11・12雜感/9・18雜感 《讀佛口號》

    海自艦と米3空母、日本海で共同訓練 韓國は參加見送り
    2017年11月12日16時20分

     海上自衞隊と米海軍の原子力空母3隻の艦隊が12日、日本海で共同訓練を實施した。防衞省によると、海自の艦艇が日本海で米空母3隻と同時に共同訓練をするのは初めてとされる。6日の日米首腦會談で、軍事的挑發を続ける北朝鮮に対して「最大限の壓力をかける局面」との認識で一致したことを受け、「日米の強い結束」を演出する訓練となった。

     海自側から訓練に參加しているのは護衞艦「いなづま」「まきなみ」「いせ」の3隻。米側はロナルド・レーガン、ニミッツ、セオドア・ルーズベルトの空母3隻や駆逐艦など10數隻。日米の艦艇間で通信したり陣形を組みながら航行したりする訓練を實施したという。

     日本政府關係者によると、日米兩政府は3隻の空母が日本海に集結するタイミングをとらえ、韓國も含めた3カ國の共同訓練を檢討したが、韓國側との調整がつかず見送ったという。



    韓國は理性的,抑制的である,ということだ,w
    調整もすんでないのに共同訓練決めるわけがないだろw


    どこよりもしょーもないとおもいながら讀んでるヨミウリ新聞は昨日の朝刊でこのこと,つまり,「日米のみの訓練である」ことを「予定として」報じていたw
    他にないからしょーがなくて讀んでるアサヒシンブンには,なぜか,書いてない。
    どころか,ごていねいに
    日本海で,「11日から14日米韓合同訓練」,と昨日の新聞でちいさく報じていたはずだw
    昨日の時點で「海上自衛隊と米軍が合同訓練する」とは書けていない。

    これだ,ビンボー人のわたしが,二紙も購讀している理由はこれだw
    日本にこれだけの分斷があるのである。
    そのうえ,分斷の一方の側は情報統制され,そのうえ,自ら自肅してさえいるw
    さすが體制翼賛,戰爭翼賛の過去を持つ二大紙だ

    ヘイワなもんだ,この分斷層の深き溝は,一朝事あれば
    あっという間に埋まる溝だ

    ヨミウリ讀むといかにいかにジタイがすすんでいて,そしてそれは世間でも世界でも容認されている,いかにもふつーのことです,という認識が,醸成せられ,そして受け取る側に蔓延して,とーぜんのこととしてうけいれられてしまっているかがよくわかる。
    こういうふつーのことをふつーでない,といいはってるのは,オロカな中國人と韓國人だけです,みたいなww

    呵呵大笑

    そう言えば先日朝日が十月革命關連で特集をやってた。

    なんとそこには,シベリア出兵を侵略の端緒と斷定する記述があった。
    朝日がこれを書いたのは初めてではないか?
    と思うくらいに見たことない,はっきりとした書きっぷりだ!
    じっさいこのこういう論調はわたしがモノゴコロついて新聞讀みふけり始めてから,
    これまで記憶になかったようにおもえるが。
    もちろん,朝日の記者が自らの,朝日新聞社の,文責において,ということだが
    わたしは,驚いた,
    日露戰爭からつづいていく帝國日本の軍事介入,これは侵略ではない,というのが
    朝日の大好きな,みんな大好きな司馬遼太郎史觀的,明治の日本人禮讃の色濃くのこる,そして巧妙に出兵と侵略を切り離してきた近代史のレトリックぢゃないか,



    ところが
    十月革命の特集記事は
    いつもの,
    『國際的に認識され,學術的に世界で共通の認識をもたれて定着している』
    近代史觀,日本人に嚴しい歴史認識,
    そういう
    『世界史の中に位置づけられる日本をみていく歴史』
    に疎い,その複雜さがよくわかってない,若い(?)記者が書いたようにみえる
    生煮えの,生ぬるく,生半可な
    (――これは大衆的だ,とか,わかりやすく噛み砕いて,という表現のモンダイではないw歴史認識そのものが,日本人にしか通用しない,内なる物語,紛糾しているうえ省略されたおとぎばなしだ)
    いつものとおりの
    いーかげんな,WIKI程度にも腰の据わってない,あたりさわりない特集,
    ではなく。

    わたしは,驚いた,のだ,
    朝日にもまだアカが居殘っているのかとw
    しかも黑島傳治の『橇』について言及されていた。


    何のことはない,署名を見ればその中に上丸洋一記者がいたw
    久しぶりに目にした名前だ


    「戰後」の日本は確かに,終わっている
    次の戰亂が來るまでの「戰前」であるにすぎない

    日本にはネトウヨとりべらるがゐる,というとき
    そしてその他大勢の考えない,何も知らない非ネトウヨと非りべらるがゐる,というとき

    殘りはすべて,異端。
    不逞のヤカラ,ザイニチ,ヒコクミン,沖縄県民, “こんなひとたち” ,w

    極右やヘイト團體やレイシスト,と,アカやザイニチ,この二者が手をむすぶことはないがw

    ネトウヨ,と,りべらる,はいつでも簡單に結託して決着できる腦の回路をもつ,
    膠漆質のカンタン細胞
    ――あるジタイ,ある概念を,きっかけに,
    いとも簡單に旋回轉變できる程度の,
    輕い,輕い,空氣より輕い理念モドキ
    だから,空氣に,いとも簡單に染められて,溶けついえ消えてしまう

    かれらはみずから整合性を整えないできたから,いざとなると

    いつでも 『轉向』しうる,輕さ,でもってふわふわ,うかびたゆたい
    何處かにピタッと吸着される,
    たとえ 『轉向』 しても,だれも,その整合性のないなさ,を,糾弾できない,くらい,融通無碍だといえようくらい,もともと整合性が・・・

    そうか!

    彼らに整合性がないのはそのためだったのかw

    憲法は改正され,

    あとは
    敵基地先制能力行使のお墨付きをもらうだけだ
    なぜか?

    なぜなら日本は祖國を「自衞」しなければならないからであるw


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    9・18雜感

    わたしは今月ヨミウリシンブンを購讀しているんだがw
    毎朝,他にないからしょーがなくて讀んでるアサヒシンブンの一面と比べて,も,
    なかなかに,しょーもない。
    國内のモンダイにおいてはインパクト強く,兩者の構成も論調も。
    予想通りに違っていてい面白いのだが。

    なぜヨミウリを讀んでいるのかといえば。
    モチロン北朝鮮のモンダイもすこぶるキになるけれども,
    かんがえてみたいことがあった,からだ,

    それが日本の實體,すくなくと,ショータイである,とわたしが感じる
    りべらる,と,ねとうよの共通項はなにか,
    ということをかんがえたいと

    ちなみに
    そのショータイ,とは,りべらるとねとうよとの単純な総和であるにちがいないという
    とき,

    これは正體のことでは,もちろんんない,
    キサマ,ついにショータイをあらわしたな,

    とかいうトキの正体であるw

    わたしの,「えも言われぬ不信感」の追認をしたいとおもったから。
    當然,考えたいから,かんがえるためのいろいろな材料を得たい,と言うことで
    しょうことなしに
    ヨミウリ新聞っ,という短絡w


    あの,のだせーけんの,考えなしの無茶なのか?,意圖してあえて やったか?
    それはしらんがw
    ジツは民主党のショータイというもんをあらわにあらわしている
    國有化というぼーきょ。
    わたしにとって惡夢としか言いようのない・・・・・2012年に起きた最惡の出來事であったキもする。

    安倍政權は民主黨政權をあらん限りに罵倒しているが,この國有化を批判するヤツはいない。
    そう考えるとノダ民主も,安倍自民も同キ相求,近親憎惡?
    ということにしか見えないわけだが

    わたし的には,あの “國有化” 以外民主党政権にそれほど瑕疵があったとは
    ジツハマッタク思っていない。わけで,つまりは・・・・・
    なにがいいたいかというと,
    わたしのりべらる不信は,ジツはこの,民主党政権末期におこったありえないジタイにはじまったのかもしれない,
    畫然と,愕然と,はっきりおかしい,とおもった,端緒がこのときである。

    ・・・・・。

    それにしてもおどろいたことがある。

    ヨミウリが尖閣の地圖を載せる時には,東京の位置も中國大陸の位置も示さない,ということだ,
    つまり
    沖繩縣と尖閣島嶼,無人島だけw
    ぽつんと

    茫洋とした海の四角の枠の中に,島だけ書き込まれた圖をしめしている
     
    のみ

    だから
    はたして尖閣が,東京,大阪,福岡から,どんだけー離れた絶海の孤島にありw
    その所在はどんだけー中國という囗らしき大陸にちかいか。

    浙江,兩廣,福建,臺灣から,上海,南京,香港,台北から,いったいどれくらいの
    どの程度看過できないくらいの距離,近いと思われる近さ,にあるか。

    すなわち彼等にとって,
    彼らの國防上,
    もしもココを制壓されたら,

    「ヲワッタ」

    と言わざるを得ないジタイに直面するか,という,目近い地點に位置するか,

    という,だいじなことは,
    容易に知らされないようになっている。

    尖閣はいったいどっちのもの?
    と考える日本人は
    そもそも
    類推する,ということが苦手なようだ,そのうえ,

    物事を相對化して考える,という單純なメソッドは・・・
    反中嫌中感情がそのココロに忍び込んだトキには必ずや採用されない
    しない,

    そう,
    ただただ素ニシテ樸タリな,見地から,
    つまりは先入觀なしに、事の大小,距離の長短,彼我の位置,という
    すこぶるかんたんな類推もしない,

    たとえば,
    戰爭,
    という,他國を滅ぼすか,自滅するか,どうか,という大局に

    大地の大きさ,を考えない。
    人の多さ,少なさ,も,軍資金の多さも少なさも,はじめれば何とかなるの,大博打

    そのうえ世界の大きさ,それをも一切無視して類推もせず
    世界に刃向かってやろう,とパールハーバーはじめちゃった
    という。

    ニホンジンがいかに恐ろしいキョウボウ團體的民族か,というのは。
    ・・・・。
    トイレなきマンションといわれる原發が,
    この狭い國土,日本の大地にイッタイいくつあるか,と考えれば,
    われわれの,なんとかなろう,の志向性がいかに根深いものかわかろうというもの

    過去の歴史を考えると,とりわけ昭和。前四半期・・・・二十世紀前半期。
    歴史を振り返ればわかりやすいことなんだが
    なぜか我々の考える材料としては,霧中のかなただ

    「近代史」は,歴史は,日本に限って言えば,役立たずなものである

    かんがえる,それだけのことだが,
    そもそも,たった,それだけのことにすぎない

    一生懸命わすれないで,考える
    というようなことは,するにあたいしない,無駄な努力,
    あまつさえ
    具体的な類推の契機,となりそうな材料は,みごと,巧妙に隠されてしまっている
    人を考えさせない,ということにかんしては周到なのである。

    彼我の差異や彼我の立ち位置はちがうだろう,
    と言うことさえ,
    まちがっているのである,日本においてはw

    ・・・・・w

    勇ましく聲の大きいヤツ,に,ただ,追随していってしまうフシがある
    とはいえ
    穏やかで,謙虚にしゃべるヤツが,まともなことをいうともかぎらない。

    そもそも何も言わない人はナニをかんがえてるのかわからない,

    というこの世間のありかたは,
    ナニカ考えてる人が,だまっている,という状況,そのものを,
    根本から見くびっている政權,の,おもうツボではあるもののw

    ふつー寡黙な人は思慮深い人であることが多いという症状はあるだろうとは
    おもうものの
    ソノジツ
    ナニも言わんからといって,ナニか,かんがえている,とはかぎらない
    という,w
    このことこそ
    ニッポンジンのおそろしさかもしれない,
    と思う今日この頃。である。


    ちなみに
    他にないからしょーがなくて讀んでるアサヒシンブン,は,
    それでいて
    まあ大陸東南海岸線,と日本列島の真ん中よりずっと左,
    つまり,なんだ?
    より西側?
    にひろげて尖閣の位置を,いちおうしめしているのだが

    本州と尖閣の距離感,大陸と尖閣の距離感。
    日本第二の都市,大阪から尖閣までの距離,
    中國有數の都市,上海から尖閣までの距離。

    ソボクに地圖をながめれば,ここを日本と認めるわけがないだろう。

    という,とんでもなくとおい絶海の涯のような距離にあるw

    「尖閣?」
    日本人が
    「あそこはひょっとして日本の領土じゃないか?」 

    と言いつづけることは,
    極端でゴーマンなわたしに言わせれば過去を反省していないこととイコールだが。
    スコブル少数派らしきわたしはともかく。

    「それは・・・・日本人は何かの考えがあって,目的があって,證據が無いのを幸いに
    あそこは日本かもしれない,と,そう言い募っているのだろうか
    そーいえば日本人には。前科がある。
    過去を悔いていないよーな言説が絶えずシマグニの本土の方からきこえてくるが?」

    と考える人は,世界にも少なくないかもしれないではないか?

    りべらるは 常に,國際法遵守といって,アメリカ保安官をアテに,
    ハーグだ,國連だ、航海の自由だなんだがあるからには
    南シナ海の正邪はわかりきって,中國がひどいにきまっている,と

    「尖閣は,歴史的に不明なんだから,ひょっとして日本の領土の可能性もある」

    と,
    何にも考えずにキメツケていやしないか。


    ほんとうに事情をよく知ろうとして,そのうえでよく考えていっているのだろうか?
    わたしは事情を知れば,そして少し考えれば,
    アメリカの言い分にさえもかなり無理があることを感じる

    誰からも相手にされないが

    わたしは不思議でしょうがなかったし,ジツサイ,
    りべらるとわたしが目下目する知人,には,必ずや聞いてきた,單刀直入に。
    尖閣の歸屬をどう思うかと。

    かえってくるこたえは。
    「尖閣は日本の領土かもしれないし,わからない,證據は今のところはないのだから・・・・,」
    である。
    こういう一見ふつーに良識あるとおもわれてる意見は

    彼らりべらるの平和主義,反戰思想と,どういう整合性があるのだろうか?
    と。
    いつも彼らの本性を見たキになる。

    考えたうえでいってるのだろうか,
    かれらは,なぜ。

    ・・・・。

      「尖閣が日本であるわけがない。」
    とはいわないまでも,
      「歴史上,はっきりした証據がない」
    ならば
      「距離感から言ってあそこを我々が制することは,中國,中華民國の
      自衞權を著しく阻害することになる。」

    だから
      「尖閣が,日本の領土だとは,すくなくともまずは,云うべきではない。」
      「それが中國の領土かどうか,ということはまたべつの問題で,
      日本が尖閣を領有することは,武力行使の可能性を高めるだろう」
    ならば
      「われわれの理念,哲學,平和主義の理想からいえば,
      尖閣は日本の領土である可能性がある,と言いはらない。
      これは理の当然であるあから。あえていわないのである」
    なぜなら
      「我われ日本の平和主義は,自國とおなじように他國の自衞權は
      あってしかるべきである,という,このことをも,納得できるからである。」


    と。
    いわない。

    つけくわえるなら
    「たとえ經濟的利害,に對立が生じ,日本が不利益を被るとしても」
    「國益の對立は,激化すれば,必ず平和を損なうからである」

    このように語ることができる “平和” 主義,の日本人は,
    すくなくとわたしのまわりにはいなかった。
    これが,こういうことをいうことが “正しい”,とか,
    わたしがまちがっているかどうか,
    ではない,

     あなたがた,日本人の平和主義とは,なにか?
     どんな理念,理想がそれをそのように考えさせ,ささえているのか?

