國人蔑視&白人コンプレックスとなると,これは,ニホンジン,のモンダイとなる

    みっともないので,なんとか克服できないものだろうか,とわたしはおもう,が。
    わたしやそのように考えるたくさんの,ひとびと,おおぜいの人人の “意” は
    サベツ作為者の考えの,その大勢(たいぜい)の “物量作戦” に敗北を喫しつづけている
    ・・・・
    というのは實に人が良いナイーブな見方で,

    ほんとは日本人の正體(ショータイ)が差別意識のカタマリ,集團なのだ,と。
    執拗に眠れないネクラな夜にはw
    つい,そのようなことまで考えてしまう

    集團のアイデンテティがそうであるなら
    平民とはなにか,と,いくら執拗に考えたところで,究竟,差別意識の撤廃とはならないのは
    至極あたりまえwだ。
    などなど。
    と。
    サベツの意とは,言うまでもなく,差別化して排斥するのが目的で,
    つまりは “純潔” という, “たいじなものをまもるために” 必須の切なる行動パターンであったりする
    そうして,これは自衛行為なんだ,と,正當化されていく,サベツ心,サベツ作為だがw

    そもそもそれってそんなに,大事なもの,なんだろーか???
    ということも,同時に,かれらが “考えられない” ,のは,
    なぜか?
    ・・・・。

     “考えない” からである,
     かれらは。
     ベンキョーはするんだが。

    という短絡で切って捨てたくなるがw

    そうするとブログが終わってしまうのであれこれ理屈をコジツケてはあれこれ書いていく

    平民,百姓(ひゃくせい),白丁。
    普通平民(pǔtōng píngmín)

    丁,ということば,は,いいな,とおもう。
    子が生まれたらそれは “添丁”。愛すべき男の子は “添丁郎” 。
    百(たくさんある)姓,愛すべき “百姓(ひゃくせい)” は老百姓

    敢て,民,というそれはナニなのか,と “考え” た古代に,それは平民である,と,ことばにした。
    貴族,公人,奴婢,あるいは穢多,非人というような體あってそのうえで,平民という言葉ができたのか,そういう言葉を作る必要にせまれてなのか,
    その言葉が生まれるための動機,言わば因,が,なにだったのかはかんがえかたによってちがうだろうが,
    平民ということばが概念化されたという,果,は,とにかくあったのだった。


    「禮以行義,義以生利,利以平民,政之大節也」
    『春秋』(左氏傳)にある,つまり紀元前600年,だ,

    政治の要諦,理想の國家とはなにか。
    孔子がここに言う,平民とは,もちろん万民であり,為政者の禮,義,は民に利をもたらす、というよーなことを言ってるわけだが
    つまり,利がもたらせられるべき主體は民,である,といっているのだ,s,平らかに,と。

    この場合の平らか,とはなにか?

    “平均” とは平らかに均(なら)す,であって,平等とは少し違う,
    いわゆる平等思想よりもっとラディカルな謂いだが,
    平均,正に水平, “水が平らかになる” ときの,それに “向”かう 水,そういうように志向するのがまつりごとの大いなる理想であるということはあるだろう。

    平,にはそもそも無傾向,かたむいていくようなむかいかたはない,という意味がある

    轉じてそれは,安定をもたらすものである,和を維持することにつながる

    さらには,平には,汎,一般,不偏,普遍通底的,つまり遍く,全,に同ずようにして通ず,ふつー,の意味がある

    equal, flat, peace, calm

    その民。

    平民と言うことばによってこれらのことを理解するなら,
    平民の對立概念とはなにか,とかんがえればとほうもない。
    しかし
    それを, “新平民” といってみたり,三国人といってみたりw
    反日,ヒコクミンといってみたるがごとき人々は
    狭い,
    あまりに狭い範囲にとらえてしまっている “單語” を,借り物の既製品である漢語の表層理解でもって用い使って,自ら事足り,と満足デキる人人であって
    どこか足りない,考えが足りてないキがするのであるw

    そもそも。
    ひょっとして。

    平ら化を志向する,という “意” が,
    にんげん,じんるいにはもともとそなわっているのではないか?

    という
    危惧なり,畏れなり,疑念なりを抱け得ないヒトビトなのかもしらん
    もちろん
    人間社會は平ら化を切望などせず,常に競爭し,凸凹と突出したいの意をもつ,それを棄てられない個人によって,現出せられる状況,
    ではあるのであるが
    ゲンジツに生きる,と理想を夢に見る,は,あんがい,ふたつながら人間に備わってあるものだろうし

    サベツが生きがいとするにんげんとなるか,
    和を調える水平社會を夢に見ることをよしとするか,

    サベツ心がなんとなくぬぐえないをよしとするか
    平和と水平を熱望して生きがいとするか

    どれもいたってかんたんなことである,かんがえるだけなら。

    考えることだけをするのはカンタンなことだ,

    ジツはこれを “内心の” 自由という權利でもあるらしいがw
    考える葦屮は,
    何によって生かされているのか,ではなく

    何に依って、由って,因って,據って,生きるのか,所以,よりどころを以て
    生の價値をしるか,信じるかという。

    その價値は,

    サベツ
    しなければ,見出し得ないものなのだろうか?

    平,兀なし。凹凸なし。つまり坎坷なし。

    坎坷とは,高低あり不平。

    以不平平,其平也不平

    だいすきな《天泣》。
    以前も持ち出したが。

    天民を詠い天が涙下する。

    無雲の雨がふる,という,屈大均の詩がある



    屈大均 《天 泣》


    死生無一可。
    涙下悲坎坷,と韻を踏む

    天の流す涙に,茫茫と,餓え,溺れる民を “懐” にして
    涙は下る,平らかならず,高低不平ではない坎坷,大地を悲しむ

    死生,人生は一つとして可なるなし,仰不愧於天,俯不怍於人
    天を仰ぎ地にうつむいては愧怍,多し吾人。

    屈大均の明朝という漢族の天地をうしない,アイシンギョロ一族によって國家が滅亡した時代に,
    隠棲し,出家した屈翁山,の絶唱ともいえよう。
    なぜ出家したか?

    辮子に,ベンパツにするのがイヤだったからである

    癸酉秋懷》  其七

    《癸酉秋懷 其七》屈大均


    癸酉秋懷 ,という。
    癸酉とはいつか,1633年 崇禎六年。

    明王朝最後の皇帝が,追われ,後金すなわち滿洲に興った女真族によって 「“漢” 土」が「 “清” 土」に,變易した,つまり滅亡した際,詠まれた歌,であろう

    屈大均は國土防衛の重責、大任を擔った武人,勇猛にして硬骨の優れた將軍であった。
    その,職責をまっとうできなかった。
    かれの祖國は,結局滅亡してしまったのである

    中原におれば,死ぬか,あるいは清に屈伏し,偸生,つまり自分の志,節を枉げて清に忠誠を誓い官となるか

    という,當然ながら頭髪を半ば剃り上げ後ろで三つ編みしなきゃならんという屈辱も待っている
    だから剃髪して居士となる
    今ある國家,為政者を否定する,拒絶する

    そこに,無政府主義,が,立ちあらわれる。


    當時こうして野に下った文人は多かった
    歸田,東歸(故郷に歸る),隠棲する
    彼らの先驅は,といえば,莊周,陶淵明,
    アナキスト,と言って言えなくない
    個人,自由,を前提とした,無政府主義というより無國家主義的の,アナキストである
    いうならば,individualist anarchism,だ



    陸遊(陸放翁)は,四川は成都に赴いたので嚴密にいえば, “東歸” ではなく
    また,
    屈大均(屈翁山)は,彼の故郷である,廣東は番禺,に歸ったのでこれも東歸ではないが

    彼の殘した詩文のいっさいは清代に發禁書物となって,所持が見つかれば即死罪という
    清代における,反體制者,思想彈壓のターゲットとなるのである

    ちなみにどーでもいーことだが,この, “南に逃亡したような” 思想犯たちの書物は,清代に失われたものも多かったが,散逸しながらも隠匿され,じつは清王朝の苛烈な文字の獄,その徹底した捜索の眼をのがれ, 民國までかろうじてつたえ殘されてきたものがあった。
    それらを探しだし,収集することをライフワークとしていた柳亞子という文人がいる

    彼がそれらを所蔵していた彼の自宅はあるとき,ある軍隊に接収される。
    彼の所蔵してきたそれらの書物はすべて,暖を取るための,薪とされたw
    焚火にして燃やされたのである,これも一種の焚書であろーが。
    真珠湾攻撃のすぐあと,香港を陥落させたときのことだ

    柳亞子自身は身一つで,極秘裏に香港に侵入していた八路軍によって間一髪のところ身一つで救出され大陸へとのがれることができた。
    あのとき,香港に八路軍の侵入をゆるしていた,というのは,帝國日本軍にとっては恥ずべき失態であるが,日本政府は當時も今もゼッタイ認めないだろうがw

    日本人は先の戰爭では,中國の文化遺産をすいぶん破壊し,また文物財宝をかっぱらったが。
    南宋の,宋皇臺を爆破し, “南明”政府 の,かけがえない公文書,反清の文人の詩文をあまた燒却した。
    世界の人びとは案外良くしっている。
    ほんとに
    とんでもない民族だ
    一方,京都は奈良は焼夷彈をまぬがれた。もちろん皇居も。
    三種の神器を強奪するような占領軍の将校や文官や,も,いなかったが
    ・・・・。


    はなしがとんでもなくそれていったが。
    思いつくままに書いてるとこうなってしまう
    書きたくなることは山ほどあるある。だが

    ・・・・・・。

    トルストイ的無政府主義者もナロードニキも
    ある種, “歸田” 運動と言って言えないことはない。
    レフ・トルストイの,屈強なアンチ・ボナパルティズムは彼の故郷ヤースナヤ・ポリャーナ,
    この地から發せられる

    ヘンリー・デイヴィッド・ソローも「森の生活」者的無政府主義だ
    彼の「市民的不服從」は多くのアジアのカクメイ者にも影響をあたえる

    バクーニン,クロポトキンのアナキズムは,マルクス,レーニンと對立するが
    その對立の根底にあるのは究竟,無政府か,有政府か,であるw,
    この對立の構圖を考えると,無政府主義とはなにか。
    が,よくわかる。

    そもそも。
    國家を亡くして,失くして,無くして,も,生きている人々はいる,いくらでもいた,という人類。

    國家とは何か?
    とは,もちろん
    政體とは何か?
    であるが。

    河上肇の言うようにw
    西洋諸國は皆な民主國體なるが故に,西洋學者の國家論には政體と國體の區別をたてたるものかつてこれあらず。
    日本國が國家論の一材料たるに至つて,はじめて政體論のほかに國體論あることを得。


    國家。
    易姓革命,滅亡,光復を經驗したことのないニホンジンがなぜ,國家をかけがいないものと考えるのか
    論理的に,いっこう解明されないフシギ

    國家とは,もしかしたら,サベツ化の欲求やまざる,の意が,ふるはーとでもって成立させてきた概念なのかもね,

    と。そんなことをぶつくさと考える。
    それで,終わり,でよいではないかとw

    詩を讀んでいる時間はかけがえない,
    ブログなんてやめたほうがいい,とよくおもうがw

    色んな漢字は輸入され言葉はつたえられてきたが,
    ついに
    日本につたわらなかった言葉,

    天民,

    それはなぜなのか
    コクミンの對立概念でもある,ある概念,或る人びとになづけられたことば,

    サベツされるべきだ,被差別主體があるべきだ,という意がむかう,その實體,その “體” には,ほんとは特に,差異はない,だれとくらべても。
    差,や,別,をなくする,なくしてしまい。
    根本的に無にしていまい得るだろう言葉。

    天下平民

    景梅九③『留日回顧 一中國アナキストの半生』“無主義=一弦琴”