    もっとも疑わしくなる瞬間である。
    わたしは,しかし,彼らの平和主義を問い詰めると
    虚しくなるばかりなのでそこで,對話は終わる。
    それ以上喋っても何も出てこないことはわかりきっているから。
    もっといえばそれが故に,彼らを,りべらる,とわたしは目下目しているのだから。

    ・・・・。
    無明。

    いつも無明の海の波頭に投げ出されたような寄るべなさを感じるのである

    日本のりべらるには整合性が無い,

    なぜなら整合性をもったなにかを見出す作業は,イデオロギーの蒸し返しであって
    キメツケること,であり,おしつけること,であり,
    りべらるにとってはやるべきことではないからである

    くりかえすが,尖閣の領有に正當性はあるか,,歴史的に正しいかどうか
    そういうことではない,

    そのリクツは整っており,合理性があるか?その事を整合性といい,
    わたしは,そこを質しているのだが。

    言うまでもなく
    この整ってあるか?ということにすぎない
    正しているのではなく
    糺し,糾しているのである が

    善惡や真偽と,正反とも正準とも虚實とさえもなんのカンケイもない
    ただしさ,であるがw
    正しさとはなにか
    正の逆はなにか?いろいろあるが。

    整正の對義は何か?紊亂である,
    というにすぎない

    感情の話ではなく,歴史のハナシでもない。
    國家をなりたたせる理念とか,平和主義の理念とかのハナシであり,

    ジツは,單に理想,端的に理念
    なにを自分の “理” ,として, “意” とするか, “想” うのか,
    というハナシである

    同調キ質と思いやり。そのことが互いの便宜を圖る。

    (なんといっても
    アラヒト「神」の人権擁護までしかねないひとびとである。
    西洋リベラリズムを歐洲の近代思想を根底から讀み違えている,はき違えているとしか思えないのである,)

    これが,日本の,そのいかにも,歴史淺い近代の “風土”, “風格 Fēnggé”,つまりは自由の,スタイルであるらしい


     (――まったくカンジ惡いことを書くが
     ここでわたしがモンダイにしてるのは・・・・w
      “りべらる,のへーわシュギ” という非常にちまちまとした問題提起のもとで,
     その彼らの理念,ということであって,
     w
     わたしは,りべらるの平和主義を攻撃しているのである。

     年がら年中に日中の近代史のことを考えている人にしかわからない
     この氣持ちを,わかってほしいなどと思っていない。
     なんども書いてるが,
     もとより特定の,拘泥,歴史觀を持っていない人にとっては
     讀むだけ時間の無駄だ,というだけでなく,讀むのは,むしろ害になる,
     そう思いながら,讀まない方がいい,そう願いながら,
     害ある言を吐きつづけてきたブログである,
     しかし,そろそろまじめに近代史と舊體詩,にもどろうとおもう

    さて,さはさりながら,だ,最後に
    人類プロパーに普遍的,な,世界のだれにもわかりやすいことも
    少しは殘しておきたい,とおもったのだ
    ――20171113 切記)


    ところで
    尖閣について,わたしのこういう考え方は,
    案外,冷靜な,中國人が考えてることでもある,

    いや,かんがえなくてもだ,冷靜でなくてもだ,

    彼等は考えなくても “體” 感,している。

    彼らの土地に流されてきた血の凝ごる,“碧玉” ,が,そうさせるのである
    われわれ中國人は,ソボクに,體感的に,ゼッタイに
    あそこを日本の領土とみとめるわけにはいかない,と 
    かんがえてしまう,

    過去を記憶している “體”が,そう “知覺” させる,
    と。

    これは,かれら中國人は,日本の平和主義を,それほどゆるぎないものとしてみとめていない
    ということにもなるだろう,

    おそらく,今度北朝鮮の問題でも日本の対應に違和感を感じ,韓國の言論に信を置ける,とわたしが考えるのも・・・・・
    おなじ理由かもしれない

    中國の,わたしがいう “碧” は韓民族の “恨” であるかもしれない
    民族ということばを輕輕しく言うべきではないが。
    民族のもつ, “傷痕” であり,また,それをわすれさせることなくうたわせる,うた。
    大地が,澎湃として響かせる “聲” である,と,そうおもう

    山河はうたわないが。
    うたわせることができる,ということだ

    我我の,我が國に,わが國土に自衞權がある,ということを想定するならば,
    中國の山河
    にも自衞權はある

    北朝鮮にも自衞權はある。
    そう,
    本題は北朝鮮のハナシ。

    經濟制裁などするな,と。心の底からねがいおもう。
    キムジョンウンは何も困らない,酷く困らされるのは彼の地の民ではないか?

    武力行使はゼッタイいけない,脅威に煽られて核武装などもってのほかだ
    そう思う,キムジョンウンは何も困らない,日本の民はどうか?

    イージスアショアを爆買いすることで,
    どれだけこれからの,日本に,次の世代の生まれてくる子供に。
    どれだけの負債をいやおうなく押しつけることになる?

    何度でも繰り返して言いたいのは,
    核抑止力
    とはなにか?

    わが日本國土が潰れたときに,
    われわれの復讐をしてくれる國がいる,というにすぎない。

    抑止力があるからといって,w
    かの,太ったコドモ,が自暴自棄になったとき,狂氣に陥った時
    かれが冷靜さ,を,とり戻させるための力には,ならないのである。

    核抑止力というのは,
    弱い民の懐から金を吐き出させる,うさんくさいカルトのツボとなんら變わらない
    貪欲なアメリカの,タチのわるい靈感商法ではないか?

    われわれのヒロシマがあのようになったとき,
    われわれも核を持つべきだ,と,
    復讐しなければキが済まない,と思った原爆被害者は,いたか?いるか?

    焼けただれた皮膚を,ずるずると背中に背負うて,そうかんがえたひとは,
    あの日のヒロシマにはいなかった,

    なお,戰爭續行と,自身の保身を模索する,ヒロヒト,と,戰爭指導者は
    どうおもったかしらんがね。

    彼らの逡巡は,ナガサキという,もうひとつの悲劇を正當化する口實を,
    アメリカに与えてしまったのである。

    かりに,1945年8月6日に帝國日本とヒロヒトが,
    もうやめる,カンベンしてくれ, といったところで,
    ナガサキの悲劇を食い止められたかどうか,そんなことは知ったこっちゃないが。
    それはわからない,起きなかったことなのだから。

    あるのは,
    われわれが考えるべきなのは
    われわれに殘された歴史認識。
    それは

    あいつらはヒロシマの悲劇を知ってなお,戰爭終結を逡巡した,

    その重い,重い,ジジツ,のみである。

    そいつらが,また,核抑止力のおとぎ話を信奉し,布教させている。
    Nuclear deterrent force 教を狂信するのは,何處の國,何處の理念だ?

    アメリカがしてきたことをもっともとっとソボクニ考えてみるべきだ。
    おまけにいま,りべらるが言うことは,言うに事欠いてか,

    北朝鮮を追い詰めると,かつて石油を絶たれた帝國日本のようになって暴走する

    だと?
    ww

    暴走したから石油を絶たれたのである。

    日本は毒ガスやペスト菌兵器の開發實驗をしたから叱られたわけではないw
    少なくとつも,
    開發を始めても,世界にはそんなことは一切知りませんといい,

    とはいえ
    中國大陸で毒ガス、生物化學兵器を、多用した帝國日本,皇軍の戰術は,世界では共通の認識となる程度に學術的歴史學的に詳らかにされているのだが
    それでさえ。
    帝國日本は
    トー突に追い詰められて經濟制裁で石油を絶たれたりわけではないw,

    追いつめられる前に,とっくに,暴走してたのであるw

    他國を侵略して現地で人を殺したから,
    動産不動産を破壊略奪した,他國の主權をものともせずに
    國益のために侵寇した,
    だから,そしてそれがあまりも目に余るから

    “絶たれた” のである。

    國交と石油を。

    ところで
    北朝鮮に何をされたか考えてみるに,
    拉致問題は,ヒドイ話だが
    われわれの危機意識はそんなに理に適ったものだろうか?

    “同盟” 國の基地が攻撃される?
    核の傘?

    日本國土に,核彈頭おとされたらアメリカに核でやりかえしてもらうための,
    そんな
    「報復してくれろ」同盟ぢゃないか

    しかし,地球を汚染させてまでつかわれた核に,對抗して
    もういちど核で對抗するコトに,どんな
    “理”
    があるというのだ?

    まじめにかんがえてるとはとてもおもえない。
    つまりは
    大いなる戰爭屋武器商人と,大國の
    “利”
    があるだけじゃないか?

    そして?
    我が日本人の復讐心だ,w
    復讐の喜びがあるだけだ,そんなことに,イージスアショアだ,核武装だ,とカネを湯水のようにつかってw

    そして一部の人間の “利” が,存在してある,
    ということだ,

    かつては,たとえば
    「滿洲國」内務省や關東軍によっての天文學的に軍資金を生み出すシステム
    「滿洲國」蒙疆のアヘン栽培と密賣と,アヘン禁制の美名のもとに白色麻薬の専売制
    という非人道的 コッカ經營と,そうしてわんさか出てくるカネがあったがね
    今般,岸のいないいま,w安倍はいったいどこからイージスアショアだなんだ
    作るカネをひねりだす,というんだ?
    いくら日本がアメリカの与力だからといってw
    アメリカは鐚一文錢とて出さん,賣つけるだけだ。

    かってに敵基地先制攻撃能力を持とうとしているわが “國” 戰爭屋ぼっちゃん,
    フィクサー,武器商人の思うが儘にさせてきた
    ・・・。

    我々の平和主義とはなんだったのだろうか? 
    われわれはそれを考えるしかないのである。
    このことの意味は

    重い。

    考えなくても體感しているひとびとがいる。
    彼らの土地にしみついて,凝ごる, “碧” ,が,そうさせるのである
    祖先の地が,祖先の血が,そうさせる。
    これは “文” の歸着した “化” ,というものでもある,
    “風土” とってもいいのかもしれないが。
    しかし彼等に, “風化” はあり得ない,ということでもある

    日本人はすぐ忘れるのが習い性だが。

    われわれは。
    手繰り寄せて類推するしかないじゃないか。
    かんがえることしかできないではないか?
    理念とはそういうものだろう?
    他者の地のありようを想い測ることしかできない。

    そして人類が滅亡しなかったのは,考えることができるからじゃないですかね?

    考える葦,だからじゃないんですか?

    麥積山石窟  中國佛像

    いつかフランスの絶望した自由主義者がいみじくものたまったように。


      L'homme n'est qu'un roseau
      mais c'est un roseau pensant



    人間をすり潰すためには,この世が全體で武装するまでもないのである
    葦,というひと屮を,殺すためには一滴の水、一滴の雫だけで十分である。

      それほど,草は弱い, しかし。
      考えることができる


    そして,

     われわれをすり潰そうとしているナニカは,
     われわれからみれば “認める” ことができている。
     一方,彼らは,われわれを “識” っているか?
     “認” めているか?

     われわれは, “かれら” の存在の “意” あることを,
     “意” を以て考えることも,認めること,さえも,できる

    超意譯,だが,まちがっていない,少なくともフランス語を愚直に讀めば。
    このようなことが書いてある。

    “かれら” ,を,神,とも,國家とも,世界ともいいかえてもいいが

    そんなちまいはなしではなく

    これは・・・・・

    “univers”
    という語がつかわれている,
    宇宙,というふうにもいわれる,
    が。

      “Tout ce qui existe 存在するすべて

    である。つまり
    “一切衆生
    である

    そうして, “われわれ” とは,
    そのジツ, “ われ” ,であるにすぎない,
    孤單の,一,草,である,
    その,想い,その強靭さはどこからくるか?

    “意 yì ” ,である
                           


     不對白

    起縁常在見不認    Qǐ yuán cháng zài iàn bù rèn
    歌唱偈頌哪始存?  Gē chàng jì sòng, nǎ shǐ cún? 
    聲有而歌不必字    shēng yǒu ér gē bù bì zì,    
    有因有果惟爲 “文”  yǒu yīn yǒu guǒ wéi wèi “wén”

     

    想うに
    だれからも認證されないよーなこと。承認されないよーなこと、同調されないよーなこと
    それでいて自分は,此れを書くべきである,と確信して書けること
    そんなこと
    かくのってけっこうたいへんなことなんだがw

    よくいえば,
    わたしは知識をフリかざして,何も真ジツはわかってないのに謙虚になれない,
    よけいなえらそーなことばかり。個人の考えを侮蔑,否定するファシスト
    わるければ
    どっかから孫引きでもして,さも自分で考えました,みたいなコト書くウソツキ
    と。

    いつでもおもわれている。
    がw

    ザンネンながらわたしはヒトのコピペーもしないし,
    過去の人の言説もそのままつたえたいともおもってない,

    書きたいことは過去に對して,言説に對峙して自分が考えたこと,だけだ,
    だから。
    そして
    現在進行のことも,文字にすればすべて過去のことだ,

    文字のそうした本質を,

    いざ,

    心の底から知ってしまうと,
    人と交流するための文字は,必要なくなってしまうものであるのも,シンジツ。

    これまたよくよくわかっている

    だから,のーテンキなこと書きつづけていられるんだがw

    空しさと,文字は,無,關係

    っめいこんしー。

    めいよー關係。
    いいことばじゃないか

    沒有關係正是空。 色即空是“沒法子”

      2017・9・18 切記

    テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

    烏托邦ハ粉碎デキル 萬物為齎送!