    『留日回顧』       景梅九

     無主義=一弦琴

     友人の某君が私にヘーゲルの學説は無政府主義に影響するところ大である,といつた。
     なぜならそれは相對的二元論を基調としており,片方に有があるから片方に無があるのである。
     たとえば世界に國家があるから無國家主義が出てくるし,政府があるから無政府主義が出てくるのである。
     宗敎があるから無宗敎があり,軍備があるから無軍備があるのである《章太炎はかつて佛敎にもとづき,無世界,無衆生までおしすすめた》。
     だからある人は,現在の極端な社會主義は,純粹には無主義であると評論した。
     私は笑つて,
     「そういうなら,有主義は無主義より劣つている」
     といつたら,友人も笑つて
     「そのとおり,そのとおり」と答えた。
     無軍備主義のことも持ち出したが,次のようなことを覺えている。
     ある日,日本社會黨が梅花園で園遊会を開いたことがあり,わたしもさそわれて行つたところ,合計三,四十人がそこのあずまやに集まつて圓座をし,何人かの大演説家が大いに議論を吐きえらく沸き立つた。
     幸徳秋水先生が丁度演壇に登り,少し話し始めた時,二人の梅花園に散歩にきた兵士が目の前に來たのを見て,さつそく無軍備學説をとらえて力説した
     「ドイツの軍隊は,ドイツ皇帝の野蠻な命令を受け,上官は兵士に命令し,その父母,姉妹に向かつて發砲させ服従することも要求する。
     フランス社會黨は別に宣言書を出した。
     上官が兵士に國民に向かつて發砲せよ,と命令したら,それこそ自己の同胞にむかつて發砲させることであるから,この時兵士は當然銃の向きを變えて,命令を出した上官に向け發砲すべきだ!」
     
     そこまで話したところ,その二人の兵士はおおいに感動した樣子であつた。たちまち警官がやつてきて,彼らに聞かせないよう連れて行つてしまった。
     幸徳先生は笑みを含んで大聲で
     「願わくば,わが愛國の同胞兵士よ,この話を心にとめて,それからそれへと傳えてくれたら,それこそ日本の福音である!
    と述べ,拍手のうちに降壇した。


     一弦琴


     一同はまたしばらく茶話をした。
     福田英子《彼女こそ日本の變革時代に政治革命を謀った女傑で,爆彈を枕にして寝ていたので探偵も敢て近づこうとしなかつた》が,みずから一弦琴を弾いて興を添えた。
     調べが高く淸らかで響きが激しく悲しくて,多くの音がすべて一弦より出され,聽くひとをして心を遥かな彼方に馳せさせた。
     私はこれによって陶淵明の無限の琴のことを推し測り,これは無政府主義のイメージにぴつたりあうものだ,と一絶をものにしたのだった。

    結びに


     一自羲皇人去後
     更誰能理無弦琴

      ひとたび羲皇〈伏羲)の人去ってより後,更に誰か能くおさめん無弦琴



      平凡社東洋文庫81 大高巖 波多野太郎譯
      景梅九『留日回顧―― 一中國アナキストの半生』



    必欲去心垢, 須彈無絃琴   ―邵雍

    福田英子(1865-1927)は,
    自由民権運動時代からの闘士,、大阪事件で入獄。東洋のジャンヌダルクと言われる。
    朝鮮改革運動からはじまり婦女子の解放運動,社會運動に一生を投じた
    『萬朝報』記者福田友作の妻『平民新聞』に參畫。
    その半生記『妾の半生涯』は青空文庫で讀むことが出来る


    最後の一絶は,此の讀み下しだと少し違うキがするが。

    ドダイ讀み下すことができない中國詩は必ずあるわけで
    そこを無理に讀み下すと含意の微微たる妙味が抜け落ちてしまう・・・・・

    自ら,一個の羲皇人(≒自由人)という,その人去りて後 =幸德秋水
    誰にどんな,理がのべられようか,そもそも,有ろうか,無弦の琴を抱えるしかない


    陶淵明の故事によって

    無弦の琴には

    歸田,隠遁者,
    そして,そもそもなぜ隠遁するか,
    失意,不得志,落魄,という現實があって
    虚しさ,空しさ,枉しさをのりこえて,自適,淸閑す孤單の人,という意味がすでにある。
    それが無政府主義と結びつく,
    無政府主義には,そういう意がある,
    中國人には
    政府がない,それは,天下と吾人のみ,野に棲遲する,という素朴にして自由な世界に生きる姿として具體的にとらえられることができた。
    そうした暮らしに表徴される詩人の代表が,陶淵明。
    また,梅のすがたに “無主”を感じて愛でる陸遊 ,という
    また羲皇人(≒自由人)という。
    中國文人にとってはそういう表徴を,だれもがが持っている

    幸徳秋水にそういう,羲皇人(≒自由人),布衣の人,を想う。景梅九,
    “平民” ,ということばの根底にある,幸徳秋水の強靭なる自由思想,を感じとったのだろう,
    景梅九の感性,がよく表されている一文である
    だから虚無黨なのだが。

    無弦琴。


    究竟
    革命家の文人は,此の自適の生に理想をもとめ,そして獄死もしくは處刑されていったと言って過言ではないかもしれない,

    陸遊 《秋晚弊廬小葺一室過冬欣然有作》

     秋晚弊廬小葺一室過冬欣然有作

    放翁畢竟合躬耕   Fàng wēng bìjìng hé gōng gēng, .
    剩喜東歸樂太平   shèng xǐ dōng guī lè tàipíng
    碧瓦新霜寒尚薄   Bì wǎ xīn shuāng hán shàng báo
    明窗嫰日雨初晴   míng chuāng nèn rì yǔ chū qíng
    素琴尋得無弦曲   Sù qín xún dé wú xián qū,
    野餉烹成不糝羮   yě xiǎng pēng chéng bù sǎn gēng.
    更説市朝癡太絶   Gèng shuō shì cháo chī tài jué
    一湖秋水濯塵纓   yī hú qiūshuǐ zhuó chén yīng


    わたし,放翁(陸遊の号)は畢竟,躬をかがめて田を耕やすが合うようだ
    故郷に歸つて太平を樂しんでいる,剩すほどの喜びあり,だ
    碧の瓦に新しき霜ふりても,寒さもいまだ薄きとき,
    明るき窗(まど)に陽光のやわらかさ,雨のち初めて晴れるを知る。 

    素の琴を抱いて尋ね得んとするか,無弦の曲を
    野にても餉(かれいい)を烹てくらえばいい糝羮のようなごちそうではないが
    更にいうなら市場だの朝廷だののキチガイじみたのはもう絶ちきつた,
    一人,湖の,きよくあきらかなる秋水に世俗の塵を濯ぐのみ。





    そして無弦の琴には,變わり者,偏屈,ガンコの意もふくむ

    白居易の歌う嵆康(223年-263年)嵇叔夜, 嵇中散

    竹林の七賢,阮籍と並び稱される曹魏末の文人音楽家
    琴の名手,である。
    日本のWikiにはろくなことがかいてないがw
    正に,幸徳秋水のひととなり,といってもよいようなw

    節を貫き,志操を枉げず,結局,權力者に膝を屈するを潔しとせず,文字の獄,筆禍によって
    無實の罪にて處刑された。

    他堅持思想與人格的自由,不追逐世俗名利,為追求正義而犧牲的品質,被後世視作中國傳統文人清廉正直、不畏強權精神的代表人物之一。

    白居易《詠慵》 嵇叔夜(嵆康)

    要するに白居易は,すべてに慵(ものうい),かったるくってやってられない,
    あくせくするならなにもしないほうがいい,という心境をうたっている

    ただただものういんだ,という心の叫び

    嘗聞嵇叔夜,一生在慵中。 
    彈琴復鍛鐵,比我未爲慵。


    曾て,聞いたことがあるが。
    嵇叔夜は,一生慵中にありと。
    しかし琴を彈じてはふたたび鐡を鍛え(琴に工夫を加えている)

    くらべてみても,おれさまはもっと,ものうい!

    景梅九②『留日回顧 一中國アナキストの半生』夏期講習會“道徳論”

    幸德秋水は,この時代,
    日本,帝都は恰も露國革命青年にとってスイスがそうであったように,中國の,朝鮮の,あるいはアジアの進歩的青年のための革命の教習所たりうる,と,そのように考え,もしくは夢想していた,
    ということを前頁で書いたが。

    そして社會主義の研究會,マルクスの『資本論』の学習會,など,活發化させる。
    反帝思想は,學習されるまでもなく,瓜分された中國の大地のゲンジツと,戰禍のなかで,彼らの間に膨満している,
    インペリアリズムの害惡は火を見るより明らかだ。
    が,
    では,なぜ,その “帝國主義” 國の日本帝國の中に革命を訴えるものがいるのか。
    幸德秋水らにとって日本の何が問題で,このヒトたちは何を變革しようとしているのか

    幸德秋水のうたう反帝,社會主義思想が淸國留學生の心をわしづかみにしていく過程で
    マルクス主義の經濟理論の學びも始められ,“剩余價値説”は

    とりわけあっさりと,
    中國の留日學生を納得させていった。

    おぼろげにも,苦しい人々ををくるしめさせるのはなにかのせいだ,と
    かんじられていたなかに。
    その答えをごく單純なマルクスのリクツを示すことで理解させた,ということ。

    この理窟は,經濟學の學究から一般勞働者まで,誰も否定することはできないほど單純である,が。それ故,強靭だった,
    デンパの速度もはやい。

    また,勞働者であれば頭でわかるノミナラズ日々,體感しているゲンジツとなんら齟齬がない。
    とりわけ搾取されている勞働者であれば,なおさらである,
    いわば,目からうろこ,の誰でもわかる道理であった。

    そして。
    この理屈をみなが知るなら,世の中は變わる,だろう,知れば誰しも納得する,知らしめるべきだ!
    そのように,かれらが考えるのは至極當然となりゆきでw

    そういうマルクス主義的革命の,革命者にとって,いわばもっとも希望に満ち満ちた時代,その幕開け,と言えるかもしれないが。
    幕はあっさり閉じられる,


    小生は支那に於いて遠からず一種の虚無黨の發生を疑わず候

    1911年,武昌起義,そして中國各地にひろがっていった蜂起は,“革命” を成就させるものの。

    まさにその辛亥の年,かれらの起義を見ることなく年明け早々に處刑されてしまった幸德秋水。
    腐植土となるにはまだまだ早い,あまりにも早すぎる時季に殺された。

    そして結局この辛亥革命は,さまざまの要因から,かれらにとっては成果のないものとなってしまい,
    どこかの,ギロチンによる大革命を成就させた國でも起きたような話でもあるようだが。
    “革命” の果實は “簒奪”w されてしまう
    専制権力の亡者,餓鬼たる袁世凱に “めしあげられ” 食らわれた,
    その “洪憲帝” のために理論的構築をしたのは,皮肉にも,日本で幸德秋水ら,と共に學んだはずの,アナキスト劉師培だった,という,マヌケな現實も,オチとして待機していたのだが

    究竟,
    この辛亥革命が,孫文ら “中國同盟會による革命” であったことの必然であって,
    革命がマルクス主義革命ではなかったために生じた結果だった,と考えたものがあって
    それらが,およそ十年後に,上海で中國共産黨を組織した。
    ということである。

    その間に第一次世界太戰があり,そしてさらに,
    ロシア革命,ソヴェト労農政府の樹立という,
    中國の “瓜分”状態を 大きく轉換させうる出來事があったにもかかかわらず
    相変わらず中國の苦しみは何も變わらない
    それどころか,内戰といっそうおおきな怪物となった日本帝國によってさらなる瓜分,搾取,戰亂が,くるしみばかりがとほうもなく広がっていく

    さて本題。
    帝都を瑞西たらん,と考えた幸德秋水のこのころの持論。
    それを書く
    が,幸德の著述の中からではなく,景梅九の『留日回顧』から,まずは拾い出す。

    なぜかというと,この文章には,わたしには多くの示唆が含まれていたから。
    中國人が,幸德の主張のどこは中國人にとってすでに自明としてあって,
    どのように,すんなりと受け止められたかが,なんとなくわかるようにかんじられたからである。

    當時も今も,これを讀む日本人の多くは幸德秋水の主張を,おおむねあたり前のことをいってるが,その一部は不完全でおかしなものと,受け取るだろう,とわたしはおもうわけだが
    ・・・・。
    しかし
    中國の歴史には,というか文明には,このような “論” を特に異様と受け止めない,
    極論とうけとめない素地,資質があることが
    わたしには納得できた,というか,妙に,感得させられたのだった,

    それが中國人の優越を意味する,とか,中國人の劣性を表しているとか,そういうハナシではない,
    が,明らかにわたしがかんじている日本人と中国人の考え方の違い。
    その素地のちがい。つまりは土壌の違い,お “國” 柄のちがい,その一つ,
    ということだが。
    この短い文章もふくめ,景梅九の書いてることは
    わたしには一種おおきな驚きではあった。