    外へ外へ外へ外へ外へ外へ,ただわけもなく押しやられる

    押しやられる流浪人の話    小熊秀雄

     滿洲に冬が來た,流浪の滿洲人は奥地から都市に辿りついた,彼は夏の間兵士であつたのか,空腹と饑餓が襲つて,彼は極度に衰弱してゐたために歩行困難の状態であつた,
     彼が一都市についたときは今にも倒れさうであつた,一軒の家の前に立つた,その家は骨とう店であつた,彼はぢつと店内をながめてゐた,心は空腹のために虚ろになつてゐた,すると中から店主が現はれて,叱,叱,と叫んだ,
     流浪人はこの叱り聲の意味を理解したかのやうに柔順にその店の前を立去つて,その家の次の商館の店に立つた,彼は食を求めてゐるのではなかつた,既に食を求める力もなく,いま一椀の飯を與へられても彼は喰べる氣力はないだらう,彼は立つてゐる力を次第に失ひ始めたために,じつと肉體の動搖を避けるために,立つてゐるだけであつた,
     だが,その家からまたもや主人が出てきた,そして手でその男を靜かに押して自分の家と隣家との境目まで,さうした状態で流浪人を押しやつた。
     流浪人はしづかに歩るいてゐたが,いまにもぶつ倒れさうになつた,商館の主人は,男を隣家まで押してゆくとさつさと家に歸つた,
     流浪人はまたもや次の家の前にぢつと突立つてゐた,その家は役所勤めの人の住んだ家であつた,その家の主人が出て來て,前と同じやうに,男を押して少しでも早く自分の家の前をこの不幸な男を去るやうに邪劍に扱つた。
     男は三軒目の家を去つたところが,その街の殆んどはづれであつた,男はその場に突然膝をついたそこは幾分窪みになつて,寒い風を避けるかのやうであつた,彼はその場に倒れ,眼をつぶつた,すると一人の男がその場を通りすぎた,この男もなにやら虚洞な眼をして,じつとこの行き倒れを見てゐたが,のろくさとした動作で流浪人の體に手をかけ,その體から衣服をはぎだして,見るとその男は殆んど上着は破れてゐて,彼は流浪人から着衣をはぎとるとそれを歩きながら着た,流浪人は裸體のまゝ,寒い雪の上に倒されてゐて,彼は少しも體を動かさない,でも眼は案外生生として,まだ生きてゐることを證明した,男は去つた,そして流浪人はそこで死んだ,冬の間この死體の上には雪がつもることをしたが,強い風はすぐ積つた雪をふりはらつて,カチカチとした裸體をむき出しにしてゐた,通行人は稀にそこを通つた,然しその死體をチラと見たきり少しも心に動搖を起さなかつた,野犬がその死體に近よつた,しかし鐡よりも硬ばつた死體を鼻でさはつたきり,絶望的に去つた,
     そして春がまた死體の硬ばつた凍へがしだいにとけてきた,死からほぐれてゆく生命といふものがあるとすれば,冬の間凍つた肉體が春になつて漸次溶けて行き,彼の靈のない肉體が新しいフショク物として地面の中にしだいに溶け沁み行つてゆくその過程のやうでもあつた。



    これだ,これがこれから始まる憲法改正によってはじまるいっさいだ,

    わたしはゴメンだ,押しやるよりも押しやられるのがまだましだ
    わたしはゴメンだ

    草生す丘にくちはてるほうがよい


    吾以天地為棺槨,以日月為連璧,星辰為珠璣,萬物為齎送。
    吾葬具豈不備邪?何以加此!
    在上為烏鳶食,在下為螻蟻食,奪彼與此,何其偏也!



    自民黨憲法草案をよんだことがあるか
    あれを書いたやつの鼻息があらい,八割強が八八教の,八割狂の八惡經だ
    國柱會の
    ホケキョウよりたちが惡いはっこういちうのコケキョウだっ





    烏托邦 = Wū tuō bāng
    托洛茨基(トロツキー)の烏(カラス)の國のことぢゃないw

    烏托邦=[Utopia]
    英國空想社會主義者莫爾(Thomas More)所著書名的簡稱。
    作者在書裡描寫了他所想像的沒有階級的幸福社會,
    並把這種社會叫做“烏托邦”,意即沒有的地方。
    後來就用表徴 “烏托邦” 指不能實現的理想

    外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,


    かつて,憲法九条があった,という,w

    實現できない理想という意味ではユートピアと同じ類いの妄想か?

    そもそもユートピアとはなにか?

    内原訓練所を,その精神主義を,植民,而してユートピア建設というは
    ただ侵略の正當化にすぎない

    それををおもえば
    加藤完治。
    敗戦の年の春まで滿蒙に送り出しつづけた内原訓練所。
    戰後,彼は,彼の敎え子たち,の生還をっいのちからがらの歸國をっ
    喜ぶどころか,謝るどころか
    開拓の青少年義勇軍は死ぬべきだった,滿蒙で,その地において,
    そうほざいて,なんの反省もしなかったひとでなしだ

    開拓農民は
    「その地の “土” に還るべきだった」

    『彼等は農民だ』


    拓殖を選民差別で理論づけした矢内原植民學もそうだw
    彼の滑稽な自由主義,選民思想とシオニスムは
    エホバのサンサンたる榮耀のもとで,
    皇國の聖戰だ,この戰爭で死ぬのは義だ,ミッションだ,とほざいては,
    學徒出陣の敎え子を平然と戰地に送り出した。
    おまけに戰後はヒロヒトをメシアとあがめた一貫性ないキリスト者だ

    キリスト教徒は
    「死,をおそれてはいけない」

    『彼らは義人だ』

    悪質極まりないのである
    狡猾窮まりないのである

    キリスト教に,ホケキョウに,ふりまわされた
    これが共生思想とユートピア社會の末路だとは
    ノアも龍樹も沒有想到,モアも天台もあっけにとられる日本の文質資産
    日本の近代の歴史のアヤメともいうべきフクザツさ
    ホケキョウと,國柱會の深刻な排他的ユウエツカン性
    これをシンコクに考えたことがすこしでもあるなら・・・・。
    いやシンコクにかんがえないからこそ,りべらるホ種なのだったっけ
    メルヘン思考と戰爭の,メルヘン志向とユートピア幻想の,
    不適切な結びつきを論じた文章はないのだろうか?と思えば・・・・
    結構あるようなキがするんだがw


    そもそも
    そんなユートピアを幻覺する志向はプロレットカルトの對極方向にあり,だ

    つまり,覚醒させないことを旨として流布される,オトギバナシ。
    宗教では社會は良くならず,精神主義では僞ユートピアしか現出されない,
    幻出現は幻燈機だけでたくさんだっ

    植民,而してユートピア建設というは,ただ侵略の正當化にすぎない

    ただただ,利,の貪り,欲のおもむくままに
    内地のキに入らぬ民を包圍しては不逞人とののしり押しやる

    大陸雄飛,
    押しいり,は
    外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ。

    な~にが,タイリクユウヒだ

    外地に立ったらば,その地で, “土民”を
    押しやる

    大陸夕日,
    外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ
    疎外された阻害された現地の民に殘されし

    それこそ,タイリクユウヒ,だ
    萬劫滄桑剩夕陽 

    それのみだ,

    それが侵略だ,
    侵略と出兵だっ
    またの名を
    押し込み強盗というのだ!

    外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,外へ外へ外へ


    押し込み強盗がやってきたら自衛しなければならない,
    そんな道理は憲法九条とは何の關係もない。
    何の意味もない神學論爭だ

    ヘイワ君はやってきた強盗に,あわれっぽくもたずねるかね?

     われわれって,
     コベツ的自衛権ある?正當防衛ってできる?してもいいの?ジエイ。

    われわれのおしつけられた憲法では,はたして抵抗できるだろうか?
    そんなことを強盗に聞いてる間もなく殺されてしまう。

    殺してしまう,それがかつての皇軍ぢゃないか

    日本人の憲法論議はおかしいのである
    自衞權?抵抗の権利。

    そんなもんあるにきまってるじゃないかw

    あほちゃうか。
    護憲りべらるVS
    ・・・・。
    ・・・・。
    ・・・・。
    おまえら,なにとたたかってるんだっ
    ゴケンっ

    ジンケンは
    ・・・・・・。
    琉球にはない,という。沖縄にはないという,邊野古にはないという・・・

    そう言われた時黙り込むやっつはアイ國者だっ

    愛國?愛國殤ぢゃないのかね
    國柱が大好きなコッケ教信者だ

    八紘一宇だとっ?
    ふざけるな

    外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,


    此地!此處だろう?

    Qiantangchao.jpg

    日の本に讎なす國を攻めよかし
    萬里の波濤を 乘り越えて皇國の光 かがやかせ ・・・・

    八紘一宇だとっ?
    八一宣言の方がよっぽどマトモだっ

    萬里の波濤を超えたさき

    中國大陸では。嘗て。

    マヌケなことに

    愚鈍で懦弱で麻木な,中國人は,帝國日本に,むかって

     われわれは抵抗しない,譲歩する,

    といっていたらば,だ

    譲歩しつづけ手足を縛って左袒したらば
    強盗に「滿洲」から華北から掠めとられて侵寇を招いた

    コミンテルンに指嗾された中國は,やむなく抵抗を
    おずおずと始めたのだ
    なぜか?

    とんだ怯懦の國家があったもんだw
    なぜこんなに,この國家は,塗炭の苦しみに喘ぎながら抵抗もだしがたく
    おいだせっおいはらえっ攘夷だっ
    外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,

    そう叫ぶ民をかかえて・・・・・
    抵抗しなかったか?
    とんだ怯懦の國家があったもんだ?
    對外攘夷戰爭よりも内戰だ
    そのとおり。
    日本より,内なる敵に夢中で敵對してたが,國民政府だ
    しかし。

    よく考えろ,ねとうよ。
    公平を期していっておく。
    彼等は。

    帝國日本はいくらなんでももう少し論理性もて世界の歩みにあわせるだろうと,
    そのぐらいの理,性,と整合,性,くらいは持ち合わせているだろーと

    いくら桃太郎でもにんげんだろ?,鬼ぢゃない,
    すこしは理性というもんがあるというもんだろう?・・・・・
    まさか,根こそぎ奪いにかかるとは
    さしもの蔣介石さえ,も,思っていなかった

    帝國日本の非理性,非論理性,無理,不条理,不道理,不合理を甘く見た
    だから先に内から手をつけようとしていた。

    ところが

    海越え山越えやつて來た鬼が島の「桃太郎」は
    華中まで浸食を始めた

    外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,外へ,

    ここぞとばかりの掠略侵寇だ
    キが狂ったように。
    肉彈戦などあるわけないとタカをくくって

    八紘一宇言語好!!!到處殺人刈如草
    これがホントのコケキョウだ

    蹂躪されてようやく抵抗を始めた國があったという,
    勞働者,農民,學生,若者,義勇兵
    抵抗はすさまじく
    肉彈戰の捨て身の抵抗だ

    生きるために抵抗したのではもはやない

    なぜか?彼らにはもう失うモノなどなくなったからだ

    シナバモロトモ――同歸於盡――の抵抗だ
    外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,外へ,


    そしたら皇軍は逆ギレした。あげくは南京屠殺のおかえしだ
    皇軍のヘイタイたちにはうしなうもの,喪ったら困るものがあった
    捨て身にはなりたくなかった,なかった,内心に,
    なぜなら
    内心に,かれらの胸には歸りつく故國があったからだ
    内地に,かれらの母も妹も戀人も。凌辱されることもなく。
    銃後を守る
    これが

    外へ の實相だ

    ユートピア幻想が思いつかせ,ユートピア妄想が着手した,
    つくりはじめられたユートピアにおける

    積み上げられた血肉長城の攻防戰だった

    事實。
    事實である
    ここにジギャク的の被害妄想だのという惰弱な快樂のいりこむすきなどないっ

    中國大地にあって抵抗者は,もはや失うものなどなくなってゆく
    江に河にクリークに屍骸がつみあがる
    戀人は輪姦される,母胎のなかまで凌辱されたひとびとに

    なにがのこされているのだろうか?彼らのうちに
    かれらの自衛のその内に,内心に,内熱に。

    その抵抗をナマイキだ

     爾來對手とせず,

    とぶち上げた,近衛とかいう内閣があった,という

    歴史。
    歴史である。
    これはおとぎ話でも笑い話でもない
    都市は根こそぎ略奪された,農地は頽れ隤れてしまった,
    村がいくつも潰滅した

    外へ,外へ,外へ外へ。外へ,外へ外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,外へ外へ外へ,

    そとへそとへのねんぶつとなえた外道のコケキョウ。

    そうしていまも
    オトギバナシをつかって目覺めさせない作為,
    笑い話にして目覺めないヒトビト,


    御伽噺の作りては意圖せざるうちに御伽噺に利用されるっ
    とゆわれるが。
    あたかも免罪符のように
    メルヘン書きはお花畑の番人は
    知らず知らずに加擔させられたっ,利用されてたっ
    いーわけする

    報國會に,勇み足で馳せ参じたやつほどそんなことを言い始める
    ふざけるなっ

    芥川がなぜ,
    太宰がなぜ。
    御伽噺をマジメに書いたか?
    利用されたくないから書かれる文筆,というものがある,あったのである。
    敢て書かれる覚醒の為のおとぎ話だ

    プロレットカルトの筆致で書かれた『桃太郎』。
    プロレットカルトの聲色で歌われた『口號』『怒號』『哀號』!

    外へ外へ外へ外へ外へ外へ
    ちがうっ
    内だっ,内だっ,内だっ

     ねえ,あんた,内省のハンタイはなんだい?
     そんなこともわからんか,疎外にきまってるぢゃないかっ

    論, “理” 性を生きた芥川は帝國に絶望して自殺したんだ
    この國の非論理性に絶望したのであって,
    日本人の非人間性に。

    漠然と不安を感じたからwではない
    だんじてない。

    人間性の欠如とは何か?。
    理性の喪失だw

    芥川の桃太郎君に,カミノケヒトスジほどもの、
    筋を通した論理性があったか?
    節を全うした人間性があったか??


    桃太郎君はとくに性格が惡辣だったからではないのである。

    桃太郎君はとくに人格が下劣だったからではないのである。

    桃太郎君はたんにワルだったから不良になったわけではないのである。

    人間の,善良さも性惡さも,それが爲せるは,做せるはせいぜい
    一個一個の他生,他人をちまちまどーにかするだけだ
    シャカイゼンタイの問題と個人の性格の問題は,その原因もその解決も何のカンケイも,ない

    一人の人間の素性や民族や肌の色が,シャカイを惡くするのではないのとおなじことだ
    染まるヤツが惡い?ちがう
    染めるヤツが惡い?ちがう
    染まらないヤツが惡い?

    染まれないやつを袋叩きにするヤツが惡いにきまってるじゃないか
    モンダイは

    理性
    その喪失だ
    袋叩きを可能にする社會の構築が惡い
    これは虐めるヤツの性格の問題ではない,ということだっ

    ほんとうにシャカイを惡くしていくのは,なにか?
    だれか?

    ほんとうにシャカイを好くしていくのは,なにか?
    だれか?

    おとぎ話でも,ユートピア建設でもないっ


    外に?
    うばっていい外,などはどこにもない
    よそへ追いやることもできない

    しかしコケキョウ徒は外へ,という。
    排除と外征の動機はおなじだったぢゃないか
    だから滿蒙に共和はありえなかった,そもそも作るキもなかった
    外に追いやり,外を貪り

    内なる日本はいったいなにが變ったか?

    日本には,戰前,戰間期にシベリア出兵から,間島出兵から,書きつがれた戰地の描寫があった,
    そもそもの,その動機たる,プロレットカルトはたしかにあったのである。
    それは忘れられる,というほどにも,かえりみられなかった。
    なぜか?
    アカが書いたからか?

    そうだあ,
    そのとおり,ニホンジンがそれをきらったのである

    憲法九条はユートピア希求ではない
    我我が未来永劫,いのちつきるまで,
    竭,盡,,全力もて達到すべき, “唯一の崇高なる理想を目的とする”
    を誓う,という言志である

    わたし自身矛盾を感じて非常に自分自身がいきどおろしいのは。

    以前,わたしはこんな憲法九条,これはこんな日本人にはもったいない
    とおもっていたし,ずっとそう書いてきた
    この地にふそうおうにあたえられたGIFTだと。

    あの憲法が起草されえたのは奇蹟の時空だった,と

    だから
    これをいまから,おのずから失っていくのは,とー然の歸結,と。
    まさに理の當然だ
    むしろ,わるくない,

    日本人には身の丈のあった,あいまいで,主語もなく,あやふやな理念もどきな憲法を持つべきだw。
    そうわらって言い切ることができないのはなぜか?

    うしなってはじめて,九条はポエムではないことがわかる,

    ならば むしろわるくない。 わかる,とは,いいことだ

    亂不一定不好看。正視很好惟青眼っ

    日本人の内向きなる排外フェチなネトウヨと, 安倍ちゃんサポーターは
    九条を,下らんポエムとみなして唾棄廢棄する安倍を
    囃したてるわ喝采するわバンザイするわ
    あうふへーべん,,もしくわ戰後レジームの脱却というらしいリセットはもうすぐだw

    わるくない。
    ネトウヨ,安倍親衛隊は
    いやでもマジメに,メンドクサいこと考えなくちゃならなくなる
    武裝武器のことを,徴兵制のこと
    國防軍を持つ,ということは,
    今までやらずに積んできたもろもろの法律の一切,細則をつめていかなければならなくなる

    近代國家というのは,そういうものにずいぶんと手間をかけることを,

    前世紀の前半にすべて終えていての,そのうえでの戰爭参加である
    敗戰と同時に消去されたそれらをリセットして一からダウンロードだ
    軍事法廷,まで檢討していかなきゃいけない,事のタイヘンさ。
    しかも,見るからにアタマの惡い最高指揮官は,心の中では,アナキスト
    かつ,ムセキニン,のアラート野郎だ
    どんな恥をも恬淡として恥じない毒キノコ野郎だ

    うしなってはじめて,九条は,案外べんりなものだったことがわかるかいw

    ならば むしろわるくない。
    わかる,とはいいことだ
    ・・・・。
    ・・・・・。
    ・・。・・。・・。

    などとはいってられない
    持ち上がってくる問題はすべてコクナンだっ
    カネもない借金がある,カブ価は高いがブン化がない
    メンドクサイっコクナンは不逞××人と非××民とのせいだっ

    結局内省しないやつ
    内に向って疎外排外,
    外に向って國防國益國権コッケンコッカコッケコッカコッケノコクタイゴジ
    こいつらが内省しなくてすむのは
    無數のマヌケな國柱がいるからだ
    無數のマヌケな護國の小鬼がいるからだw

    鬼が島へいこうっ

    此處を,この地を,この 此“國” を。
    此地!此處だろう?ここを變えるしかないぢゃないか
    よそへ,では何も解決しないのは歴史が證明している
    無數に無生還,を,無歸還を,殘留孤兒をつくっただけだ

    ジンケンのソンチョウケンポウカイセイ、憲法おわりのはじまりすなわち正是カイ憲

    ラブ&ピースのハトポッポのねんぶつとなえて満足してきたりべらるも,
    ラブ&ピースのハトポッポをあざけるだけで快感得てきたねとうよも
    ことはすまない
    ねとうよも
    國柱だ
    君、死に給うことなかれの弟も,
    アメニモマケズの玄米喰らいも
    ざまあみろ
    そうわらっていいきることができないのはなぜかw
    わたしの笑いはいま,ひきつっているのであるが

    人權と自由の證券が,赤紙に變わったときが
    ああコクナン,だ

    國柱かコッケ經の二者擇一だ

    あなたは
    ブツブツと念ブツ唱える側か?
    それとも
    死して,護國の鬼となる側か?
    だまってブツブツとなえられて祀られるのか??

    そこまでかんがえるわたしはキチガイか?


    九条は,ふう,ぜん,の,ともしび,

    つまり,あとひと吹きの風で消え

    あとには
    無明の海だ,
    無明とは。
    黯。瘖。
    つまりは
    昏。冥。

    無,理解の,無,論理の,無,理性の海にほおりだされるキ分 氣氛

    醒來也是也不好,昏天黒地未沒入。


    地球の中にもう一つ私の地球がある
        小熊秀雄

    私は地獄に陥ちたのだと
    人々に噂されてゐる
    ほんとうだ私は救ひ難い奴だ、
    救ひ難いところへもグングンと這入りこむ
    私は亂暴で,奇怪な、感情をもつてゐる
    私はそしてあらあらしい風のやうな呼吸をする。
    だが,さまよふ私の心は誰も知らない
    私は野原を行くが,
    自然の野の中に、もうひとつ私の野をもつてゐる,
    私は町をあるくが,
    人々の町の外に,もうひとつ私の町をもつてゐる,
    あゝ,地球の中にもうひとつの私の地球をもつてゐる,
    人々は私の孤獨を,私の地獄と呼んでゐる
    近よりがたい敬遠と
    引き離された距離に私は立つてゐる,
    人々は私を惡魔のやうに嫌がる
    地球の中に地球がある,
    人々の愛の中にではなく,
    人々の愛の外に,私の愛がある,




    外へ,外へ,外へ,外へ,外へ,ただわけもなく押しやられる

    おしつけられた憲法とともに押しやられるのはだれか?
    それはわたし,だ

    テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

    瞿秋白『赤都心史』《秋意―題畫贈林德女士》,《皓月―題畫贈蘇韮亞・托爾斯泰(ソフィア・トルストイ)女士》

    人間の腕が枕木の下で形を變へる。 それは樹を離れる一葉の
    朽葉より無雜作である



           ―― 《壊滅の鐡道》 北川冬彦 『戰爭』(1929)



    瞿秋白がはじめて晨報の特派員としてモスクワに到着してすぐのころ。
    丁度,ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキンが逝去した。1921年2月8日のことである

    レーニン勞農政府はこの無政府主義者を追悼した・・・?か,

    そこは何とも。
    瞿秋白の『赤都心史』を讀む限りでは
    もうひとつよくわからない,がそれはこの頁ではカンケイないハナシ

    その葬儀を取材中知り合ったクロポトキンの親戚,という
    林德(Линд,おそらくリンドーでいいのだろう)女士,に贈った詩。
    題畫・・・・,とあるので畫をかいて贈りその畫にしたためた詩,ということか。
    新體詩のスタイルだが,
    音をみると。
    詞牌を想起させる詞,とわたしはおもった
    嫋嫋の,蕭條の詩韵
    脚韻は 中原音韻,
      響,光,丈,攘  (江陽韻)。地,翳,秘  (齊微韻)
    瞿秋白らしい,w瞿秋白語彙がならぶ結二句は。
    プーシキン詩を連想させる。

    青年瞿秋白,張太雷を介してロシアで共産黨に入黨するまえの。
    秋白的秋意。

    この『赤都心史』には,
    強靭なボルシェビキ,一個の頭脳勞働者として鍛錬される前の,
    瞿秋白の書香世家的,忞忞の質,文人的結習の克服できぬ苦惱。
    色濃く殘されてある作詞人としての頽唐的氣息が,
    トルストイ,クロポトキン,という19世紀的舊 "文"人,
    その血の係累の女性と知り合うことで発露された
    いわば
    ――なまなましい “文”情 への思慕,拘泥,未練
    それが
    みえるキがするw
    瞿秋白の獄中言志(詩),曲牌《卜算子》 “一任風和雨”
    と共通する詩情が,かんじられるものの・・・・

    月,に孤獨をみ,光華萬丈,萬籟中の靜寂
    常州詩人らしく,
    さらに “龔迷”(龔自珍ミーハー) だった瞿秋白らしい詩句だw

    Haoyue.jpg

    《秋意―題畫贈林德女士》



              秋意     Qiū yì

           萬樹森疏,   Wàn shù sēn shū, ,
           西風又緊,   xīfēng yòu jǐn
     擁落葉如潮做奇響。   yōng luòyè rú cháo zuò qí xiǎng.

    獨那月亮兒靜悄悄地。   Dú nà yuèliàng er jìng qiāoqiāo de
       萬籟中自放靈光。   Wànlài zhōng zì fàng língguāng.

       雖有些纖雲薄翳,   Suī yǒuxiē xiān yún báo yì,
       原不礙, 原不礙。   yuán bù ài, yuán bù ài.

    他那果毅沈潛的活力,   Tā nà guǒ yì chénqián de huólì,
             待些須,   dài xiē xū,
       依舊是光華萬丈。   yījiù shì guānghuá wànzhàng.

       滲透了, 滲透了,   Shèntòule, shèntòule,
         那宇宙的奧秘。    nà yǔzhòu de àomì.  
       一任他秋意蕭蕭,   Yīrèn tā qiū yì xiāoxiāo,
            秋雲黯黯,   qiū yún àn àn.
    我只笑,笑君空擾攘。   Wǒ zhǐxiào, xiào jūn kōng rǎorǎng.



      萬樹,森疏,
      西風は,又,緊り,
      落葉を擁いて潮さいのごとく響きたて奇なり。
      獨り月亮のみ,靜かに悄悄として,萬籟の中,自ら靈光を放つ。

      わずかに, 纖雲の薄き翳あるといえども,
      原(もとより),礙(さまたげる)ものなし。 原(そもそも),礙(きず)なし

      かれは,なんという,果毅。沈潛の活力あり,
      須べからく,すべきなし,須臾些か待てるは,かわらぬ萬丈の光華。

      滲み透ける,すでに,しみとおってある,
      宇宙の奧秘。
      一任す,秋意,その蕭蕭に,
      (しかし)
      秋の雲は黯黯と。
      我は只笑う。笑う,君を。空,擾攘たり。




    萬樹森疏,この語はニホンゴにはできない,わたしにはムリ。
    森疏=亦作"森疎 樹木の葉が枝に繁茂するようす,
              扶疏のこと,高低に疎密ある枝葉の繁茂するようす
              出典は陶潜(陶淵明)
    月亮兒=月の明るさ。兒がつくことによって,お月さん,月,のこととなる
    繊雲=小片的雲朵
              秦觀の超有名な詞牌《鵲橋仙》,
     “纖雲弄巧,飛星傳恨,銀漢迢迢暗渡”
    中國人は繊雲といえば,まずこれ。巧を弄して,綺なり絢なる雲の表情

    萬籟=衆籟ともいう。日本語の辭典特に「風に吹かれて」という説明は?不可解
          全く必要ない,ただ,萬物がたてる音,
    果毅=日本でも使われることば,(かき)とイミはとくに違わない
    擾攘= 紛亂,擾亂



    意譯,我流につき間違いはご指摘ご教示ください



    こちらは,レフ・トルストイの孫娘ソフィアに贈った詩。

    瞿秋白《皓月―題畫贈蘇韮亞托爾斯泰女士》SenunnYue-.jpg

     
    《皓月》

    ―題畫贈蘇韮亞托爾斯泰女士


     皓月落滄海    hào yuè luò cāng hǎi
     碎影搖萬裡    suì yǐng yáo wàn lǐ
     生理亦如斯    shēng lǐ yì rú sī
     浩波欲無際    hào bō yù wú jì

     皓月の,滄海に落ちるとき
     碎ける影,萬裡に揺れる
     生の理,とはまたかくこのごとし
     浩き波,きわまりなき際にいたらんとす



    モスクワ滯在中,交流のあったソフィアに招待されて,トルストイの居宅のあった

    “淸田村”
     ―かの有名な―  “ヤースナヤ・ポリャーナ (Yasnaya Polyana,
    Ясная Поляна雅斯納亞波梁納(亞斯納亞-博利爾納莊園)”

    にむかう。

    その“淸田村”滯在中,ソフィアに贈った題畫詩。
    皓 hào,浩 hào 
    ま白く皦い月光に,浩波,浩蕩無邊のかそけき心中,がよく表現されている
    妙絕の絶句。

    白き月亮の光煌が皦い波によって碎け消え,また生じる
    生の理(ことわり)も,かくのごとく
    如斯,この rú sī
    shēnglǐ, yì, rú sīこのつらなりの美しさもあいまって。
    おそらくは,ソフィア,瞿秋白に中國語で吟じることをもとめたろう,
    對して,常州話で朗誦したであろうこと,想像するにつけ
    絶句詩,の聲音がいかに重要,緊嚴の作用をおよぼすか

    それを想う,絶句とはまさにそういうものであるが

    瞿秋白の『赤都心史』中にみえる
    《清田村遊記》 
    一進宅門,前室中就見五六架書樹,再轉往東有一小過進一間就是書房,滿架書籍。,卻是幾個中國字——原來是芝加哥(=Chicago)版的英漢對照本老子的『道德經』・・・・
     

    なにもかも。
    憂さを晴らすには舊體詩がいちばん。
    だw
                                 つづく

    關連記事 ☞ 瞿秋白〔9〕 形單影雙,孤苦畸零 1918年-1919年 『餓郷紀程』四 翻天巨浪,搖盪中國

    Tanyasukhotina.jpg



    余語

    モンダイはどこにあるか?
    いったいぜんたい
    日本の り べ ら る は なぜ  ミヤザワケンジが好きか?