    それこそ多くの人にとって,ベツにどうでもいいこと,だろうと思うが,w
    また,景梅九がヘンなだけじゃないか?と受け取られる可能性もあるとは思うがw

    當時幸德秋水は,金曜の夜,山川均,堺利彦らと講演をした,と書く,昨日掲げた画像の文中にあるが,
    その,ある金曜日のこと。

     『留日回顧』  景梅九

      “道德論”
     
     この夏期講習会は金曜講演會ともいった。
     ある日,幸德秋水先生が會に来て,「道德論」を講演したことがある。
     ほぼロシアの無政府主義者クロポトキンの學説を引用し自分の意見を交えてだいたいこういった

     道德は善惡を基本とし,善惡はまた是非(よしあし)を標準とする。
     現在世界はまだ大同になっていないから,あちらも是を是とし,非を非とし,こちらも是を是とし,非を非とするといった具合で,互いに言い分を主張する。
     まさに是非混亂の時代であつてこの善惡も一定の標準がない。
     たとえば殺人を非とする。つまり惡いこととする。だが戰爭になったとき敵を殺すのを非とせず,なお是としてかえつてよいことと考える。
     まさか敵が人間でないわけあるまい。
     これを取り上げてみれば,今日,人が道德を論じるのはただ反面を論じているだけで,一定の標準がない。

     空間的(現實の地域的)道德は大略こんな状態であるが,時間的(歴史的)道德も同じようなものである。
     古人が是としたものも今日では必ずしも是とは認められず,古人が非としたものも今日では必ずしも非とは認められない。
     たとえば君主に忠をつくすことを古人は善と考えたが,今日ではかならすしも善とは認めない。
     君主をないがしろにすることを古人は惡と考えたが,今日では必ずしも惡とは認めない。
     階級を打ち破つて主人と家來の身分の區別をなくし,宗敎を打ち破り神聖の絶對的尊嚴をなくする。

     ある人は,道德というものにきまりがないからには道德をとやかく言わなくてもよいというが,そうではない。
     道德には決まりはないけれども,公道(モラル)はおのずと人の心に存在する。
     要するに群衆に利益をもたらすものを善といい,群衆に害惡をもたらすものを惡ということはだれも反對しないであろう。

     しかしながら積極道德,消極道德の區別がある。
     「己の欲せざる所を人に施す莫れ」とは消極的であり,己の欲するところを人に施すのは積極的である。
     他人が自分にしてほしくないことを自分も他人にしないようにするのは消極的で,他人が自分にしてほしいことを自分も他人にしてやろうとするのは積極的である。
     必ずこの両面があって,はじめて完全となる。

     ロシアのある人――それは虚無黨の暗殺首領であった――が,ある日,狂犬に咬まれた。
     彼は親友に「私は狂犬に咬まれたから發狂するだろう。
     發狂すればきっとやたらに人を殺したくなるだろう。 早くそのピストルで私を射殺してくれ!」
    といった。
     その親友は,彼が発狂する前に約束どおり彼を撃ち殺した。
     これはどういうわけであろうか?
     つまり自分がもし人を殺すなら,人は自分を殺してもよいことを悟り,人がもし人を殺せば,自分もまたその人を殺してよいことを悟るからである。
     暗殺精神とはこういうものだ。
     《私は周公が,洛邑(洛陽の古稱,河南省)を經營した時,ある人が豊(ホウ=周の文王の舊都,陝西省西北)・鎬(コウ=周の武王が都とした陝西省)の要害であるにこしたことはないと言ったが,彼は「後世の子孫が好ければ,天下の租税を納める,道は平均する(洛陽は天下の中心であった)子孫がもし惡ければ,天下は私を伐つに容易であるが,もし陝西であると難しい」といったことを思い出した》
     もしそうだとすると,自分の子孫が惡ければ,他人が自己を伐つてよいことを知り,しかる後,他人の子孫が惡ければ,われわれも他人を伐つてもよいことになる。
     これはもっとも公平な道理ということになろう。
     個人が文字を創るに(自分の)心に欲するが如くすることを恕としたのも,このような考えかたである。

      平凡社東洋文庫81 大高巖 波多野太郎譯
      景梅九『留日回顧―― 一中國アナキストの半生』



    ※《~》は景梅九のひとりごと。
    それ以外が幸德秋水の道德論,ということになる。幸德秋水自身が書き残したものと齟齬はない



    後世のわたしの子孫が好ければ,天下の租税を納める,道は平均する。
    わたしの子孫がもし惡ければ,天下は私を伐つに容易である云云,

    という部分は
    周公の言いとして,日本語としておかしな文章だが
    このくだり,より正確に翻譯,嚴密にかみくだくとすると,

    「わたしがここを都とするのは,なぜか?
    わたしの子孫がもし惡ければ,その惡い,“天下を私化した,わたしの子孫(である為政者)“ を, みなが伐つに容易であるべき場所にこそ,わたしは都をたつるのが,すじだからだ。」

    ということだろうが。
    幸德秋水の公道ということば,にもからむが。
    道は平均するだろう,,というのは,
    そもそも政治が好ければ,都は要害の内にある必要もなく,
    また要害もいつか天下に, “平らかに均しく” 開かれた道となるだろう,ということでもあろう。
    なんとも氣の長い話,ではあるが。

    景梅九が,おもわず連想したという,周公のことば。
    このくだりは非常に示唆に富んでいるのである。
    なぜならそもそも周公の,このことば,が發せられた “とき”,とは。

    まず,周王朝とは,
    歴史上,武力による商(殷)周革命,つまり易姓革命政權最古の例であり,
    中國の歴史と儒學の理論構築,のなかではジツに重いものである,その王朝の,
    もっとも重要な輔弼の臣が周公だったからである

    もっといえばそもそも周公が,洛邑を都として建立したのは
    占いをしたら,ここが天下の中心とするがよい,だか,中心となるべき,だったかか,忘れたが

    たしかそういうハナシであるはずだw

    齟齬あり,輻輳しているが,しごく單純な啓示をあたえられたキが,わたしはしたのである

    つづく

    ちなみに
    幸德秋水がいう,心に欲するが如くすることを,恕,というところ。
    ,は,古字は,,もしくは異體字として,𡚿 であり,ということで,
    意とするところは, ,に近い。
    究竟同じことを言ってるといえばいえるが。
    つまり

    孟子曰:
    萬物皆備於我矣,反身而誠,樂莫大焉。强恕而行,求仁莫近焉

    萬物皆我を備える。身に反りみ誠なれば樂しみ焉(これ)より大なるは莫し。
    强いて恕を行ふ。仁を求むること焉より近きは莫し


    また

    孔子曰。
    夫仁者。己欲立而立人。己欲達而達人。

    夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て己れ達せんと欲して人を達す



    景梅九①『留日回顧 一中國アナキストの半生』“社會主義演説會”

    景定成, 字梅九, 號無碍居士(1882―1962) 
    1882年(壬午 光緒七年明治十五年)山西安邑城關に生まれる。
    1889年家塾に入る,
    1992年十歳五經に通ず,
    1995年十三歳 晉陽書院入學。
    1903年 淸國の官費留學生として來日する


    景梅九は,南章(章炳麟)北景と並稱され,毛澤東は長安八大家のひとりとたたえるほどの詩人,文人であるけれども, アナキストらしく,なのか,
    著書はいたってすくない。
    けれども。壯士籍籍たるの名聲あり
    初期の紅學研究者(紅樓夢オタク研究者のこと)としても著名な景梅九の著作がしられる(『石頭記 眞諦』)
    また中國における世界語(エスペラント)の先驅者でもある

    彼の自叙傳は二種あり,
    『罪案』(懺悔録のようなニュアンスの書題),『入獄始末記』
    日本では『罪案』が,
    留日時代の回顧部分に限って抄譯されて東洋文庫がから出版されただけである

    無名のまま,この先も話題にもならず
    まちがいなく忘れられていくだろう
    それもまた,アナキストらしくてよい,なのだ。

    景梅九 『留日回顧』

    『留日回顧』邦譯が,東洋文庫から出版される際,宮崎龍介氏(宮崎滔天の長男)より提供された画像,
    1926年孫文慰霊祭《中山陵に葬られた際の式典》の時に上海で最後に逢ったとき撮影された,とある。

    どーでもいーけど
    當時 淸末民初の文人に特徴的な猫背。
    荒川のヤンキー四番が投手を睨みつけるよりなお眼ツキが惡い文人 景梅九

    とにもかくにも,わたしに,しょーもない
    孟子發 “天民” 思想=“撃壌歌” 的アナキスム,の妄想,を植えつけてくれたのは,
    龔定盦と,主としてこのヒトである

    留日回顧  
    “社會主義演説會”

     日本は丁未の年(1907年、光緒三十三年、明治四〇年)はいわゆる西園寺内閣の時代で,大いにフランス式の寛大政策を行い,人民の結社の自由,言論出版の自由が活氣を呈した。
     ある日,大通りで友人に逢つたところ,今夜錦輝館で社會黨が演説會を開くから一緒に聞きに行って見聞を廣めようといつた。
     私はこのころこの主義を研究していなかつたが,いささかその魔力を知つていたので,好奇心もおき,「行つてよい」と答えた。
     彼は「多勢をさそつたほうがよい」といった。
     そこで夜になってから,若い友や蘭君らと錦輝館にはいつた。

     來會者は皆普段着に鳥打帽をかぶつており,なんだか警察官の眼を避けるような様子がみえたのは半秘密會のせいだつたからであろう。
     いきなり一人の男が出てきて赤旗を演壇の前にさつと垂らした。
     社會主義の四大文字が白くくつきりと浮き出た。
     滿場の聽衆はひときわどよめいた。
     それでやつとこれが彼らの旗印である事が分かつた。

     演壇の右側には机が置かれ,何人かのいかめしい警官が腰掛けていた。
     はじめは何をする人達かよくわからなかった。
     ついで一人が壇に上り演説し,開會の趣旨を二言三言いうと,右側に腰掛けていた警官が突然立ち上がつて,右手を上げ抑えるようなかつこうをして大聲で,「中止!」 と叫んだ。

     演説者はそれ以上演説せず,むつとした顔で苦笑いして演壇を下りた。
     わたしは警官が言論の自由を妨害するものであることがわかり心中大いに不愉快であつた。
     また一人壇に上り,
     「私が今日話すことは斷じて干渉を受ける筋合いのものではない。もし干渉をうけるようなら,小,中學校の敎員は皆敎壇に上れない」
    といった《聴衆はみんな笑った》。
     彼は經濟學上の社會主義に関する政策を説いたが,最初の人よりは比較的長かつた。
     そして抑えきれずに革命の事に話が弾むと,やつぱり警官に干渉された《干渉の様子は全く見苦しいもので,その不人情な顔はもっとも憎らしかった》。
     すぐにまたニコニコ笑顔をした一人が上がつて,「わたしの運が一番惡い。毎度の演説が,いつも中止を命ぜられた人の後になる。私の後に演説する人の運はどうであろうか?」
    といった《聴衆はまた笑った.私は初めてこれが最初の解ではない事が判った》。
     讀者諸君,彼が何を演説したか當てて御覧なさい。
     彼はロシアの虚無黨の話をし,ほかの人より激越であつたが,十分と經たないうちにやはり壇を下りてしまつた。
     言うまでもなく警官に中止を食らつたのだ。
     その次の人はアメリカのトラストの弊害,つまり,鐡道王,石油王,などの大獨占主義について演説した。
     日本にはこのような大資本家がいないから,小資本家の犬《警官の代名詞,やはり社會黨員が彼らに贈つた名稱》,もあまりかみつかなかつたので,彼は相當演説したが,やつぱり中止の程度までいき,その犬にかみつかれて壇を下りた。
     
     最後の一人が上がつてきたとき,演壇の下で盛んな拍手がおこつた。
     私も思わずつられて拍手した《皆さん,これが無意識の挙動だとおわらいあるな。實のところこの先生の顔には,穏やかな表情の中にも強い氣性をおび,一見して革命の大人物であることがわかり,自然に敬服の念を起させたのである》。