    あの男こそ,プロレットカルトの敵だっ!
    とおもっているわたしは

    ミヤザワケンジ

    といわれるとどうも条件反射的にカトウカンジをれんそうしてしまうのでねw
    反射する条件は精神主義,農本主義,ユートピア幻想だ

    ミヤザワケンジとかけてカトウ・イシハラだぶるカンジ(完治、莞爾)と解く
    こたえは
    王道樂土建設だっ,
    滿蒙開拓靑少年義勇軍だっ
    犬死させられた有為の若者たちだっ

    八紘一宇と愛國の,ヤマト魂注入せられ,
    「五族共和」すなわち「皇國+戎夷狄蠻」 的満蒙領有だ。 
    そもそもが優生思想とシオニズム,排除と隔離,によって,はじめて成り立つ
    「ユートピア」
    意圖せられ,覺醒させないために,ねりあげられた御伽噺だ。

    そしてそもそも
    トルストイ的無政府主義も,アンチボナパルティズムも。
    なぜ
    二十世紀初頭に理性と資本の大地ヨーロッパで,うけいれられなかったjか?
    それは,まさにこの,没落貴族のユートピアの古さにある,ということだw

    だからアカが出てきたんぢゃないかw

    にほんのりべらるもどきはそこが論理的に時系列的にもわかってないが,
    そーはゆっても,論理的に時系列的にもわかってなくても,なんとなく,アカを,生理的にキラうのは
    そーゆーわけ
    これを 生“理” 的,とゆうのかはしらんがね
    (すくなくとも瞿秋白いうところのshēng lǐ 的ではないw)

    このブログは
    こーゆーヘリクツの回路がデキあがってるアカ,ナニカが決定的にたりない,何かがよけいに足りすぎているアカい,腦ミソ,が書いてるブログだっ
    ということを,必要十分的によくよく認識してから讀んでほしいのダ,

    ましてやコメントを書くときには,このアカには,りべらーるな言葉はいっさい通じない
    ということをあらかじめ予測してコメントも書いてほしい。

    そーいえばwすこし前にコメントで
    「ミヤザワケンジは國柱會」,
    と書いて疑問を呈してたヒトいたっけな。

    その人は,理性と認識の見事な整理と捉え直し,据え直しをやてのけたカント哲學の,學徒だった
    その人の書く文面には,理性とは何か,ということをシツヨウに追い求めた痕跡が,ありありとある,というw
    これはたまたまなのか?

    違う,
    これをこういう現象を理のトー然というんのンであるw


    どーでもいいんだが
    だいたい,

      雨ニモ負ケズ,風ニモ負ケズっ

    てなんだよw

    わたしの感性は,これを詩とわ,よばないのである,
    ぜったいによばないのである
    なぜなら詩人とわそもそも風とも雨とも闘う必要がないイキモノだからだ,
    詩人がたたかってどーするw

    わたしの理性は,これを散文とも,よばないのである,
    なぜなら勝ち負けの對象としての雨や風は,ありえないからだw
    あたりまえだ,引き分けに持ち込むことさえ,不可。だ

    そして
    わたしの想思は,これを「言志」とわ,いはないのである

    なぜなら,言志とはナニカにナリタイ,というひとがナニカになった時,はじめて口にするべきものだからである

    ナニカにナリタイ志というものは,胸に秘めていてこそココロザシだw
    それを詩詞にして,どーする,
    とゆう


    「敢て,言う」,という,ことばの “力” を重くかんがえなければ,
    “言志” ,とはなにか,わからないものだが,
    あえて,いうなれば 
    詩の “性霊” とはなにか?
    という根本的,根源的問題,らぢかる,なモンダイだっ
    (つまりこのことは何も中國詩に限ったモンダイではないっということだ,詩歌の普遍的力量のハナシだ)

    どーでもいー,へ理屈こねてるばわいぢゃないな

    憲法九条の夭折,論理のゴ臨終に立ちあわねばならないこれから。
    わたしは思い想いあえていはんとす,

    ヘイワを希求したココロ,その心が日本の大地に “芽生え”
    草志となるにいたったか
    その最初の

    動機,論理,言質,文責

    これを,後世に引き継いで,つたえていく責務がある
    ということだ,

    なぜなら九条にはそう書いてあるんだから

    竭盡全力以達到這一崇高的理想和目的。
    と。
    日本は嫌い,,であるものの,,ヒコクミンと言われはするものの,,
    これはまもらなければいかん。

    なぜならわたしはニホン,人,民だからだ,日本に住まう生きる,人であり民だからだ

    これを論理性というのである
    憲法九条も
    論理が製造した,論理製憲法だ,
    なぜか産地は日本だがね,
    つくったヤツは,
    ガイコクジンとヒコクミンだったw

    そういう自繩自縛,に縛されつづけるのも,もうすぐおわる,ということか?

    呵呵大笑

     ウロボロス
     ヘビがおのれのシッポを喰らい盡くす


    旦夕に迫った平和憲法の終わりの始まり。
    忉怛するしかないのである
    わたしは
    ゴリッパな平和主義者になってユートピアを夢に見て,
    ポエムに酔いしれメルヘンが讀みたいわけっぢゃ。

    ないっ

    「おとぎばなし」のタネはつきぬ
    ――タンポポの種のように――

    なぜなら,ニホン,において
    アメニモマケズ精神主義とメルヘンはw
    國柱會とセットになって無數に増産されつづけるからである

    だからわたしは,
    にほんには,りべらる,と,ねとうよ,しかいないのか?
    といっている

    わたしは吐きケがするのである

    ここは・・・・
    アカいデジャブ人のわたしは
    北川冬彦にみ倣ひて,敢えて做して敢てかくいはん
     
     
     だいやもんどの義眼の中にゆーとぴあが映つてゐたとて,何にならう。
     苔の生えた肋骨に精神主義を注入するとて,それが何にならう。

     腸詰をぶら下げた巨大なオトギバナシを粉碎しなければならぬ。
     腸詰をぶら下げた巨大なオトギバナシは粉碎しなければならぬ。
     その骨灰を掌の上でタンポポのやうに吹き飛ばすのは,
     いつの日であらう。 


    キョーレツだなw北川冬彦はw
    ソコで一首


     口號

     敢做敢爲要粉碎    Gǎn zuò gǎn wèi yào fēn suì
     醒來覺也是不錯!   Xǐng lái jué yě shì bù cuò!
     何事九条御臨終    Hé shì jiǔ tiáo yù lín zhōng
     原地論理此地作    yuán dì lùn lǐcǐ dì zuò



    解;原地論理此地作

    日本國憲法が,われわれ草民を縛ってる部分,唯一の部分,たった一つの課。
    帝國の軍國主義を“架”に磔 し,皇國の選民思想に “枷” をはめた憲法九条は,
    しかし,
    われわれには, “果” たされねばならぬ, “課” されしもの,として,も,存在する

    この,“果” ,實,としなければならない,
    課,
    これこそが,
    他,に,敗れただけのアンシャンレジームを,
    此,の,日本人が自らの手で破らなければならない,日本の戰後レジームの中にあって,殘されつづけている
    課,題。
    であった。
    それは,もちろん, “武” の信奉者によってではない,
    “文”化 ,によるのであるべきであり
    そしてなにより,それが
    艸 “化”
    であり。
    畢竟
    國産の果實を生むものでなければ,ならないということだが。

    敗戰をイミのないものにしてはいけないし,それでは,
    “ニホンジンにとってだけ悲慘な敗戰” ――此地の敗戰は,他地他生にあっては,福音であり復活であった――
    も,また,永續wしつづけてしまう,
    敗戰させつづけてしまうのである,次の戰爭をはじめるまで。
    ということになるだろう,


    九条がたとえ,粉碎されたとしても。
    それでもだ,責務は殘る。債務は霧散していようとも
    責務は
    “花” は,萎れても,果の結實がある,というものだ
    たとえ
    落花の時季を迎えるとも
    大地に碾瀝されて泥塵芥となり 來春に又,花開,せんとする

    零落成泥碾作塵”
    物化,また,化作,つまりは生の “ことわり” である,という,
    これもまた
    理。
    これはメルヘンでは,ない。ファンタジーのお花畑ではない。
    だんじてない。

    また,いう
    落花不是無情物, 化作春泥更護花―― 龔自珍

    理,も,また,不是無情。

    生理亦如斯, 浩波欲無際 ――《皓月》 

    ただ。無際。有道理!

    追;
    『農民藝術概論綱要』 あれね,あれは好きですが
    ついでに書けばホケキョウこそは論理性なき佛典の代表,ホケキョウにもいろいろある,という反論には心動きません。
    道元と正法眼蔵はネトウヨの元祖とおもっていますので
    ブッキョウにもいろいろある,という反論にも心動きません。

    テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

    人人雖各有思想也,即人人無不同此思想也

         腕 

     痩せた細い腕。 ぢつに。 が,悲しむことはない。 腕は分裂するからだ。 針金のような腕に分裂するからだ。 太陽に足の裏を向けることぐらゐはわけはない。 もう嵐なぞ少しも恐れなくていゝのだ。

    眼の中には劍を藏つてゐなければならぬ。 背の上の針鼠には堪えてゐなければならぬ。 太陽には不斷の槍を投げてゐなければならぬ。

    腕は泥の中から生えてゐるのだ。


    『戰爭』(昭和四年十月刊行



     

    壊滅の鐡道

     軍國の鐡道は凍つた砂漠の中に無數の齒を,釘の生えた
    無數の齒を植ゑつけて行つた。 突然, 一かたまりの街が出現
    する,潅木一本ない鳥一匹飛ばないこの凍てついた灰色の砂漠
    に。 芋蟲のような軋道敷設列車をめぐつて,街の構成要素が
    一つ一つ集つてくる。例へば,脚の既に冷却した賣淫婦。
     一連の列車の中の牢固とした階級のバリアシヨン。
     軌道は人間をいためることによつてのみ完成される。
     人間の腕が枕木の下で形を變へる。 それは樹を離れる一葉の
    朽葉より無雜作である。
     軌道の完成は町の消滅である。 忽ち,一群人間は散つて了ふ。
     砂漠は砂漠を囘復する。 一本の星にとどく傷痕を殘して軍閥は
    やがてこの一本の傷痕を擦り減らしながら腕を延ばすのである。

     沒落へ。



                         『戰爭』(昭和四年十月刊行




    Libérer le Septième Sceau ――第七の封印を解く

    封印が解かれるだけなんだがね
    2017年10月22日

    Libérer も,また,りべらるだw

    われわれのミンシュシュギが,第九条の封印を,解くのである

    ミンシュシュギと,自由主義の撞着がここに象徴されてあるぢゃないか

    衆愚とは,いや,戰爭とは,
    放恣 “libre”  のカンタンさによって
    カンタンに 解放 “Libération” されることからはじまる。

    ナニゴトもカンタンに解放などされてはいけないのである
    という,人類のかかえていた,難題であるが。

    古來,法典とは,野蠻から文明へと進むために,ととのえられてきた
    自由の意,その矛盾おおき

    “自由 Liberté”

    そのムズカしさ,とはここにあり。だ




    革命者,由野蠻而進文明者也

     革命とは,
     この世が,「野蠻」から,「文明」,へと進むことだ

    革命者,除奴隸而為主人者也
     
     革命とは,
     この世から,「奴隸」をなくし,
     この世を,「主,人」ばかり,住むところととなすことだ




    この文章を書いて世に問うた二十歳の若者は,
    翌年,――革命が起こる五年前に――監獄で,あたら夭夭の命を落とすことになる



    是故一人一思想也,十人十思想也,
    百千萬人,百千万思想也,
    億兆京垓人,億兆京垓思想也。


     それゆえに一人は一思想を體現す,十人に十の思想あり,
     百千萬人に,百千万の思想あり,
     億兆京垓人といえ,億兆京垓の思想あるのだ!



    ジツは,これにはつづきがあって
    あらためて,キを取り直してから,書こうと思っていた。

      あんがいはやく,キを取り直したw
       “彼” ,
      彼は,いつも,いい言葉を,
      よき,熱き,イキのいい,生きた言葉をなげつけてくれる
      うれしくなるような,心躍らせる言葉を・・・
      今回は・・・・
      救われたw,
      馬より速く驅け出してしまう革命軍馬の前卒,だ
      彼,
      奥田愛基のことだがw


    鄒威丹も,
    若いだけに非常に荒っぽい。粗い言葉づかいがおおいがわかりやすい

    “億兆京垓思想” とはずいぶん大きく出たもんだが

    しかし,つづけた言葉は,非常に奥深い,
    言葉づかいが,ではなく,その “意” がということ。

    わたしに, “同” ,と “共” ,の意味を,はっきりとわからせてくれたのは鄒容だった。

    たくみな,老獪の言葉でなく,命のこもった言葉だ,
    世が世なら
    かれもあるいは
    ラッパーだったろうw


    人人雖各有思想也,即人人無不同此思想也。

     人人にはそれぞれに,思想有りといえども,しかし
     人人には,
     “同” じくせずにはおられない思い想い,そういう
     ――“意”――というものがあるものなんだ



    これが,まさに “自由” であり, “解放” であり, “Libre” 。
    もちろん
    大 “同” と “共” 生のいみである,ことはいうまでもない
    中國の大同思想を言いつくした至言である。
    ・・・・。
    たぶん,
    そう?,
    とおもわれるだろうがw。

     “一” とは, “全” ではあるが “同” ではないことをいい
      “同ず” ,とは,「同じでなくする」 “意” を持つ “一” 個の,一起,一集である

    ということである。

    この, “全” ,を億兆京垓,という言葉でわからせてくれたのが,鄒容だ

    わたしはついさっきまで
    こんなことをかんがえていた,
    “色” に染まること,

    “同” じくする,
    という言葉の, “意” のちがいをわかろうとしない,ニホンジンなら
    なにも “興” すことはない、 “起” こす必要もない
    “一起” する必要があろうか?

    相變わらずのドウチョウアツリョクが作り上げた同 “色” の,本土列島に,
    羣れて,住まうだけの,生きるだけの,いきていない,イケてない
    のっぺらぼうの
    ムカンシン。



    しかし。

    選擧

    選擧と言う時間は,空間は,一斎に,斎(ひと)しく “同” じ向きに向かい
    “異” をしめす,そのための,
    ただそのための,
    “異” なる,意の,會同,集會である,

    それは一部の特權ではなく,萬民のもつ權であり,利であり,,
    一部の恣意きまぐれ,ではなく,萬民のやるべきこと,義,務め,である。

    そうして,
    斎(ひと)しく,つどうた, “億兆京垓” の “意” が
    均(ひと)しき平らかしき,等(ひと)しく作爲,

    これが, “同” ず,おなじくす,である


    九条こそあとわずかな命であるが。

    それでもおもう,新宿に “集” まって,“會” 同した若者がいるかぎり,
    “會” は,

    まだ,ありつづける。

    それを望ず,希む。

    “睎”

    それだけでも,それでも。

    百十年前に鄒威丹は政權に,あっさり殺されたがw
    “會” 前に集うていた馬前の卒は,相變わらず,イキがいい

    われわれは,いまだ,

    彼を,カンタンにコロすことなどはできない,
    彼の精神が,容易にすりつぶされることなど,ない。

    そういう社會に棲んでいる,われわれは。ということだ,
    未だ。今は。

    このことを,よきことと,おもわずに,なにを,想う?