     彼こそ餘の人ならず,かの有名な東亞のルソー中江篤介(兆民)の高足と知られた,幸德秋水先生その人であった。
     彼の自由思想は世に知られるところであり,社會主義は先輩をはるかに追い抜き,まことに日本の傑出した人物といったところ。
     私はまだ彼には遭ったことがなかったが,

    (・・・・・・実際にはこれが初めてではないようであるw・・・・・玄) 
    彼の『社會主義神髄』を讀んだことがあるので,人からその人だ,と聞かされ,特に注意して彼の演説を聽いた。

     彼は演壇に上ると,冷たい目で右側を一瞥したが,警官は彼の眼光を避けて顔をそむける様子だった。
     彼は道德という題目を持ち出して滔々と辯じた。
     暗殺に論及して西洋の哲學家も道德上必要を認めるといったところで,その警官が立つて中止させた。
     彼は警官に向かつてうなずき,
     「もうちょっと話してよいだろう」
    と言った。警官が許可したので
     「日本では現在暗殺が不必要であるかどうか知らないが,今の政治家,資本家がだんだんと横暴になつてきたら,どうしてもやむを得ない。暗殺という事實が發生して誰もこれを止めることはできない」
    といった。
     たいがいこんな演説は,警官先生の耳にはうけいれられなかつた。
     警官は再び立ち上がつて干渉した。が,先生がさらに話を続けたいと要求し,三回目の中止を命じられて,やつと笑つて壇を下りたことを覺えている《後から聞いたことだが,幸德の演説はいつも三回で中止する》。
     
     演壇の下から「幸德万歳!」 と大聲で叫ぶものがあり,
     「警官の馬鹿野郎!」《日本の一般的な罵り言葉》,と罵るものもあつた。
     そこでぞくぞく散会したが,私は出てから若い友や蘭君に,
     「日本人民の自由もひどく制限されてるもんだ」 といつた。

     この時,立憲政體について私は懐疑的にならないわけにはいかなかつた。



      平凡社東洋文庫81 大高巖 波多野太郎譯
      景梅九『留日回顧―― 一中國アナキストの半生』




    ちなみに伊藤博文が暗殺されるのは二年後のことである 

    景梅九の著述はこのあと,幸德らが主宰した社會主義研究夏期講習會につづく

    この1906年~7年,中國のアナキスト劉師培,張繼,もちろん景梅九,また章炳麟ら,また,中國同盟會の面面,宮崎滔天,日本の無政府主義者社會主義者,幸德,大杉榮,山川均,堺利彦らとの連帶は急速に深まってゆく,
    ベトナム,インド,フィリピンなどの “帝國主義之怪物” によって
    スコブル虐げられていた國ぐにの進歩的青年,革命家,留日學生らと一體になり
    亞洲和親會,東亞同盟會などが,帝都東京で組織されていく   ☞ 亞洲和親會
    さながら
    東京は,東アジアの革命一大震源地と,
    あたかもロシア青年革命家にとっての,スイスのように,とあいなっておる,と。



    支那は東亞の露國に候。
    瑞西が露國青年革命黨の敎育所となりしが如く日本は支那の靑年革命黨の敎育所と相成り候,而して露國の革命黨が極めて猛烈なる性質を帶び來たりしが如く,支那の革命黨も『同じく猛烈の運動に出づるならんと存じ候,
    支那は其の境土の大と,政府の専制と,多數人民の無智にして少數人士の極めて進歩せる,すなわち智愚の懸隔甚だしきとにおいて宛然たる露國にて候,

    小生は支那に於いて遠からず一種の虚無黨の發生を疑わず候。

     (「大阪平民新聞」八號明治四十年九月十二日 幸徳秋水)




    そのあたりの心情,志,また幸德自身の思想的変遷その機微なども幸徳秋水全集第五,六巻にくわしい。

    『幸德秋水全集第六巻』

    つづく



    幸德秋水⑤『兆民先生』(1902年)豪傑浩劫,高節告竭。


    幸德秋水は日露戰爭には反對であった,と。
    このことが,何よりも,幸徳秋水の淒さをものがたる・・・・という
    逆にいえば,それだけでスゲエ!,という,當時の日本の言論状況w
    という

    わたしは,ありていにいって中江兆民が全然好きでなく。
    中江兆民が “國民同盟會” に名をつらねたことを苦諌していた
    幸德秋水は,『兆民先生』 のなかでこのように述懐する。

    幸徳秋水 『兆民先生』
     

    爾來先生貧益々甚し。
    明治丗三年秋,毎夕新聞の乞に応じて,その主筆となり,僅に米鹽を支ふ。
    次で國民同盟會成るや,進んでこれに投じ,奔走頗る力む

    先生の國民同盟會に入れるは,其の志 實に伊藤博文の率ゆる所の政友會を打破して,我,政界の一大革命を成すに在りき。

    予,當時,問ふて曰く,
    國民同盟會は蓋し露國を討伐するを目的と成す者,所謂帝國主義者の團體也。
    先生のこれに與する,自由平等の大義に戻る所なき乎と。

    先生笑つて曰く,
    露國と戰はんと欲す,勝てば即ち大陸に雄張して,以て東洋の平和を支持すべし,
    敗るれば即ち朝野困迫して國民初めて其迷夢より醒む可し。
    能く此機に乘ぜば,以て藩閥を剿滅し内政を革新することを得ん,亦可ならずやと。

    後,予は屡々同會の爲す有るに足らざるを言ふも,先生敢て聽かざりき。
    蓋し先生久しく髀肉の生ずるに堪へず,直情一往又成敗を論ずるに遑なかりし也。《第4章》


      幸徳秋水『秋水三名著』龍吟社昭和二十二年二月二十日明治社會文獻叢書




    これである。
    これが,この考え方が。

    これが,自由民權運動の限界だった,とう人もおおいけどさ w
    そもそもが “自由” の理解の底淺さ” , “民權” への誤解の根深さ”
    とゆう。
    正に象徴している。
    そのくせ帝國主義の秘中の秘,つまり領土拡張主義の本質だ,インペリアリズムの理解だけはしっかり,できている日本人,とゆう。

    伊藤公がキにいらん,だから,何とかしたい,という切歯扼腕が
    なんで。
    大陸にでばっていって。
    「グレーターイムぺリアリズム」に傾く帝國の “意” をフルハートでもってささえてしまうるのか
    ???
    わたしは理解にくるしむし。
    プラグマティスムもリアリズムもかんけいないない。
    ことは單純で

    なんで日本人のために中國や韓半島が犠牲にならなきゃいかんのか
    と。
    それだけである。


    両手の一方は國内の権力鬪爭。
    もう一方の手は國家經濟の逼迫に,いてもたってもいられずの
    しゃにむに利をむさぼるの國策に傾いていく。
    自轉車操業國が下り坂を前にしてブレーキ踏めない,いや踏まない蠻勇を發揮する
    政財官またその周邊のこういう,
    「豪傑君,國家の將來を憂れふ」
    みたいなのが,日本人のあとは野となれヤマト國家のいっぽうの旗頭,

    一方の旗頭はなにかとゆえば先日書いた “國民子”。
    彼の露骨を愛す,と幸德秋水に嘲笑された徳富蘇峰,だ ☞ 朝鮮併呑論を評す

    不遇をかこつ豪傑君と大先生の意気揚揚,が,而して結果迷惑をこうむる無數の,
    女コドモ年寄りをくるしめる
    本來他國の,歴史的には正當にして正統なる かれらの“領土” かもしらんが,
    我が國の存續のためにはヒツヨウフカケツ,キッキンノカダイは
    なんとしても合併(吸収)だか,保全(領有)だかなんかしらんが。

    我が國のために,てつかずにてなぜかそこにありましてん,未開の地が。
    いやヒトは住んでるんだけどそこにいるのは土人だけでしてん,みたいな。。。

    意圖してまちがえてる宣傳が,苦しい國民をたきつけて,その域内のいっさいがっさいもらっていいんだな,と収奪する根據になっていて。
    だれも疑わない。

    いや,疑わなかった,ということになってるが。


      疑ったのか疑わなかったのかはいまさら證明などできない心のモンダイ
      いわば 「内心の自由」wですから。
      そこがうやむやになるのはいた仕方ない,とおもう
      そこに必罰を!などといってるわけではなく
      そういう疑わなかった,『集團』,の, “自由奔放“ が,
      あの侵略と戰爭を遂行させたということ
      これこそが疑い得ない “社會” 的眞實であるし,
      またいずこでもどこぞでも同じ,戰爭發端の一面の(たくさんあるうちの
      一つのにすぎないが),シンジツだともおもうが。

      わたしたちは,
      なんで,そのために,兵隊と中國東北部が,べつのだれか,が,
      此の地以外のどこか,が,犠牲にならなきゃいかんかったのだ?
      と考えることは必要ではないだろうか
      ちなみに,今我が國の財政はソートー程度に逼迫しているみたいだけど


    この,,豪傑君に對する幸德秋水の “オマージュ” のなかで,
    「國民同盟會の大義よりも,むしろ,兆民先生の “髀肉之嘆” を愛す,」
    とかとは
    ゆわなかった幸徳秋水を,こそ愛しています,としか今のわたしには,いいようもないけど

    帝國の,
    いったいこの豪傑君たちはなんなんだ?
    と,どうしてもおもってしまう。
    わたしはこういう言説を,反戰平和の主義と思わないのはもちろんだが
    自由民權主義とも考えられないし。あたりまえのことで,
    野心アり。欲望アリの野望蠻勇主義者
    他國の大地で行われる戰爭である
    戰爭する,あくまで外に出張って行って。
    我が國の未來のために
    自分たちの利のために,兵隊を引き連れて

    戰場は戰火は兵燹の惨禍は,此地じゃない,彼地で。
    おこ,し,た,のである
    半島のモノはヤマトのもの,大陸のものはシマグニのモノ,
    サハリン,ウラヂオをや,滿洲,蒙古,綏遠をや。
    華北をや。華南をや。仏印だ緬甸ダひりぴんダ,じゃわダ,すまとらだダ。

    日清戰爭でおいしい思いをし,義和團事變で分捕り品を一番多くせしめた日本帝國の,ラッキー
    奇貨奇遇,そして,後には “國” の國家の癖,惡習となったんじゃないか。

    もっといえば,
    そもそも日清戰爭の賠償で軍備増強した日本,
    そのことを先日かいたが,  ☞日清戰爭戰後賠償
    義和團事變のときには,すでに
    出兵する財政的余裕がなかった,むしろ財政逼迫というに近い帝國日本は,
    なぜ,大陸にでばっていったか?

    でばっていくことができたか?

    イギリスにそそのかされたからである,
    大英帝國は日本に金を貸してやるから兵をだせ,と。
    それこそ大英帝國のおもわくは,
    ロシアが連合軍を主導することに我慢がならなかったわけで,日本をたきつけた。
    日本はカネを借りて出兵し,略奪した財寶でその借金を返し,さらに次の強盗計畫の足掛かりをも得ることができたわけだ,
    1900年の出兵根拠が,次の駐留の根拠となり,でてってくれませんか,と嘆願する中國政府,コクミンの意,を
    意にも介さずそのままいつづけた,
    なんだかんだと中國人の反感を買う,それに暴力で対処する,はてには謀略で事件を起こしちゃあ,この地は危險,治安をイジする,と,そういう軍隊が結局37年後に盧溝橋ジヘンを引き起こしたのである
    支那」駐屯軍と盧溝橋事變 

    一つの見方に過ぎないがw
    日本以外のどこ國でもこうした見方に異を唱える人は少ない,,という程度にはw,
    おおむね,歴史の經過として,また公的な記録とも齟齬はないのである。
    こういうことは,各國の公文書によって證明されうるものだ。

    歴史のみかたはさまざま。ストーリーはいくらでも作られると,
    思慮深い人に限ってそンなことをいうけれども。

    歴史にシンジツはひとつじゃない,ことをふまえても,
    なお,客觀的事實,第一次資料によって裏付けられている『確實性』というのもあるわけで

    ニホンジンほど,このオーソライズされた事實ばかりっをとりわけ無視して,
    歴史の甘美な物語にすがっている民族もない,とわたしはおもうが

    「歴史のシンジツは一つじゃない」
    かなんかゆってお茶を濁しているからネトウヨ史觀ばかりが,もてはやされるようになったん。

    ・・・・
    他國,もともと他人の大地を蹂躪する,
    自分(zifen),の利害のために, “正邪” がある。
    その,自分たちの “大義” のために。

    是を,こういう考え方に,理がある,とはいわないし,
    利,があるのみ。 

    しかし,窮竟,その,利,だけで “世界は動きつづけてはいかない”

    回天あり,革命あり,光復あり。
    不戰条約あり。憲法九条有り。だ
    ココに一定の “理” を見ることができない,ひとたち
    それは理ではなく,正義ではなく,「ミットモナイケンポウ」というヒトビトもいるが。


    にほんのりべらるはなぜかなかえちょうみんがだいすきだが。

    二度の世界大戰と飽くなき中國侵略,大地の収奪,到る所草刈る如く殺戮した日本,
    ムザンな敗戰,結果帝國の崩壊というを經驗した日本人が,

    相も變わらず,『三醉人經綸問答』を稱讃していていいのかと。
    そもそもむかつくし。

    『三醉人經綸問答』は書いてあることは殆ど昔からちうごくじんが言ってきたこと,
    中國人が用いた漢字の羅列を當時の状況にあてはめてモノしたショモツにすぎない
    あてはめたこと,あてはめていく日本人の才能,これはすごい,とわたしも尊敬するが,
    ではなぜ
    それが,その,w
    あたらしい文明の装いは新しくw,あてはめるに使用された古い漢籍は古いから。と
    取り替える。それはいいとしても,
    装いを新たにすると,なんで
    だから
    「露國討伐」「滿蒙領有」の大義となりかわるのか
    其の經綸の主宰者の三段論法がさっぱりわからん 
    のだ。

    だから,中國人は東亞病夫,となるのか,日本人だけスゴイ
    しかも朝鮮人は我我の指導に刃向かう、ケシカラン,
    となるのかさっぱりわからないのである。が,
    りべらるが大好きな中江兆民を罵りすぎると
    じゃあ
    J・J・ルソーはだめなのかw,
    戰後に『三醉人經綸問答』を大絶賛して現代語譯した桑原武夫の立場はどーなる,
    みたいなことになってしまってわたしはじぶんじしんにいやけがさしてくるのだが

    とゆーか
    今年にはいってからとゆーもの無茶なことばかり書いてて(本音だ)困ってきているんだがw
    だんだん日本人の先驅者の事ばかりばかり書いててホントに飽きてきてしまっているわたしのビョーキ惡いヘキもある。


    とにかく。


    そんなに伊藤公がキにいらんなら,暗殺スレバ?といったらそれは正義ではなく。
    一人の安重根によって半島は救われることはなかったし
    アメリカが原爆を落として米國人兵士の戰死を救った,アジアを救ったという理屈を正義としかねない
    さはさりながら
    實は,そうゆう暗殺が正義とされてしまいかねない,一方からの立場,その立場が立ち竦む大地にもたらされた災禍,
    日本人がアジアに火付けしたことでより根深く長く擴がった災禍。

    その起點について,もういちどかんがえている
    ということで。

    幸徳秋水は恩も義理もある師に對し,あまり書きたくはなかっろうことも想像してしまう,人の情,として,
    しかし書かずにはいられらなかったのだろうとおもう。
    さはさりながら。
    その,幸德秋水さえも
    『廿世紀之怪物帝國主義』が,當時は限界であった。  
    名著とされるが, “この時代に在っては” , “先覺的,先見の明あり”
    という枕詞なしには絶賛されえない,名著,ということになる。

    が,帝國主義の本質を,
    “日本人が目下のところ夢中になっている “帝國主義” とはどういうものなのか”,
    という解剖を世界史の流れの中で,かみ砕いて説明した,
    (そしてもしかしたらボナパルティズムの論理破綻までをも)
    きちんと整理してまるごと提示した,日本における日本人による初の著述である,
    という價値は,その後も希少であっただけにwより高くなる。
    意義が深い。
    モチロン。
    帝國主義を國策としたヨーロッパの國國,――立憲であれ,君主制であれ,共和であれ――,それぞれの “國” の中でつよく,はげしく,インペリアリズムに異を唱えた文人は多かった。
    幸徳秋水はその一人,日本において數少ない一人。である

      『廿世紀之怪物帝國主義』 より,むしろ,その完成のまえに,
      彼の “名著” の下敷き,と目され,又習作,ともいわれる
      『大逆無道』 の方は率直で,粗い筆致の部分に彼のそのときの心情
      が滲むように,意圖とせずながらもあらわに,明かされている
      というキはするw
      その後の彼自身の運命を知りつつ讀めば涙なしには讀めず,
      といった感アリで。


    幸徳秋水が,真に,持ち味を發揮しその勇名をとどろかせしたのは
    つまり,やたらカゲキになるのは,
    平民新聞時代と,また,大杉栄ら,また,中國同盟會の連中,文人たちと
    社會主義思想研究の會や,亞洲和親會など始めたころから。
    いよいよ「思想前進」ますます「勇猛邁進」
    鍛錬され一個のアナキスト “洪水怪獣” となっていく幸徳秋水。
    そしてまた
    中國において,同時に日本において,
    「中國人による革命」の準備段階がすすんでいくのと軌を一にする
    これは偶然ではなく必然なのであるが

    幸德秋水の『廿世紀之怪物帝國主義』も,『社會主義神髄』も,出版されるや
    すぐに中國語版が作られ淸國に移植されていった。

    蓋し當然,
    中國(清國)の大地は,正にその “グレーターイムペリアリズム之怪物” によって,
    “瓜分” され,
    その切り分けられた “瓜” の甘い汁をいたるところあますなく貪ろうとする
    “優越的白人種” の跋扈跳梁に前世紀より,永く根深く苦しめられつづけてきた。

    “帝國主義の怪物 “によって苦しめられていた民を,最も多く大地に抱え込んでいた,
    そういう “國” 域が中國であり,そこに棲まう “主”民 が, 先覺的に“進歩” を始めた時期だったのだから

    渇えたひとがあらそって水を飲むように, “秋水” の水は飲み干されていった,ということだ

    沙漠にしみこんでいった水が流れとなり,いつしか河を形成する,などあることだろうか?
    ましてや洪水となって猛る日はいつか來るのかという世界中の懐疑のなかで,
    多くの絶望しない “主體” に迎え入れられた

    しかし,

    辛亥革命も,自由と民主と共和の “國” をもたらさなかったし。
    ブンカク文化大革命が洪水となって災禍をもたらしたことも。 
    毛沢東の狂水。そういう中國,これももちろん歴史の シンジツである


    あしたからは,當時日本帝國にいて,大杉榮にエスペラント語の手ほどきを受け,幸徳秋水に師事した,中國の無政府主義者の著作のなかからその, “秋水”。
    抜身の劍持て,帝國のゲンロンを揮灑し,鋒芒太露したその劍刃が中國の進歩的文人に与えた衝撃を
    紹介することに。
    中國のアナキストの抱腹絶倒『留日回顧』。
    といっても。
    のちに全くワケのわからんありえない轉向をした劉師培ではなく
    景定成。
    だがw


     壹 
     劍氣光芒露    Jiàn qì guāng máng lù
     高論何處在    shuǐ shēng hé chù zài
     水聲獄裡寒    Gāo lùn yù lǐ hán
     白玉樓門外    bá iyù lóu mén wài


     貮
     秋來風自起    Qiū lái fēng zì qǐ,
     浩劫因豪傑    hàojié yīn háojié
     正始明終時    Zhèng shǐ míng zhōng shí,
     此生哉告竭    cǐshēng zāi gào jié

            20190310

    幸德秋水④『兆民先生』(1902年)秋水的意思。文天祥,黄仲則,李長吉

     沖霄一劍如秋水,徹夜雙簫響太清
                                   ――屈翁山


    幸德傳次郎,その秋水の號は中江兆民が自身若いころの號を自ら幸德秋水にあたえたと。
    幸徳秋水の『兆民先生』にある。


    『兆民先生』  幸德秋水

    ○而して先生亦自らその書生に切なる所以を知れり。
     酒間笑って予に謂て曰く,今朝來訪せし所の高利貸を見よ。
     彼の因循にして不得要領なる,人をして煩悶に堪えざらしむ
     然れども彼れ甚だ富めり。
     處世の秘訣は朦朧たるに在り。

     汝義理明白に過ぐ,宜しく春靄の二字を以て雅號と爲せと。
     予曰く,生甚だ朦朧を憎む,乞ふ別に選む所あれ。

     先生益々笑ふて曰,しからば即ち秋水の二字を用ゐよ,是れ正に春靄の意と相反す。
     予壯時此號を用ゆ,今汝に與へんと。
     予喜んで賜を拜せり。
     
     屈指すれば匇々十餘年,實に隔世の感有り。




    ちなみに。秋水。
    とは
    なにかw



    春靄一日,縁に隨いて
    “秋水” が想起させるするもの。“秋水的意思” について書くことにした。

    昔の日本の文人,国粋主義者wいまのネトウヨもだが大好きな
    文天祥から。

    中江兆民も。
    南海先生も,豪傑君も
    《正気歌》お好きだろう?

    文天祥《贈趙神眼》


     贈趙神眼    Zèng zhào shén yǎn

     一絛一褐髯如鐵    yī tāo yī hèránrú tiě
     神爲秋水眼爲月    shén wèi qiūshuǐ yǎn wèi yuè
     欲從壺子覓三機    yù cóng hú zi mì sān jī
     劍首終然吹一吷    jiàn shǒu zhōng rán chuī yī xuè

    一絛,一褐の髯,鐵の如し
    その精神は秋水と爲り,その眼は月と爲りぬ
    壺子に從い三機を壺子に覓む
    劍首をはらい,一吷を吹きて終われり

    吹一吷  吹劍首者,吷而已矣



    こちらは以前つくっていた黄景仁ブログから古い記事をひっぱってきた

    黄景仁 《以所攜劍贈容甫》

     以所攜劍贈容甫   Yǐ suǒ xié jiàn zèng róng fǔ

     匣中魚鱗淬秋水   xiá zhōng yúlín cuì qiū shuǐ
     十年仗之走江海   shí nián zhàng zhī zǒu jiān hǎi
     塵封繡澀未摩挲   chén fēng xiù sè wèi mósā
     一道練光飛不起   yī dào liàn guāng fēi bù qǐ
     相逢市上同悲吟   xiāng féng shì shàng tóng bēi yín
     今將拂衣歸故林   jīn jiāng fú yī guī gù lín
     知君憐我重肝膽   zhī jūn lián wǒ zhòng gāndǎn
     贈此一片荊軻心   zèng cǐ yī piàn jīngkē xīn 


     攜えるところの劍をもって容甫に贈る
     匣中,秋水に淬(にら)ぎぬ,魚鱗,のごとき(劍刃)十年,之れ仗し,江海をともに走る
     塵を封じて繡澀して,未だひとたびの摩挲もせず 一道の練りより光,飛び起たず
     市上に相い逢うてより悲吟を同 じ,今,將さに衣を拂うて故林に歸るきみ
     知りあいてより我を憐み鄰となし重き肝膽をかさねし君に,
     贈らんとす此の,一片,荊軻の心


      上聲二   水起
      平聲二十 吟林心

    *淬=cuì 染める,塗抹,と磨錬,
       つまり洗濯磨淬にいう淬の意もあるのだろうとおもう,磨劍
    *匣中魚鱗淬秋水=下の長吉詩からとったイマジネーション
    *塵封繡澀=,劍刃は世塵に汚されておらず
       縫い封じて韜晦す,という意味に採った。塵封,繡澀ともに,熟語としてはないようだ
       黄仲則,《除夕述懐》でも
       亦有舊攜劍,銹澀昏星鐔。
       亦有幼讀書,塵封飽魚蟫
    という句
    *摩挲=撫でさする。愛撫する。(つまり劍を磨すと劍を一閃させる意と。)
    *一道練光=下の詩からとったイマージュによる潔白練絹の
        劍光の指ししめす一本の道か
    *飛不起=ここも長吉の詩にいう
        “自言漢劍當飛去”,
        に未だならず,のはず  不起は下の詩の吹不起
    *市上同悲吟=つまり
    飲於燕市,酒酣以往,漸離擊筑,荊軻和而,歌於市中 