    センキョもまた,集まること。

    社會の會同
    である

    彼らの,新しい社 “會” 主義。


    古代中國の,會同の古義を。
    古代ローマの,廣場を。
    おもいおこさせる,想 “起” させてくれる

    demokratiを
    想わせる

    demos
    そのすがたかたちをおもいださせてくれる

    かたちあるものはすべて, “意” ,をもってはじめて,
    “形” どられ, “色” づけされる

    これもまた有道理。


    ミンシュシュギってなんだっっ
    これだっ

    デモってなんだ?
    これだっ

    デモってなんだ?
    dēmos,だっ

    ミンシュシュギってなんだっ
    dēmos kratos, だっ

    デモってなんだっ?
    これだっ

    デモって,なんだっ?
    dēmos,だっ

    dēmosって,そもそもなんだっ?
    人間のっ ことだっっ


    集會。



    センキョいけ。コラっ。。。

    ・・・・・。

    カンタンなことぢゃないか

    テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

    夭折ノ憲法 “國政源於國民的嚴肅信託,其權威來自國民”

    第七日目になにがおこったか?

    l'ouverture des sept sceaux


    神は休みました。

    わたしは,神の存在など,毫も…カミのケ一本ほども信じていないがw
    あと一週間。

    あと一週間で,

    殀歿の道,おわりのはじまりだw

    人類が地球上に持ちえた中でも,かくべつに美しい理想。崇高なる××九×は

    離背され,放棄される,
    此れから,
    瀆されていく,
    穢されていく

    そうゆう時間がはじまる,これを
    あうふへーべん
    というらしいw

    ずいぶん早世だなw 

    せめてあと七日間を
    だいじに生きようぢゃないかw

    ばうむくーへん
    でも喰らいながら

    くだらん年輪だ
     

    第二章、放棄戰爭
    第九條

    日本國民衷心謀求基於正義與秩序的國際和平,
    永遠放棄以國權發動的戰爭,
    武力威脅或武力行使作為解決國際爭端的手段。

    為達到前項目的,不保持陸海空軍及其他戰爭力量,
    不承認國家的交戰權。




    人類が地球上に持ちえた中でも,かくべつに美しい理想。崇高なる××九×は
    ニ十世紀に初頭より,領有で,併合で,十五年戰爭で,大東亞戰爭で,
    現人神ヒロヒトの名において,皇國の, “自衛” と,繁榮のために
    無數に殺戮された
    環太平洋アジアのひとびとの,
    血。
    恨み。

    凝らせた碧玉だ

    オキナワの犠牲,ヒロシマ,ナガサキの地獄から呻きだされた渇えのつぶやきと,
    そして
    祈り,

    その上に日本人の祖地において,ようよう,成就,
    爲されし,作られし,創生せられしw
    ――自ら練り上げた,とはかならずしもいえないものの
    ――おしつけられたといわれることはありはするものの,
    それは日本人にして,成し得た,唯一の血償血債

    だったはず

    人間浩劫のはてに,われわれの “國” にとどけられた,
    GIFT
    である

    これをそこない,ただの,幾十文字か,に,してしまおうというヤカラ

    文明への冒瀆だ

    そういう時間の,はじまりをむかえることになる。

    あいつらは “自由” になる
    フリーハンドで,バケモノが

    “多數”
    とかいう強者の一方

    もう一つの

    “多數”
    ともいう弱者の一方

    踏み躙る

    こんなミンシュシュギをごしょうだいじにまもってきたのは,

    だれだ?

      鯨 

       巨大な鯨を浮かべると,海峡は一瞬ののち
       壊滅されて了つた。

       無辜の海峡。

       いな。いな。正された方向の方向。

       惡はすでに巨大な鯨を浮かべたところにあるのだ。
     
       海峡への思ひ出,これも立派な惡の所業也。


     巨大であること,それは凡て惡である。惡にほかならん!


                      『戰 爭』(昭和四年十月刊行)


          『戰 爭』(昭和四年十月刊行)北川冬彦




    軍國主義を磔にした十字の枷に,加えを計る
    矛盾のゾンビ,が高笑いする,

    たかだかw
    三代前の,ゾンビぢゃないか
    ロメロほどにもこわくもない盆踊りゾンビだ

    前言

    ・・・・・・
    消除因政府的行為而再次發生的戰禍,茲宣布主權屬於國民,並制定本憲法。
    ・・・・・・
    國政源於國民的嚴肅信託,其權威來自國民,

    日本國民期望持久的和平,深知支配,人類相互關係的崇高理想,
    ・・・・・・。

    我們希望,努力維護和平,從地球上永遠消滅專制與隸屬、
    我們確認,全世界人民都同等具有免於恐怖和貧困並在和平中生存的權利。
    我們相信,・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・
    日本國民誓以國家的名譽,
    竭盡全力以達到這一崇高的理想和目的。




    さあ,聲なき聲,憲法の斷末魔を

    聽いてやろうぢゃないか


    そうすれば
    きっと
    ひややかに見つめることができる。 
    ということだ。

     聲,是誰的?

     時間元來不知今    shí jiān yuán lái bu zhī jīn,
     孤抱獨寢内心森    gū bào dú qǐn nèi xīn sēn,
     借問惜辭言不用    jiè wèn xī cí yán bù yòng
     無者聽何可奈音    wú zhě tīng hé kě nài yīn,  

               20170520


    テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

    A by Aの構圖 またの名を予定調和

    A by A  の 構圖,

    20171015

    あんだぉ
    ねとうよキ種がキ黨に分散して、ジミン票ワレる♪ ざまぁミろぃ

    とおもったら

    りべらるキ種が,ウヨウヨゐたということだたっ
    おまけに。りべらるリ種がどっと去って共産党勢いナシ。
    だってw
    えだのメw

    「どーもニホンにはネトウヨとりべらるしかいないのか」
    フシギにおもっていたら
    「りべらるにはホ種とキ種があること判明しただけのこと」解散だった

    イミないセンキョだワ
    とわゆへ
    日本をおおきくかえてしまうセンキョだとゆーこのおそろしさは
    ・・・・。

    しかもゾンビの解放戰線。
    「ナチスゾンビ」。か

    究竟,このバカバカしさ

    ・・・・。

    「会いに行けるコクナン」とは
    B級ホラーの金字塔
    『死靈の盆踊り』クラスである
    とゆーサイテーさw


    くりかえしになるが。

    ニッポンがコワいw




    20171014

    世界に,まだ,ボルシェビキ黨つまり
    このブログでいうところの,
    また中華民國初頭にいわれたところの,
    洪水怪獸のことだが。
    かれらが現れる前の,

    世界。

    ソヴエト勞農政府ができたのは丁度今日から99年と340日前,
    一九一七年である,
    嚴密に言えばその時ボルシェビキがすでに多數派であった,というわけではない
    單に勞働者,農民(兵士をふくむ)民衆によって,ほぼ,推戴された,臨時政府が樹立された,というだけのことである。

    それより約六年前に,アジアでミンシュシュギ的革命があった,辛亥,とかいわれる一年間があった,
    その時「革命」というようなジタイ,が,デキゴトがおきた,あった,ということは,
    もしもあなたが中國ぎらいであったとしても,おおむねごぞんじだろう。

    そのまえには,異民族征服王朝であったThe Qing Dynasty,大清帝國があって
    辛亥革命はその異民族による専制の王朝を倒し,被征服民族であった漢族の
    民によって,民主民權の政體をもつ,臨時的政權が樹立された,ということである。
    辛亥革命とはいわれるが,
    このカクメイ,これを本來の中華思想が意味する中國語のカクメイであるところの,
    (易姓)革命,とはいわない。
    ややこしいが,
    敢えていうなら,この辛亥の年の「カクメイ」は革命ではなく,「光復」である。
    ・・・・。

    明治維新がなぜ丁卯革命とはいわれないのか,
    といえば,それはカクメイでなかったから,というのはそーとー乱暴なイイグサだがw,
    大政奉還,というナゾめいた,ナニカ,がおこったことは,
    今,時代の區切りとしては,あまりつかわれるいいまわしではない
    明治維新は明治維新,文明開化とほぼ同じ種類のコトバづかいである
    明治維新の年に,といったら,それはいったい西暦何年のことをいってるんだ?といわれてしまう。

    むしろ,戰後レジームなるものがあるとして,アンシャンレジームだったのは一九四五年以前。
    そんな,とらまえかたはわかりやすいだろう,
    しかしこれも,民が,
    ナニか(社會)を革めて,興した,
    ナニカ(命)を革めた結果,起きた,社會,や,國家の變易というわけではない。
    日本は相變わらず,日本である。
    トキとして「 “神”の國 」なる異名をとる「“帝”國」ではなくなったが。
    そしてわれわれは,「“臣” 民」ではくなった。

    ハナシがそれたが,とにかくこの辛亥,かのといのししの年のこの「革命」に至る前

    彼ら,被征服民であった漢族はいったいどうやって新しい思想にフレたのか,
    もしくは
    カブレていったのか,
    というハナシを。すこし。
    (そもそもが世界四大ディアスポラ的な客家出身の孫文らとはまた別のハナシ,ということになる)

    時系列はこんなカンジである
    西暦でいえば,一八九〇年代後半から一九〇〇年代前半。
    そのころに西洋の啓蒙思想,民権思想,自由思想,
    リッケンなり,ミンユシュギなり,デモクラシーなり,は,
    いったいどこで,漢族に,いや,どこから,中國に,つたえられたか,
    といえば。おおむねわが,大日本帝國から傳播されていったのである。

    淸朝が帝國日本に派遣した官僚の子息,や,官費によってやってきた淸國留學生。
    カネ持ちの子弟が兎に角最新の學問を,というわけでカッテにやってきた自費留學生

    そういうヒトビトが, 歸國し,“メデイア” となって,つたえていったのである。
    これも一種の…
    今朝のわたしの書き方でいえば,「作為」であるがw

    メディア,つまり,媒 “體” ,であるが,その “體” であったかれら,媒質も,「サクイ」を爲した。

    サクイがあった,ということであるが,またそれを別の言葉でいえば
    意志,もしくは單に,意,といったり,志,といったりするのかもしれないが,
    作為をなした。

    ここでっわたしがとくにいいたいのは,このかれら媒質,によるサクイを
    受けとる受け手はどんなヒトビトたったか,
    ということを,ぜひ想像してもらいいたい,ということ。

    つまり,當時の中國大陸,そこには “リベラル” がいなかった,という時代,
    民はあれども,民意はなかった,といっていいかもしれない時代,である。
    社會はもちろんあったが。社會思想はなかった,ということである

    もしくは,こうした媒質の使命を,いや屬性を持った彼ら留學生がやってきた先の,
    日本という帝國には當時
    どんな思想なり,言論がはびこっていたか,ということだが。

    みなそれぞれニホンジン描くところの大正デモクラシーの前の時代である

    大正デモクラシーというのはハナハダテキトーな言葉なので,その言葉をもってしてふつーにどんな日本を想像しうるのかまではわたしにはよくわからないのだが
    さらにそのまえの時代,だ,といったらw
    ニホンジンプロパーがどういう時代を想像するか,まったくそれこそけんとうもつかない。
    が,とにかく。

    そのころニホンの言論界,思想が醸成されていく界隈で一番,急進的,革新的であったのは
    もちろん幸徳秋水や,若きころの大杉榮といった面面であって,山川均,も,そのひとりといえる

    幸徳秋水も,大杉榮もアカであったことは,嚴密に言えばいちどもなく,
    山川均はアカ,だがw

    吉野作造はこのころまだ,帝大を出るか出ないか,といった時代である。
    と,ここまで書くと

    たぶんこれを讀んだあなたがおもうこと,は,
    (とりわけ今日の朝日を讀んでた人は・・・・ははぁ,しょーこりもなくまた玄はりべらる批判を,と わかってしまうのだろうがw)


      いったい,こいつは何だってそんなにも,ヒト,を,
      りべらるとか,ホ種とか,アカ,とか,きめつける,
      人というのはそんなに單純なものではない,
      その時たまたまどういう思想もて信条をひょーぼーしていたから
      といって,アカとか,なんとか
      キメツケるなよ

    おおむねそういうことだと思う。
    そして
    しかしわたしは.キメツケてるけど,
    時系列をかんがえて,まわりを考えて,そのときどんな社會,思想の
    デンパや流布があって,ということを加味して,
    どちらがその時点においてよりナニナニだったか,ということを考えているだけだ,
    もしくは,わたしの腦内をわかりやすく説明するために「キメつけ」ているだけだ,ということも書いておきたい。
    ちなみに。
    幸徳秋水はこのときアカ,ではない,というとき,このきめつけ,
    これはぜったいにまちがっていないw,
    ということは,彼の死んだ時期を確認していただければわたしのキメツケもご納得いただけると思うがw

    そう,このころ,つまり,まだ,アカがまだいない時代,のニッポン。

    急進派はアナキスト,とか,社会主義者,とかトルストイ的無政府主義,とか言われていた時代。
    そこでは,そういうよのなかに,
    リベラル,リブル,自由思想とはどんなものだったかということを書いてみたいのだ。

    端的に,
    「革命」,と「自由」,について,あるいは,特殊な「コミューン」や「リブル」について
    最もよくつたえ得るだろうと思われ,しかもわかりやすい一文がある
     


    革命哉!革命哉!我同胞中,老年、中年、壯年、少年、幼年、
    無量男女其有言革命而實行革命者乎?
    我同胞其欲相存相養相生活於革命也。
    吾今大聲疾呼,以宣布革命之旨於天下。


     我が同胞の,老年、中年、壯年、少年、幼年、無量數の男女らすべてが,
     其の命を革めんとすること,それこそ,それをしも革命者
     というべし。
     我が同胞よ,互いに,存在をあい容れ,相い養い,共生し,
     活きるそれ「革命」のなかにおいてこそ,得るべしと
     わたしはだから,革命の旨を天下に宣布して,
     大音聲にて呼びかけよう。
     疾(と)く呼ばわん!