    この 《以所攜劍贈容甫》 詩は,
    “『兩當軒集』第四におさめられる。
    容甫とは,黄仲則が唱和して詠んだ詩がいくつも集中にある
    友人の文人學士,
    汪容甫,名秉中,汪思復 1745年-1794年 江蘇揚州人) のこと。
    故林に歸らんとするとき,別れに際して汪容甫に劍を贈ったときの詩という
    ことだろう

    父を四歳で亡くし “孤” となり,兄弟もいなかった黄仲則は友情に篤く
    莫逆の關係をもった文人は多かったよう。
    眉目淸麗。 名聞四野,望重佩服,という
    またその立ち姿の美しさをいう言葉に
    風神秀朗,立儔人中望之如鶴。 とも,あるが
    そんなふうにも贊賞され,交友をもとめられたという

    「仲則長身伉爽,讀書擊劍,有古侠士風」(洪稚存(亮吉)『玉塵集』)
    とも

    また,汪容甫もそのような性格の持ち主だったか同氣相求,
    そして同じ昌谷詩を愛し朗誦するような,情投意合あり,と。
    おそらく。

    “匣中の劍” の 氣概をもって知音知友との
    別れを吟じて餞(はなむけ)とし忼慨,詩にしたためたか・・・
    黄仲則,二十三歳,“一片荊軻心” を,劒氣,を,詠うのである

    生涯七律をつくらなかった(殘存無し)長吉に倣ってか,

    約束ごとにとらわれない七古體。
    長吉風だ<笑>
    音も同韻和韻ではないものの長吉詩に “同悲吟” 
    賡響している。
    黄仲則が李長吉の詩を愛したことは自明。
    誰が何と言おうが,我確信する

    こちらは言わずと知れた李長吉
    こちらは有名な詩ので。割愛

    李賀 《春坊正字劍子歌》
      
    似有秋魂弔書客, 吟詩一夜東方白 

    これはもうまちがいなく,黄仲則が詠う李長吉へのオマージュ。
    思慕の情もかなしげに。
    詩人黄仲則が丁寧に細心の意をはらってひろいあげた,
    李長吉,鬼才の語。

    ちりばめられた詩語は李長吉ファンであればいくつかの秋の詩を思い浮かべて
    切ない
    そして・・・・
    韻字がとてもおかしい。
    廣韻でさぐったがいかにも長吉風!
    錯綜していておもわず笑ってしまったっ 
    そして,陌,韻字,に昔の韻字。長吉,必ず同用する職韻でないのがさびしい・・・・が。

    《李憑箜篌引》 《秦王飲酒》 《唐兒歌》 《神絃曲》 
    《秋來》 《酒罷‧張大徹索贈詩》
    ・・・・はわかりやすい

    さてあと,幾つ? 詠みこんであるか

    黄景仁 《中元》

    《中元》       Zhong yuan

    裁蓮作燈燈七葉  Cai lian zuo deng deng qi ye
    百萬光從水間出  Bai wan guang cong shui jian chu
    鳳膏著露精靈愁  Feng gaozhe lu jingling chou
    蚖脂映溜蛟龍泣  Yuan zhi ying liu jiaolong qi
             一解


    廻光郤射恆河邊   Hui guang xi she Heng he bian
    極天餓鬼來如烟   Ji tian egui lai ru yan
    幡幢花果遍世界   Fan chueng hua guo bian shijie
    哭來笑去風飄然   Ku lai xiao qu feng piaoren
             二解


    東家女兒巧心思  Dong jia nu'er qiao xinsi
    剪得濃花似儂媚  Jian de nong hua si nong mei
    自禮金仙守夜分  Zi lijin xian shouye fen
    不捲風簾養燈穗  Bu juan feng lian yang 18pxsui

             三解


    五更以後珠斗斜  Wu geng yihou zhu dou xie
    野火散滅人還家  Yehuo san mie ren hai jia
    嫩涼各抱蘭氣宿  Nen liang ge bao lan qi su
    遍地露蟲鳴緯車  Biandi lu chong ming wei che
             四解



    孤館空香歩塵跡  Gu guan kong xiangbu chen ji
    似有秋魂弔書客  Shi you qiū hun diao shu ke
    爲君更唱鮑家詩  Wei jun geng chang beo jia shi
    愁烟裊盡東方白  Chou yan niao jin dongfang bai
             五解


    *恆河邊=Héng hé ガンジス川の邊,
    *蚖脂=yuán zhī 蚖膏,蚖(いもり)の油脂にて燈火をともす
              庾信 《燈賦》にも 秀華掩映,蚖膏照灼
    *幡幢=fān zhuàng 幡,はた,幟
    *儂=nóng われ,わたし
    *燈穗=dēng suì 燈花。燈心
    *珠斗=zhū dòu 北斗七星
    *散滅=sàn miè 散失して盡く浄化
    *嫩涼=nèn liáng  微凉,初秋の凉
    *緯車=wěi chē 絲を紡ぐ 紡車
    *愁烟=chóu yān 惨淡的烟波
    *裊=niǎo 煙氣繚繞上騰的樣子
      上に柔弱と繚繞と細く煙が立ち昇る 風にしたがい搖れ動く樣子
    *弔書客=《秋來》の句そのまま<
    *鮑家詩=《秋來》の句そのまま⇒※
    *東方白=《酒罷‧張大徹索贈詩》の句そのまま


     
    黄仲則(景仁) のうるわしい書體 


    黄景仁 裁     黄景仁 剪
              ▲裁                 ▲剪





    幸德秋水③『社會主義と國體』前半部(1902年)


    逆に言えば,こういうことだったというキもする。
    明治末,真に「明治」,國體をおそれさせたのは幸德秋水だった。と

    北一輝が明治にあってすこぶるカゲキ激越慷慨と言っても,結局のところ北一輝は,革命を口にしつつ,コクミン國家を志向しながら『純正社會主義』などといって,
    國體を國體のために革命しようとしただけだ。
    プロ・アカが共産黨を組織特高が本格的にがんばる時代が始まるにはまだすこし遠い,という時期・・・・。

    究竟,日本の「民主主義」は「直訴」である。
    民主的社會主義も,社會主義的民主主義もない
    「民が主體となって國體に直訴する」,それまで,だ。
    と。
    そういう民を,かりに國體はびびってしまうことはあったとしても政體がおそれるわけがないじゃあないか。

    今,この日のこのニッポンのゲンジツに照らしみればそんなふうにおもってしまうw

    幸德が處刑され
    そして。
    ときあたかも。
    大正がはじまるとき,デモクラしいな「大正デモクラシー」がはじまる。
    大正キブンのそのままに昭和の天皇にも,初期には直訴がつづいたけれども・・・。
    北一輝流と,また違った流儀,の,
    幸德秋水の,ともまた違った直接行動主義スタイルの發露表出な・・・・。
    直訴スタイルは直訴した相手が何とかしてくれる,という見通しがある,いや無くても,
    最後の望みをかける,という意味で。

    訴求する主體は民だが,
    これを,このスタイルを西洋人は民主主義とは,ぜったいに言わないだろう,
    それはなぜか?。

    その答えはわたしはこういうことだ,と思っている 

    『社会主義神髄』第五章の結語で
    幸德秋水はこんなふうに,端的にかつ根深いところまであらわした。

    議事者。身在事外。 宜悉利害之情
    任事者。身居事中。 當忘利外之慮


    『菜根譚』のことばだ。
    これを讀んだトキ興奮して眠れなかったことおもいだすw




    今日も。つづける
    今日の幸德秋水もとても穏健な社會主義者だ

     『社會主義と國體』 幸德秋水 1902年


     先頃某会合にて於て,社會主義の大要を講話したときに,座中で第一に起つた質問は,社會主義は我國體と矛盾しはせぬ歟,といふのであつた。
     思ふに社會主義を非とする人々は皆此點に疑問を持つて居るらしい,否な現に公々然と社會主義は國體に害があるなどと論じている人もあるということだ,
     『國體に害が有る』 の一語は實に恐ろしい言葉である,
     人でも主義でも議論でも,若し天下の多數に,『アレは國體に害がある』,と,一たび斷定せられたならば,其人,若しくは其主義,若しくは其議論は全く息の根を止められたと同様である。
     
     少なくとも當分頭は上がらぬのである,ゆえに卑劣な人間は議論や理窟で間に合はぬ場合には,手ッ取り早く 『國體に害あり』 の一語で以てその敵を押し伏せようと掛るのだ,
     そして敵とする物の真相實状如何を知らぬ人々には 『國體に害あり』 説に無暗と雷同する者が多いので,此卑劣の手段は往々にして功を奏し,アタラ偉人を殺し,高尚な主義を滅し,金玉の名論を湮めて仕舞ふことが有る,故に,『國體に害あり』 という叫び聲が出た時には,世人はこれに耳を傾けるよりも,先づ其目を拭うて,事の真相を明らかにするのが肝要である。

    幸か不幸か,予は全く歴史に暗く國法學に通じないので,國體とは如何なるものであるかてふ定義に甚だ惑ふ,
     又國體なるものは誰が作つたものかは知らぬ,併し普通に解釋する所に依れば,日本では君主政權を國體と稱するようだ,
     否な君主政權と言ふよりも,二千五百年一系の皇統を名けるようだ,成程是は古今東西類のない話しで,日本人に取ては無上の誇りでなければならぬ,
     國體云々の言葉を聞けば,萬人均しく心臓の鼓動するのも無理はないのだ,ところで社會主義なるものは,はたして彼らのいわゆる國體,即ち二千五百年一系の皇統存在すてふことと,矛盾衝突するものであらう歟,
     此問題に對して,予は断じて否と答えねばならぬ。




    イマイチ,コクタイ,ドクトクの國家主義者大多數に對して,あまり説得力のないことをゆってるよーな幸德だが。

    『國體に害あり』

    『あいつは反日だ』,
    にいいかえれば,

    あたかも今日。
    ネトウヨがすぐ,中國から金もらってる,で,すべてをかたづく單純思考とおんなじじゃないか。
    こうゆうのが明治時代から傳統,もしくは,流儀,もしくはヒンカクとしてニホンジンにそなわってあったかのよう,な,そんなキがしてしまうのはわたしだけだろうかw

    最近わたしはツンドク書物のなかからこんなおもしろい文章を見つけて
    我が意を得たり!みたくはしゃいでいたのだが。
    丸山眞男はこのように書いている,
    なについてかって?

    ネトウヨについてである。

    いはく。

    ⅰ イデオロギー一般の嫌惡,あるいは侮蔑,
    ⅱ 推論的解釋を拒否して「直接」對象」に參入する態度,(解釋の多樣性に
       我慢ならず自己の直觀的解釋を絶對化する結果となる,)
    ⅲ 手ごたえの確かな感覺的日常經驗にだけ明晰な世界をみとめる考え方,
    ⅳ 論敵のポーズ,或いは言行不一致の摘發によって相手の理論の信憑性を
       引き下げる批判樣式
    ⅴ 歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して
       「公式=牽強付會」として反發する思考

      等等の様式によってその後もきわめて強靭な思想批判の「伝統」を爲している

             (『日本の思想』1961年岩波新書434)

    これはいったい何の,だれの,どこ陣營,なんのセクトの方法論か?
    おまえのことじゃねえか,という聲もきこえてきそうだがw

    これが書かれたのは1961年だからパソコンもなければネトウヨもいない,

    この文章は國學者の儒教批判の手口
    漢意(からごころ)排斥の手法について書かれている批判である

    いうなればモトオリノリナガ論法,日本の流儀。

    うう~~んわかる

    赤い文字に深いイミはナイ


     
     社會主義の目的とする所は,社会人民の平和と進歩と幸福とに在る,
     此目的を達する爲めに,社会の有害なる階級制度を打破して仕舞つて,人民全體をして平等の地位を得せしむるのが社會主義の實行である,是が何で我國體と矛盾するのであろう歟,有
     害なる階級打破は決して社會主義の發明ではなくて,すでに以前より行われて居る,
     現に維新の革命に於て四民平等てふことが宣告せられたのは,即ち有害なる階級の打破ではない歟,そして此階級の打破は即ち我が國體と矛盾どころ歟,却って能く一致吻合したものではない歟。

     封建の時代に於て尤も有害なる階級は,即ち政權を有する武門であつた,而して此階級が打破せられて社會人民全體は政治上において全く平等の地位と權力を得たのである,
     社會主義は即ち維新の革命が武門の階級を打破した如く,富の階級を打破して仕舞つて,社會人民全體ををして,經濟上生活上に平等の地位と權利を得せしめんとするのである。
     若し此階級打破を以て國體に矛盾するものといふならば,維新の革命もまた國體と矛盾するものといはねばならぬ。

     社會主義は元より,君主一人の爲にするものではなくて,社會人民全體の爲にするものである,
     故に進歩したデモクラシーの主義と一致する。
     しかしこれでも決して國體と矛盾するとは言へぬ,何となれば,君主の目的職掌も亦社會人民全體のために圖るの外はないのである。
     故に古へより明王賢王と呼ばれる人は,必ず民主主義者であつたのだ,民主主義を採られる君主は必ず一種の社會主義を行つてその德を謳はれたのだ。

                   つづく



        明治三十五年十一月十五日(六合雜誌第二六三號所載)



    のちにヒットラーをしてうらやましがらせた日本の臣民のキ質,「國體護持を自ら負う
    自發的自己責任」,
    普通の日本人はどんなときにも國體には抵抗しない
    國家興亡,匹夫有責
    ではなく,
    國體必有,自責連帶。



    國家興亡,匹夫有責,中國人は誰でも知っている言い回しで,

    たとえば蒙古や女真に大地を蹂躪される,奪われた
    異族攘竊,謂之滅亡,驅除異族,謂之光復
    と,そんな時候
    天下を取り戻し光復し漢族の國家を再び樹立するなんていう,日本のいわゆる時代劇のような武俠片,大河ドラマを視てれば
    ヒーローのキメ台詞としてツルッと出てくる。

    「國家の興るも亡ぶもこのオレたちひとりひとり(匹夫)の責」

    本來は,
    保天下者,匹夫有責。

    この言葉は時代と共に様様變化,そのまま意味も變容していくが。
    出典をたどるならばもともと儒敎のコトバで,周代春秋,左氏傳までさかのぼる,

    時代が下ってつまり異民族に支配された大地の境遇,國家の興亡を目のあたりにして明朝末に,顧炎武が言ったのはこういうことだ,

    保國者,其君其臣,肉食者謀之。保天下者、匹夫有責。

    “國” を保つはその君,その臣。
    しかし,天下を保つのは,だれか?という重い問いかけである

    コッカ,と,天下とを分けてるところに要注目だ,

    ところで「天下興亡,匹夫有責」といういいまわしもあるがw
    天下は,はたして興亡するものだろうか?

    いや天下は興されたもので,いつか滅亡するという,盛者必衰の理は,わたしは聞いたことがないし,そうは思わないが。
    とはゆえ
    核戰爭が現實味を帶びると。
    いまにも起こらんかという時には,こんな言葉がつぶやかれるんじゃないか
    ふとおもう
    そんなときには
    天下滅亡,誰能負責?



    そもそも
    日淸日露の戰勝に醉い痴れ,三國干渉に憤慨し
    出兵をしては,駐屯をひろげ,軍費増大,出師の維持には日本一國の財政でまかないきれるものではなくなってゆくのに齒止めがかからない

    さらにはきのう書いたように,
    韓國併吞の成功體驗にキをよくし,
    經濟的欲求の度合い,はあくどさをまし,同時並行的に大陸への要求は第一次大戰を經て,ハレンチなまでに膨張する
    自存は自尊,自衛は自營。保全は侵略,
    侵寇の必要性はますますつねづねことごと喫緊と,なりゆく成り行き,かくなりゆける。と。

    その植民地經營は,その大陸經營は,そもそも日本帝國の經營は完全に,はじめから自轉車操業だったのでは,ないか?

    對外擴張・而して収奪大陸が大前提,切實さの度合いは深まってゆく後戻りできない。
    而して國富強兵の循環はルーティーンともローテーションともいうべく日本の常套手段になっていく
    そこから必然的に導きだされるのは,奇襲先制あるのみの攻撃スタイルと一撃信仰カミカゼだのみ

    すべては國家國民の
    あえていうなら
    國家興亡,匹夫有責じゃあないかw
    ほろびるべくしてほろびた帝國日本である 




     

    玄


        管理人: 少玄 (女子)


      
     楞伽案前, 楚辭肘後
     

      ― 本人不是佛教徒,
       當然是一個的詩囚 ―



    ヒコクミン雜感
    自由國際 L'Internationale
    偈頌 Ghaatha(La religion)


     
     河上肇
     『日本獨特の國家主義』

     屈翁山 屈大均カテゴリー
     納蘭性德(容若)『飮水詞』

      

      楞伽案前,楚辭肘後 top
       └now
     blog top page


    * East Asia War
    * list of poetry    Anti-Japanese wars
      抗日戰舊體詩

      本ブログの骨幹です。
     一九三〇年代,抗日戰爭期,
     中國文人が詠んだ帝國日本の
     侵寇,掠略加害のありさま
     祖國の救亡のため抵抗し命を
     落としていった無數の草民,
     中華の大地,山河を忉怛し
     惜慯した哭詩,吊詞,哀歌
     口號,頌歌。
      抵抗者の忼慨をうけ連綿と
     傳えられてきた歌以言志。
     新・舊體詩,填詞,白話詩。
      歴史書の記述とは又,異なる
     日中の戰爭の實相が,曝され
     吐露されています
     以下クリックで直接進めます
      は特に御薦めする

      

      詩人詩篇題 INDEX

     田翠竹 1913-1994 湖南 湘潭
     《洞庭碧血》其四其二
     《血観音歌1943年作
     《重九》《甲辰雜詩
     《抗戰百詠・十首
     《還湘又將別家去桂書懷
     《避難吟荒江雪意
     《中秋后還家再去耒陽
     胡繩 1918-2000 江蘇蘇州
     《南京夜聞流亡東北學生
     《松花江上
     寇夢碧 1917-1990 天津
     《淪陷紀事詩
     黄假我 1916-1985 湖南寧郷
     《青年謠壬午五四青年節
     《柬呈柳亞子先生
     《暮春雜詠
     《過塘沽
     《瀋陽中秋對月
     《宿錦州
     《錦州廣濟寺前
     金紫衡 1914-? 河間瀛州
     《四周年瀋陽驚變九一八
     《沈監秋夜
     《瀋陽除夕寄徐
     《延邊辭歳1943年除夕
     《蘇武牧羊圖
     《山居雜詠
     《北平易幟
     《南京陥落
     《吊江南
      
     錢鍾書 1910-1998 江蘇無錫
     《故國》  《哀望
     《得龍忍寒金陵書
     張滌華 1909-1992 安徽鳳臺
     《南京大屠殺感賦
     盧前 1905-1951 江蘇南京
     《招西北之魂
     《百靈廟,更招東北之魂
     王季思 1906—1996 浙江永嘉
     《懐人五絶
     羅元貞 1906—1993 廣東興寧
     《路過上海有感
     《黄浦灘倚欄夜作
     《清明哭母二首》 《病裏
     《初到并州懷劉越石
     《中秋漫筆二首》
     《故都秋夕
     《送行
     《夜過景山
     張采庵 1904-1991 廣東番禺
     《勝利在望書此志喜
     《鬼意
     《亂離
     《秋夜》  《感憤
     《寇陷長春李君如玉僅
     身免南下相逢握手一慟

     聶紺弩 1903-1986 湖北京山
     《題 “藥” 兼吊秋瑾
     胡士瑩 1901-1979 浙江嘉興
     《過秋瑾墓感賦二首
     王禮錫 1901-1939 江西安福
     《再會,英國的朋友們
     何永沂 ?-? 廣東
     《報載日本首相參拜靖國
     神社憶南京大屠殺事感

      

     舒慶春 老舎 1899-1966 北京
     《七七紀念
     《沫若先生邀飲賴家橋
     《述懷
     《賀冰心先生移寓歌樂山》
     《哭王禮錫先生二首
     常燕生 1898-1946 山東
     《遊春八首選二》其一
     馮振 1897-1983 廣西北流
     《暮春
     《傷楠兒
     《野望
     《登蒼梧北山
     《草食人
     《病後
     《登銅石嶺最高頂
     林庚白 1896-1941 福建閩侯
     《次和炎南兄七七見寄韻
     《續丁丑雜詩六之一
     《水調歌頭,聞近事有感
     《丁丑雜詩三首
     《渡江至武昌
     《江岸散歩
     《月夜小步
     《七月十二夜坐月
     《浣溪沙
     《首都飯店聞警同北麗
     《病起聞警
     《江防
     《聞道二之一
     《難民來
     《夜聞鑿防空壕聲
     郁達夫 1896-1945 浙江富陽
     《贈光華報同人"/>
     郭沫若1892-1978 四川樂山
     《挽王禮錫
     唐鼎元 1894-1988 江蘇常州
     《哀瀋陽
     《武漢空戰三捷歌
     柳亞子 1887-1958 江蘇呉江
     《八聲甘州-次任潮將軍
     韻為亡友庚白先烈賦

     李濟森 1885-1959 廣西蒼梧
     《八聲甘州-林庚白
     先生香江殉難以表哀

     張鳦生 (不詳福建)
     《感事次達夫先生韻
     《南京失陥
     《七七掲開抗戰序幕
     《吊鑒湖女俠墓
     《贊東北義勇軍》二首
     《九一八感作
     《頌寶山姚子青全營殉城
     李大防 1878-?  四川開縣人
     《金陵作
      
    * list of poetry    Late Qing,Republican

        ☞瞿秋白 瞿秋白の生涯と詩作「形單影隻,孤苦畸零」雄魄 顛簸的一生

     史鐵兒 1899-1935 常州武進
      『餓郷紀程
    』1919-1923
     〔新體詩〕
      《心的聲音“遠”》1920年
      《去國答"人道"》1920年
      《無涯》(1920年)
      『餓郷紀程・跋』1921年
      《國際歌》 1923年
      《赤潮曲》 1923年
      《夢中鞋》 1923年
      《鐵花》 1923年
      《天語》 1923年
      《小小的蓓蕾》1929年
     〔舊體詩〕
      《詠菊》 1914年
      《哭母》 1916年
      《雪意》 1917年
      《紅梅閣  1926年>
     〔獄中誌〕
      《
    絶筆》1935年6月18日
      《浣溪沙》1935年5月
      《卜算子詠梅》1935年5月
      『瞿秋白筆名印譜

        


        ☞ 林庚白子舊體詩に すすむ

      林學衡 1896-1941 福建閩侯
     〔七言詩〕
      《次和炎南兄七七見寄韻
      《續丁丑雜詩六之一
      《丁丑雜詩三首
      《渡江至武昌
      《江岸散歩
      《首都飯店聞警同北麗
      《病起聞警
      《江防》 
      《難民來
      《夜聞鑿防空壕聲
     〔五言詩〕
      《聞道二之一
      《月夜小步
      《七月十二夜坐月
     〔詞牌〕
      《水調歌頭-聞近事有感
      《浣溪沙
      《菩薩蠻-送別
      《減字采桑子-雨夕書懷
      《曲牌行香子-
       -舊曆重陽樓望寄璧妹
      《琴調相思引-午夜聞歌
      《賣花聲-雨中樓望
      《鳳凰台上憶吹簫-
       -雨夜無寐》《-海行夜起》
      《滿江紅-秣陵感懷
      《摸魚兒 紅豆





      
    淸末民初“革命春秋”
     
     鄒容 威丹1885-1905四川巴縣
     《獄中答西狩
     『革命軍
     劉師培1884-1919江蘇儀徴
     《一萼紅-徐州懷古
     《賣花聲-登開封城

     黄節 玉昆1873-1935廣東順德
     《送劉申叔元日東渡
     秋瑾 璿卿1875-1907浙江紹興
     《滿天紅
     《杜鵑花
     《去常德舟中感賦
     《杞憂人
     《梅十首選其二
     《詠琴志感
     《讀書口號
     《殘菊
     《秋海棠
     梁啓超 1873-1929 廣東新會
     《讀陸放翁集

     章太炎 1868-1936 浙江余杭
     《獄中贈鄒容
     《辰州
     《亞洲和親會規約
     陳國常 1864-? 四川榮昌
     《徐烈士墓
     《秋瑾墓

     康有為 1858-1927 廣東南海
     《
    大同書成題詞
     黄遵憲 1848-1905 廣東嘉應
     《庚午中秋夜始識羅少珊
     魏源 默深1794-1857湖南邵陽
     《江南吟・其八
    * list of poetry     The Qing Dynasty 