    革命者,天演之公例也;革命者,世界之公理也;革命者,
    爭存爭亡過渡時代之要義也;革命者,順乎天而應乎人者也;
    革命者;去腐敗而存良善者也;革命者,由野蠻而進文明者也;
    革命者,除奴隸而為主人者也。
    是故一人一思想也,十人十思想也,
    百千萬人,百千万思想也,億兆京垓人,億兆京垓思想也。


     革命とは,世の中の進歩する公例である。革命とは,世界の公理である。
     革命とは,存亡を爭う過渡の時代に義としてもちいるべきである。
     革命とは,天に應じしたがう人のことだ。
     革命とは,腐敗を,とり良善を,殘すのだ。
     革命とは,野蠻から文明へ,革命とは,人を奴隸から主體となすものだ。
     それゆえ一人は一思想を體現す,十人に十の思想あり,百千萬人に,
     百千万の思想あり,億兆京垓人といえ,億兆京垓S思想あるものだ!



    居處也,飲食也,衣服也,器具也,若善也,若不善也,
    若美也,若不美也,
    皆莫不深潛默運,盤旋於胸中,角觸於腦中;
    而辨別其孰善也,孰不善也,孰美也,孰不美也,善而存之,
    不善而去之,美而存之,不美而去之,
    而此去存之一微識,
    即革命之旨所出也。夫此猶指事物而言之也。


     居るべきところで,飲み食らい,衣服を着け,器や道具についても,
     それは善いか,若れは善くないか,美しいものか,美しくないものか
     皆,深く潛めて默って物事を動かしている。
     胸中においてうずまくもの,腦中において触れひびいてくるものを,
     これは善いか,善くないか,美しいか,美しくないか,
     それぞれが分別する。
     善くそしてあるべき必要なものか,善くないすてさるべきものか,
     美しく存ってよきもの,美しくなくすてさりたいものか,
     これ,此のすてるか存すべきか,
     という一つの微妙な認識,
     ここから革命の意志も主旨もうまれてくる。

     その比較については,事物をさしていうものもあるが,
     さらにこれについて言うならば。


    試放眼縱觀,上下古今,宗教道德,政治學術,
    一視一課之微物,皆莫不數經革命之掏攬過昨日,今日,
    以像現現象於此也。
    夫加是也,革命固如是平常者也。
    雖然,亦有非常者在焉。聞,之,


     試しに視野を縱に觀てみる,上下古今,宗教道德,政治學術,
     一つひとつ視るものすべて一個の微なるものが,
     皆,數えきれぬほどの 
     淘汰と攬別をされてきている,
     命を革めて昨日がすぎ,今日がある。
     そういうふうにあらゆる,現象に,像をあらわすこと,
     此れが革命である。
     そして加えて是のように,
     革命とは,固(もと)より是(これ)を,平常のこととも,みなす
     如是(このごとくせよ),と。
     そういうものだ。
     しかしながら,亦また非常であるということもできよう。聞けば・・・・・




    一千六百八十八年,英國立革命,
    一千七百七十五年,美(米)國之革命,
    一千八百七十年,法〈仏)國之革命,※

    為世界,應乎天,而,順乎人,之,革命,
    去,腐敗,而,存,良善,之,革命,
    由,野蠻,而,進,文明,之,革命,
    除,奴隸,而,為,主人,之,革命。
    犧牲個人,以,利天下,
    犧牲貴族,以,利平民,
    使,人人享,其,平等自由,之,幸福。

    甚至風潮所播及,亦相與附流會匯,
    以,同歸於大洋。
    大怪物戰!革命也。
    大寶物哉!革命也。



    ※當然ここに言うのは,ルイ・ブルボン王朝を倒したフランス革命ではなく,
     パリコミューンのこと。
     ジツにこれが最初のプロレタリアート独裁ということだがw
     プロ独裁政権はベツにソ連や中國の専用特許ではない

    パリコミューンのバリケード封鎖



    つまり,ここに,擧げた文章にあらわれた,「革命」とは,易姓革命のことではなく,
    新しい時代に(1904年)にあらわれたあらたなる中國語であるとtころの,《革命》,のこと,それは,じっさいなにか,という,と。
    よんでみればわかるとおもうが

    「啓蒙思想と, idées libérales,による革命」

    その定義,
    ということにもなろうか,とおもう。
    しかし,單純に言って。
    これが, “革命” なのか,といえば
    ?であるがw
    これが
    idées libérales,である,といってもとくに異論はないだろう?
    要するに,

    一人一人がサクイを,爲すしかない,

    ということもまたシンジツのひとつで,
    その作為を各各ひとりひとりに,促していく,そーゆー思想
    おしつけがましいたぐい,だが。

    究竟,ひとりひとり,である
    がw
    つづく



    20171013

    わたしはいま,
    毎朝 まじめに,他にないからしょーがなくて讀んでるアサヒシンブン,をよみ
    どこよりもしょーもないと思いながらそれなりにわらえるヨミウリシンブンを嗤いながらよんでいるんだが

    ビンボー人が月數千円もはたいてわかった二者の互恵関係にもにた日本のジャーナリズムプロパーの底力,その淺いソコは,あたりまえにみてとれる
    行間の含意と報道の微妙な時間差を加味することで,ソートーにリテラシーなるものも鍛えられることがよくわかった。

    おりしも,ふってわいたるアラート總理の,A二乗的コクナン衆院解散。
    ホントいい時期に購讀し始めたなと,
    我ながら
    おいしいところを獲ったったっ♪ 感
    を満喫しているのだがw

    なにしろ面白いのは

    ヨミウリは來るのが遅いので(2時間ほど)
    朝日を隅ずみ目を通してからヨミウリよみはじめるんだがw

    そもそもわたしは,この日本のショータイは,ナニカに?
    と。

    さては,と予想しうるところがあって
    それを確信したく,て,わたしは,りべらるホ種とネトウヨの雄たる二社を,思いついて讀みはじめたんだが
    もちろんサンケイにかんしては極右,つまりそのネトウヨ的属性もまた極ネトであって
    日本のショータイとはいささか乖離したシンブンであり
    アカハタも,
    イマイチ弱ってはいるが彼等はアカなので,その赤属性もりべらるじみてみえるがりべらるではない
    つまりこの二誌は
    日本のショータイをしっかりつかむには・・・役に立たない

    というわけで。

    昨日ヨミウリ新聞は,

     株価最高値2万いくらいくらだぜいっさすがっ
     アベノミクス
     エンジン吹かしたなっ

    てななもんで

    一面の二番目に大きい見出し。
    これは官製相場であるからあたり前。

    衆院選を前に不毛の取引をしている。

    つまりは市場経済をなめてかかっているのであるが。

     (こういうところもアベチャンの安倍ツキーイズムがよく表れているキもするなw)

     (おい,あべはな,ただのトロツキストだぞw,
     (しかも,あいつは無政府主義者らしいぞ,ほんとは )

    と書いて措いて
    この日本市場史上最高的最高値的派手なヤラセは
    AbyA的,國難byコクナン總理によってうながされた
    すくわりんぐA相場だから,

    あたりまえに朝日はシカトする

    ふむ。
    しかし。

    選挙情勢に關する報道は,記事も論評も驚くほど似ているのである

    わたしがここで,これまで紙面レイアウトリテラシーを発揮してえたことをまとめるゆーとw

    取りあえずこんな結果が出たw

    両者の一面がいちぢるしく違うところは明らかに
    何らかのジジツ,ファクト,とも言うらしいが,けっしてTRUTH,とはいわれないような

    リア充なゲンジツプロパーのジタイ,にすぎない,
    つまり,だれかのなにかの作為がたしかにあったデキゴト

    をしらしめる

    両者おおむねかわらないところの文脈には,

    なんと
    ・・・・そこには讀んでヨミトるべきものはナニもない,
    という恐ろしい事實。

    がかくされていたのである

    ふつうはさー,,w
    逆だよなーw

    マトモなジャーナリズム,まともな言論はw

    ふつー両者同じことかいてりゃ,そりゃジジツでしょ,と言うトキ
    それがとりもなおさずサクイ,であり,單なる憶測である。
    つたわるものもなにもなく,世
    間の實體はあまり反映されてないのではなないかに?
    などとおもえるときが多いキがするのダ

    同じことおなじ時に書いてないならそれは書き手の,作為でしょ,というべきトキ
    つまり両者の記者の,それぞれ任意に,ジジツをすみやかに伝えるべきもの以上にをナニか,魂胆があるからでしょ,
    背景もってるからでしょ,心に一物あるからでしょ,
    というべきトキ,に
    それは事實であり,しかも,なんと
    これもまたwサクイによる事實であり,

    なんと!それも何もつたわるコトがない。

    こっちにつたわってくるモノがなにもない,のである

    という・・・・
    わざわざ新聞二誌も取って,世間のことがちゃんと伝えられていない,という
    恐ろしい暗渠にいまよいこんだか
    ビンボー人には目もくらむ月数千円の出費ぢゃある,という

    つっまり・・・・なんだ


    りべらるホ種とネトウヨはそのジツささえあっているという

    このままミサイルがどっかに落っこちて戰爭突入したら・・・・
    そーとーこわいよ

    とおもったあなたにむけては以下のことをしみじみおつたえしたい

    ちなみにAbyAアラート總理の面目を發揮して
    解散後初の地方遊説に選んだ地はなんと
    w海上自衛隊キ地のある舞鶴だったそーだ。
    そこでは

    例の舊軍軍刀のXJAPANならぬ旭日旗と紫色の総理大臣旗が仲良く並んでハタハタはためいていただろう。
    旭日旗は,他にないからしょーがなくて讀んでるアサヒシンブンのまーくでもあるんぢゃがに

    ちなみに舊軍軍刀のXJAPANな圖案は陸上自衛隊のエンブレム
    それを乘っけて海上自衛隊が航行するようなジタイだけは
    それはとりもなおさず,海兵隊的任務,陸戦隊をのせたかつての軍艦「出雲」の長江遡上のようなことがおきる,ということであってなんとしてもそんなことは・・・・
    そんなことがおきるなら

    まったく,いちど,ほろぼしてもらったほうがいい
    自衛できずにたとえ亡びるとて他國をほろぼすなどとしたくない,しないでほしい,

    これが我が国の平和憲法のりねんぢゃあなかったんですかい?

    (ヤナイハラ,ぢゃないけど,日本死ね,)

    朝からヒマだなーと思ったあなた。
    あなたはただしい。

    いやちがう。

    わたしがなにをいいたいかわからないなら,あなたは,
    りべらるホ種か,ネトウヨか,どちらかの属性つまり日本を支えるニホンジン,ということだ

    ヒコクミンではないので安心して,あべばいあべ・アラートでよろしい。
    つづく

    続きを読む»

    加えるを計る。 “# あ~いに行けるコクナン♫ われらがものぉー”


      丘 前韻  (亂箭攢心,各各他山)      qiū

     丘八咫鴉使徒呀   Qiū bā zhǐyā shǐ tú ya.
     日輪染赤雪讎誇   Rìlún rǎn chì xuě chóu kuā.
     軍民天子神社廰   Jūnmín tiānzǐ shénshè tīng .
     十字架何敢交槎   Shízìjià hé gǎn jiāo chá.

        平聲十五 呀誇槎
     *丘八=おもに惡事をはたらく兵(ピン)をいう
     *呀=鴉の鳴くような聲,嘆詞
     *燹=戰火,兵燹  
     *槎=きる,樹木の交差




      シュミわりーな 現在の海外派遣の自衛隊のエンブレム

    ↑ なかなかに
    シュミのワルいどっかの國の,実力組織のエンブレムw

    醒めよわが同胞 ♫
    旗は血に燃え海を隔てつ我ら かいな結びゆく

    かよw

    去年いつのまにかこんな,品のないエンブレムつくってた,わが國防軍
    自衛隊とはなにか?


    我らが不戰の誓い象徴を。きずつけ,あたらしい
    エンブレムをつけ意キ揚揚と洋洋を自由の航海するかイージス艦驅逐艦

    三代前のコクゾクたちの亡霊たちはぞんびのごとくよみがえる

    カケン

    もうあと10日もすれば
    國防軍ができるクニまでまっしぐら

    廊下の向こうに徴兵がまっていた

    既視感を抱く,デジャ ヴ “déjà vu” 人
    そんなハズはない,と言い張るジャメ ヴ “jamais vu” 人。

    へーわコッカシュギ者,日本の,アイコク
    ジギャク的ヒコクミンの,哀哭、アイゴー哀歌だ

    へびめたのLPジャケットよりダサいこれ,

    え゛?
    車道を旗たてて暴走するやんきーちっくなヒトビトの旗よりかっこわるって?
    wwww
    ヤンキー總理の安倍ちゃん一族とその一味

    三代前の夢と野望の蹉跌をいみする
    いや。
    そう,
    帝國日本の跌蕩不羈なる・・・・・

    ぞんびのかいほうせんせんだ!

    それっ

    十字架からの解放だっ
    おい,みんなでうたおうぢゃないか

      起て
      軍國主義を標榜する自由!
      核兵器を保有する自由
      敵基地先制攻撃する自由!
      世界に冠たるふつーの國になる自由!

      いざたたかわん!~♬
      ああ,憲法九条カケン
      われらがもの!~♫

      いざ あいにいこう いざ ふるいたていざ
      あーいーにいけコクナン
      われらがもの~♬

      
    いざ戰わんんんんいざ
      
    加える,とは
    “戰力不保持の宣言” の,その宣言の,撤廢。

    にほかならない

    つけくわえるだけだ。
    もともと災害救助の團體だ,それが,ゐる ことを,
    憲法に
    つけ加えるだけ,なにかモンダイ,ありますか?

    このコクナンはのりこえなければならない!