        龔 定盦 龔璱人
         浙江杭州 1792-1841

       
      『平均篇
      『乙丙之際箸議
      『己亥雜詩全三百十五首
     〔七言絶句詩〕
      《己亥雜詩 百二十五
      《己亥雜詩 六十二
      《己亥雜詩 八十五
      《己亥雜詩 九十六
      《漫感
     〔七言詩〕
      《己卯雜詩自春徂夏全首
      《又懺心一種
      《常州高材篇
      《驛鼓
      《夜坐》其一
      《夜坐》其二
      《秋心》三首之壹
        
     〔五言詩〕
      《夜讀番禺集書其尾
      《又一首
      《戒詩》五章其一、二
      《自春徂秋偶有所觸拉雜
      書之漫不詮次得十五首

      《紀夢》七首之五
      《賦憂患
      《賦得香
      《觀心
      〔曲牌〕
      《端正好
      《醜奴兒令
      《念奴嬌 湘月
       龔自珍 編年校注 古典文學叢書
      ☞ 人痾芙蓉 阿片戰爭
    * list of poetry     The Ming Dynasty 

      屈翁山 屈大均 號 莱圃
       1630-1696 廣東番禺

       
      〔七言詩〕
     【屈大均詩集】七言絶句目録
     【屈大均詩集】七絶集 貮・參
     【屈大均詩集】七絶集 肆・伍
     【屈大均詩集】七絶集 陸
     【屈大均】《哭華姜百首》

      〔五言詩〕
     《哭内子王華姜》一三首
     《詠懷》一七首
     《詠古》二七首

      〔曲牌〕
     【屈大均詩集 詞牌
     《念奴嬌 湘月
      
      








    * list of poetry     The Song Dynasty

       文天祥 宋瑞 諡 忠烈
        江右人 1236-1283

       
       《劉琨
       《夜坐

       劉克莊 潛夫
        莆田城廂1187-1269

       《雜記十首》其二,其八






       元遺山 元好問 裕之
        山西秀容 金1190-1257

       
       《論詩絶句
       《孤劔詠
      《種松》 ,《出都
      《俳體雪香亭雜詠坐
      《壬辰十二月車駕東狩後





       陸放翁 陸游 字 務觀
        浙江紹興 1125-1210

       
      《夜歸偶懷故人獨孤景略
      《東籬雜題
      《雜書幽居事
      《水亭》,《八十一吟
      《卜算子詠梅







       邵堯夫 諡 康節
        范陽人 1011-1077

       
        《觀物吟
      《義利吟
      《自餘吟
      《乾坤吟二首
      《天聽吟
      《辛酸吟
      《論詩吟
      《夢中吟
      《不寢
      《洗心吟
      《晨起
      《寄楊軒
      《百年吟
      《感事吟
      《繩水吟
      《淸夜吟
      《歩月吟
      《月新吟
      《月到梧桐上吟




    * list of poetry     The Tang Dynasty

       李長吉 李賀
        791-817 河南昌谷

       ☞李長吉詩カテゴリーへ直截すすむ
       〔五言詩〕
       《申胡子觱篥歌
       《詠懐其一
       《詠懐其二
       《七月一日曉入太行山
       《潞州張大宅病酒遇江使
       《走馬引
       《古悠悠行
       〔七言詩〕
       《長平箭頭歌
       《酒罷張大徹索贈時…
       《綠章封事爲呉道士…
       《酒貝宮夫人
       

       杜少陵 杜甫
       712-770 長安

       《戯為論詩絶句》其一,五
       《詠懷古跡》五首其一,二


       孟東野 孟郊
       751-814 湖州武康

       ☞孟東野詩カテゴリーへ直截すすむ
       〔全詩集〕
        壹・一~四卷(宋本)
        貮・六~十卷(宋本)
       〔樂府〕    《古怨別
       《古別曲
       《飢雪吟
       《寒江吟
       《苦寒吟》
       《遊俠行
       《羽林行
       《春日有感
       《游俠行
       《偶作
       《遣興》
       《
    聽琴》
       〔七言絶句〕
       《
    登科后
       《傷舊游
       〔五言絶句〕
       《旅行
       《邀花伴
       《古恩
       《閑恩
       《喜雨
       《春後雨
       〔五言古詩〕
       《答盧虔故園見寄
       《哭秘書包大監
       《送孟寂赴舉
       《寒溪》其三,五,六
       《夜憂
       《夜感自遣
      

        賈浪先 賈島
        779-843 范陽涿州 

        ☞
       《壯士吟
       《劍客
    * list of poetry     The Six Dynasties

       庾子山 庾信 庾開府
        梁 513—北周 581 

       庾信カテゴリーへ直接進む
       『庾子山・全詩集』上
       『庾子山・全詩集』下
       《哀江南賦・序
       《哀江南賦①
       《哀江南賦②
       《哀江南賦③
       《哀江南賦④
       《擬詠懷詩
       《詠畫屏風詩
       《望月詩
       《舟中望月詩

       庾子慎 庾肩吾
        梁 487-551

       
       《經陳思王墓詩
       《同蕭左丞詠摘梅花詩
       『庾肩吾・全詩集

       江總 江總持
        梁 陳 519-594

       《橫吹曲
       


       鮑明遠 鮑參軍 鮑照
        劉宋 414?-466

       鮑明遠 鮑照カテゴリーへ直接進む
       《代出自薊北門行
       《代結客少年場行
       《代升天行
       《扶風歌
       《學劉公幹體》其一~五
       《擬阮公夜中不能寐
       《冬至》,
       《代夜坐吟》

       
       江淹江文通
        劉宋 齊 梁 444-505

       《劉太尉琨傷亂


       劉越石 劉琨
        晉 224-262

       ☞劉琨カテゴリーへ直接進む
       《答盧諶詩・序
       《答盧諶詩
       《重贈盧諶詩
       《扶風歌

    * list of poetry     The Han,Wei,Jin

       嵆叔夜 嵆康
        晉 270-318

       ☞嵆康カテゴリーへ直接進む
      《雜詩》  《幽憤詩》
      《四言贈兄秀才入軍詩十八首


       阮嗣宗 阮籍
       晉 210-263 兗州陳留

       
     『阮歩兵詠懷詩全首MENU』
      《詠懷詩》其一~其十
      《詠懷詩》其十一~其二十
      《詠懷詩》其二一~其三十
      《詠懷詩》其三一~其四十
      《詠懷詩》其四一~其五十
      《詠懷詩》其五一~其六十
      《詠懷詩》其六一~其七十
      《詠懷詩》其七一~其八二

       



       曹操 曹孟德
       沛国譙 155-220魏武

       
       《歩出夏門行

       曹子建 曹植
       192-232陳思

       
       《求自試表》上
       《求自試表》下
       《升天行
       《朔風

      漢魏晉 建安文學 三曹


      繁欽 繁休伯 建安?-218
       《遠戍勸戒詩
       《征天山賦
      繆襲 繆煕伯 建安186-245
       《屠柳城

      漢代樂府歌辭
       《戰場南



    * list of poetry    Pre-Qin and Others

      詩賦・樂府歌辭・偈頌
       
      南北朝・北歌
      《望月》蕭綱・梁簡文
      《隴頭歌辭
      《青溪小姑歌》南北朝末隋初


    * Prolet’Kult contents

       日本人反戰同盟
       (1938-1945 中國)

       
       鹿地亘 1903-1982

      『自傳的文學史』(1959)
     第8章(前)・檢擧 拷問
     第8章(後)多喜二獄中志・死
     第10章・検察 釈放 脱出

       『中國の十年』(1946)
      ▼クリックで直接進めます
      1 出獄から
      2 昭和十一年舊正月
      3 夏衍 蕭軍 左翼作家聯盟
      4 民族魂 魯迅との邂逅
      5 阿Q 魯迅の死
      6 七・七事變の勃發
      7 反侵略友誼的激勵
      8 上海 ルイ・アレー氏
      9  ホンコンへ脱出
     10 入境の日本人解放鬪爭
     11 武漢時代 國共合作
     12 武漢時代 朝鮮義勇隊
     13 武漢時代 日本人捕虜
     14 大移動 南嶽會議前後
     15 呉石將軍と廖濟寰氏
     16 桂林時代 蔣介石
     17 桂林時代 崑崙關
     18 重慶 反戦同盟總部
     19 湖北 陳誠將軍 恩施にて
     20 湖北 宜昌の前線
     21 ―新四軍事件
     22 郭沫若のこと
     23 重慶 ― 南進か北進か
     24 反戰同盟發展 
     25 重慶 破壊者 潜入
     26  天皇制の問題
     27 祖國 最終章




      小熊秀雄 1901-1940
      『小熊秀雄詩集1935年
      『流民詩集1947年
        ☞ 詩篇 TitleMenu
       

      槇村浩 1912-1938
      『間島パルチザンの歌』
       ☞ 詩篇 TitleMenu

      中野重治 1902-1970
      《新聞にのった寫眞
      《兵隊について
      《噴水のやうに》《歌
      《私は月を眺め》《波》4

      黑島傳治1898-1943
      『防備隊』 1931
      『國境』 1931
      『』 1927
      『』 1928
      『武装せる市街』 1930
      『パルチザン・ウォルコフ』 1928

      田邊利宏 1915-1941
      
    ☞ 詩篇 TitleMenu

      金鍾漢 1916-1944
      《合唱について
      《一枝について
      《古井戸のある風景
      《待機
      《行状
      《空山名月
      《

     反戦詩人☞ 詩篇TitleMenu

    * list of poetry    Japanese modern


      富澤赤黄男 1902-1962

       

      《蒼い弾痕》『旗艦』1939
      句集『天の狼』1941
      句集『天の狼』抄1951
      《風景畫》 『蛇の笛』1952

      金子光晴 1895-1975
      《落下傘》《湖畔吟
      《燈臺》



       短詩運動 大連『亞』  
       
       
       安西冬衞 1898-1965
      《黑き城》『渇ける神』1933
      『大學の留守』1943
      《砂漠》『軍艦茉莉』1929
      《夜の思料》『軍艦茉莉
      《八面城の念力》1933
      《砂漠の行者が臥てゐると
       鴉が食物を運ぶ

       『亞細亞の鹹湖』1933

       
       北川冬彦 1900-1990
      《
      《戰爭》『戰爭』1929
      《絶望の歌》
      《壊滅の鐡道

      《風景》《埋葬》『氷』1933
      《爛れた月》《斑らな水》
      『檢温器と花
    』1926
      《泡》『馬と風景』1952


     
    * new entry 50 title 
    * comment
  1. 玄: (03/08)
  2. 奥山:No title (03/07)
  3. * list of poets & link

     中國詩について
     中國詩はもともと,象形であるところの文字を用いて詠まれている。つまり西洋詩にいわゆるサンボリズム,象徴詩,と言う「形式」は既に自得する。自得されてしまつている。
     それが中國詩。漢字,一個の體は
    “意”,“理”を途方もなく内包し,文脈や文法を破壊するフォースを持つ。
     詩作はそこから始めらる。古體,近體,舊體,新體,いつの時代,どの様式下であれ,漢字を用う限り,そこからは解放されることはない。が,裏を返せば“一個字”,それ自體が, “自由”,を持つ,ゆえ,詩は,自在でありパワフルネスとなる。
     こうした作法の約束ごとは,宿命であれ,そこに限界あり,とはいえ,その限界はひろがりつづける。

     前秦漢魏の古詩は,メタファーのいくつか謂わば慣習・クリシェ表現であるがそれを知るだけで,わかりやすくなる。 詩人たちのの膨大なアナロジーの蓄積にたじろぎ眩むが,知らねば,わからない。
     しかし漢魏六朝の古詩を讀むことでメタファーの森林をわけいり知りゆくと,唐詩はそのうえに「表徴」に凭れるだけではない「表現」そのものが厚みを増し可能性がおおきくひろがつていることがわかる,跳躍的に,である。
     さらに宋詩には,古來の中國思想に禪定(禪那 Dhyāna ディアナ)が加わり探究せられて淒みを増した思想的表現の飛躍がある。
     Impressionism,Expressionism,
    そのどちらにおいても深化がある。
     これを,真に,深く實感すると中國詩の虜囚となる。


    * category
     

      楞伽案前,楚辭肘後 top
       └now
     blog top page