    ヘイワコッカのメンボクをかなぐりすててw
    ノーベル平和賞はわれわれの國内からとおくはなれさった
    「ヒバクシャ」 の 祈りと,
    核廃絶へのその困難ンおおき長い歩みを敢て歩むひとびと
    をたたえて賦与された。

    日本政府はこの,A倍アラート,な,國難のこの時期に
    すこぶるメイワク,だ,とばかりシカトをきめこんだが


    そしてもうすぐ。


    戰後,ニホンジンがかろうじて,
    まるで,非力の野党の牛歩戰術のごとく,
    のろいあゆみをすすめてきた

    ただ,ミンシュシュギ,
    というだけのことだ
    そんなもん。民が酷けりゃ民主主義はひどくなる一方のミンシュシュギ

    民なんぞ,そんなにたいせつなものでもないかもしらんが。
    我が祖國さえリッパならw

    以前
    象徴詩
    をかいてみたと。

      象徴詩   《加? キ》w

      加    
      木加
      架?
      枷?
      鍵?
      錠前。
      銃前,銃後?
      うしろの正面?
      廊下の向こう?
      轉ばぬ先のテロ取り締まり?
      轉ばぬ先が轉ばす先になった特別高等特命刑事

      内側から鍵を “かける自由” はなくなり,
      外側から鍵を
      か,け,られる,が,
      か,け,る,のはもちろん
      自分自身ではない
      自分がかけられる鍵はココロのカギだけだw

      默らせられて,
      おし默る。
      默らせておいて,
      そして囁くひとがふえる。

      疑心暗鬼の虜になる。 

      心が, “枷” をうけいれ
      體が, “架" につながれる

      それもこれも,

      想像力がたりなかったために。

    こんどの選挙の一票は重い。

    日本がコワい
    わたしはホンキでコワい

    ただ,たんに
    九条に自衛隊の存在を明記する,

    とは,
    とりもなおさず
    専守防衛に徹した武力,という,體裁,タテマエをも
    好むと好まざるとにかかわらず,

    なぜだか,ハギ取ることになる。

    これまでが,

    假面だったと思う人。
    假り免許だった,
    假りの姿にすぎなかった

    と思うヒト。
    いないかもしれない,が
    いるかもしれない

    われわれは周邊國の脅威にさらされて
    しかたなく,
    自衞のために,對抗しているだけだと
    そのために
    不戰の誓いはのこしておくが,

    戰力不保持は具合が悪いから

    だから
    それだけだ,それだけぢゃないか,という。

      いま,あなたは,
      そういえば,
      ガイコク人はすぐナットクしてくれる

      中國,韓國人はヒトぢゃない
      あいつら以外のガイコクジン,

      簡潔にして單純にわかってくれるだろ,
      カンタンにおもってやしないだろうか


    世界の,こころある,日本をよくしる白人は
    わかってくれるw


    改憲。加憲でも,
    ニホンジン以外にとって,
    そのジジツ,は,

      ある, “象徴” の抛り出しにすぎない

      それが意味するところ,を,表徴するカタチ

    とは

    十字架w
    だが
    舊日本軍の殺人軍刀ではなく,自衛隊エンブレムの日本刀ではない。
    かつて,

    十字架にかけられた帝國日本の軍 “國” 主義だ

    その “象徴” を,そこなうための,

    選挙,しょぼい選挙のかおをして,
    とんでもないことたくらむ
    アラート總理誕生だ
    緊急事態発生國家戒厳令教の使徒をひきいる


    枷である
    十字架である。

    かつて,しょーもない被害妄想自衛國家アラート教信者に加えられた 

    象徴

    しるしとはなにか?
    象徴,これまでふうじこめてきた

    水に流してきた
    フタをしてきた,
    われわれ ,の,いまわしい過去

    わすれるために,もてあそんできだへいわな憲法は,
    象徴の用をなさない
    ただの,あらあらしい・・・・,人をたたく警棒になる

    日本が,戰前の日本帝國の状態に,
    戻しましたよ,
    憲法を,
    一番のおニューだった,わっかりやすい部分を,
    “もと” にもどしましたよ。
    世界に最も尊敬されてきた,バカにされることもなかった
    立派な憲法を

    みっともないし不安だから少しかえる。
    でもたいせつらしいから
    すこしだけかえる,と

    “加”えるだけだ,と

    といったら
    ニホンジンいがいの,すべての國のニンゲンが

    なぜ, “枷" に?
    “架” に?

    これ以上何を加えることができるというのだ?
    のだ?

    む,む?ニホンジン?
    なぜ?また?

    もちろん身構えるだろう,
    日本には, “帝國日本” という前科がある。世界中の嫌われ者だった
    ヒットラーとヒロヒトの  “HH” 88だ,すえひろっがりな八八イデオロギーだ

    まして今,
    世界中が不安定なこの時に
    日本だけが
    自制心があると,だれがおもうだろうか?
    ニホンジン以外に。

    そしてわれわれは,ニホンジン人種以外のガイコクジン人種と出逢えば,
    ことあるごとに,

    あいさつもそこそもに,ニホンはなぜ,九条を捨てたのか?
    どうして?
    そう問いかけられる。

    まわりにいるすべての “外國” の人びとに,
    なぜ?
    と聞かれるのだ,

    なぜ,

    あなたは賛成したの?
    どうして?
    ハンタイしなかったのね?

    どうして,?

    その枷をゆるめて
    なにをするの。

    架からはなれて
    イッタイ日本はなぜ? 

    自衛隊の存在を明記しなければならない,なにか,
    思いつめた
    未來の計畫があるの?

    説戰爭,戰爭就到

    そう,日本人はいつでも自衞,自衞。
    自分の國がいつでもすばらしい國だと

    カッテに妄想抱くのはそんなに惡いことじゃないかもしれない

    しかし,スバラシイ “國” とおもいこむから

    いつかのっとられる,侵される,
    幸せ國家は,だれもがうらやむ良き我が國は。

    そんな妄想のために
    軍事費を
    つぎ込むよりほかに何も考えない。
    武器と軍刀が。

    天から降ってくる。 
    地から湧いてくる
    銃把の民と,銃後の民。


    戰爭すれば,必ず勝つ。
    説戰爭,戰爭就到
    だから。

    そんなニッポンって。

    誰の “國” だ

    いつの間にか すべて雲散霧消する
    もとのもくあみになってから目覺め知る

    ああ!,國難

    コクナンとはこのことだったのね

    もうすぐおわる,ニッポンの平和主義
    いまから
    アイゴーをひねっておこう
     
    いや
    ちがう

    れっつ,ごー

    さあ
    「コクナン」に
    遭遇しようぢゃないか

    いやちがう

    いざ
    「あいにいけるコクナン」に
    あいにいこうじゃないか





     
    ジャン・ルノワール映画の名優せいぞろいぢゃ▲ナチズムに抗し起ち上がるヒトビト
     1936年コミュニストパーティプロパガンダ映画 




     河 前韻

     浩劫起忘“同”地方   Hàojié qǐ wàng “tóng” dìfāng..
     日車天道人路傍    Rì chē tiāndào ren lù báng
     民向沙塲小乘輪    Mín xiàng shā cháng xiǎochéng lún .
     國防亡國誰復荒!  Guófáng wángguó shuí fù huāng! 




    ブツクサ

    20171005

    自由は, libre, また,自由とは。 Raison d'etre,と
    書いた。
    リブルの對義語は,抑壓,桎梏,あらゆる,くびき,枷である
    では,レゾンデートの對義語は,なにか?
    「相對的自己肯定」のことだ,
    ということになるだろうか?
    あるいは
    「自己否定」のことだ,
    と短絡することもあるだろう

    この相對的自己肯定また,時には相對するものいかんによっては自己否定となってしまうとき,

    これは,民主政體の社會であっても,
    多様性の否定はおこりかねないし,
    相對的に成り立つ (相對的にしか成り立たない) ところの身 “分” を,

    相對的 “竝” 立させる,
    時には “對” 立させてしまうことになりかねない
    民主社會と,リベラルな社會というのは,意味するものもその影響のおよぶところもちがっていることがおおい
    民が主の社會でその “民”が差別と抑圧のシステムを抱えているなら,それは
    自由な社會ではない。

    階層や差別をつくりだしてしまう,という社會そのものが,もともと持っている本質や意味は,さまざまな方向にカッテにすすみうるものでもあるようで。

    自覺的かどうかは別にしても
    リブルの社會に
    住まう,ということは,
    生きる,ということは,
    Live, Vivre,であるけれども・・・・
    あらゆる存在にレゾンデートがあること,であり,すでにあらねばならないこと,である

    他者を肯定(否定)したり,他者を肯定(否定)しなければ,その自 “分” 存在にはレゾンが無い,などという社會は
    Libertaire の社會ではとうていない
    そこに住まうヒトビトも “リバタリアン” とは言わないだろう
    ・・・・・。

    「あらゆる存在があるべきである,ということを否定する存在,それさえもあるべきである」
    それは
    都合はいいのかもしれないけれども,
    見榮えはいいかもしれないけれども・・・・・,
    萬事うまくいきそうなキもするけれども

    その社會には,つねに否定されてしまう存在がある,ということになりはしないだろうか?

    ずっとこのことをかんがえつづけているが。
    自縄自縛に陥るだけで
    こたえは,いっこうにみいだせない。

    こたえなど,ないのである,
    おのおのそれぞれが答えを,おのれのなかで,つくるしかない
    なにを,想,意,とするか,であるが



    20171004

    日本語では,『共生』 という言葉の概念がよく吟味されずに,
    ニホン的に他者を寛く恕し容れる優しさのようなもの,とされがちだが。
    そうだろうか?

    すこし前に そもそも ,とはなにか,
    これをしつこく書いてきたが

    はたして,ヘイトスピーチをも 「寛く容れてしまう」 ことを,
    『平等』 理念だの 『人權』 を尊重する,だの,というだろうか?
    ましてや 『自由』 の社會などと,いうだろうか?

    この場合 “自由” とは,桎梏からの解放,という意味を
    また
    『“” 己の存在理 “” 』 という意味をも,同時に内包,表徴することば,だが。

    言うまでもなく前者は libre, liberté ,後者は,Raison d'etre だ,が。


     “共”  gòng gōng “共”  gòng gōng  “共”  gòng gōng 



    日本では民主主義,も,自由主義も,いっしょくただが,『民主主義』 という言葉は
    そもそも單なる 「統治」の一手法にすぎない
    リベラルな民主主義もあれば,排除の論理を正当化する民主主義もある
    立憲制度もそうで,立憲君主制もあれば立憲獨裁制もある,
    ただ單に政治制度であって,それは
    ナニカの人間集團の理念なり理想なりを,もっと言えば,文化や哲學や美學を “體” 現するわけではない。
    民主主義はピープル,の,ポピュラーであるところのポピュリズムであり,何をポピュラーとしてしまうかによっては,
    獨裁者を民主政體の長として認めてしまうかもしれない

    それがどういう民,どういうことを理想と考える民か,によって民主主義の形態はかわらずとも實相はかわる。

    異質を排除して,一つの色に染め上げようとする人びとと,確かに同じ場所で生きていればそれは,共,生だが。
    いくらわれわれが 『共生』 だ,といいつのったところで,
    『共生』 する気もないレイシスト,『共生』 理念を否定して 「排除」 という解決法を好む人たち
    は,我われとは 『共生』 はしてくれない。

    ただ同じ空氣を吸ってるだけの,そこにともにある,というだけの
    文字通り,共,生存,共,在するだけだ,
    しかも相手がこっちを殺したい,殺してやろう,と假に思っていた,としても,殺しを實行するまではw
    共存する。

    ザイニチはゴキブリだ,たたきだせ,殺せ,と叫んで練り歩くヒトビトとともに歩むこと,を,も,はたして “共生” というだろうか?
    いっていいだろか?

    共存,でもいい,というヒトビトは,
    たとえば。
    たまたま,ザイニチでもガイコクジンでもなく「ブラク」民でもなく同性愛者でもなく障ガイ者でもない,原爆症ではなく,ハンセン病でもなく。ホームレスでもなく,生活保護受給者でもなく,生活困窮者でなく,自閉症でなく,うつ病でなく,アトピーでもなく・・・?・・・・失業中でなく,低所得者層でもなく,シングルマザーでなく,ギャンブル依存症でもなく,オタクでもなく,偏差値の低い學校の生徒でもなく,・・・・大酒のみでもなく,助平でもなく,ケチでもなく,不潔でなく,見苦しくな・・・・・く,アカでもなく,カウンターでなく,KYでなく,とくに思想信条もなく・・・・

     「がんばって排除されずに生きていかなければならない」

    などとは毛頭思ってない人も
    そのとおりだ,がんばろう,そう思ってる人も,

    レイシストを權力者にのし上げることが,『共生』 理念を脅かすことにつながっていく自覺をもたない。

    それは常識の中に生きていれば,そういう,自覺は,持てないだろう,

    過去の帝國日本,近代日本の非常識,をしらなければ,だ
    こうして隠されて匿されてしまっていれば。
    今般の共謀罪を整備する,エを描いたのは,ヴィジョンを,リヴィジョンしたリヴィジョニストは,
    かつての治安維持法と密接にかかわりある人の,血の係累だ,特高關係者,かつての内務省關係者厚生省関係者・・・・。

    たとえば,みなわすれてしまっているだろうか,薬害エイズの騒ぎのとき,ステッキをふりまわした,高慢な大学教授A,
    彼は,731部隊であったりする,というような,,,w
    バカバカしくもワンパターンな,單純な日本の構圖である。
    フクシマになぜ,かつての,國策によって45年春まで送りつづけられた,いわばソ連が不可侵条約を破棄して攻め込む可能性を十二分に知っていながらあえて,捨石として配置されるかのごとく送り込まれた滿蒙開拓團の民がおおかったか?

    國家によって,棄民のうきめにあうひとは,
    あんがいいつの時代も 同じ構圖,おなじがわのひとびとであり,同じ立場の境遇から構成された “一方” だったりするのである

    それは,過去にそうした構圖を,直視してなおしてこなかった,ほったらかしてきたからではないのか?
    過去にはそれはできなかった,しかし,今,われわれは

    ヘイトスピーチをやめろ,ということに,
    沖繩のおじいおばあを排除するな,殴るな,ということに,
    對して本当に無力なのだろうか?
    言って言えないことでもないことをみんなで言わないのはなぜか,であるが。

    沖縄ではかつて4人に一人が本土のための捨て石となって地上戦の中で死んでいった,
    いまなお,本土の為に,基地負担を押し付けられ,コクゾク呼ばわりである。

    八紘一宇,キョーイクチョクゴ,東京裁判史觀否定,
    南京虐殺はなかった・・・・,
    今そーいうこという,「かれら」が,このうえなく崇拝する面面が過去に,
    どんなことを國策として推し進めたか,しらなければ。

    想像力が足りないだけではなく,時系列でかんがえない,
    考えようにも起きたことを知らなければ。

    ジツに,巧妙に,將來の布石のタメニ

    「かれら」が,
    じっさい起きていたことを 「ナカッタコト化」 しよう

    としているかもわからない。

    血の係累,大概が三代目というわかりやすさも,あえてみなければ,わかりやすくなく,
    敢て見ようとするあんたがおかしい,という人がたくさんいれば,
    そうだ,おかしい,下種の勘繰りだ,ということになるかもしらんが

    じっさい起きていたことは彼らの血の係累が起こしていた酷い,非道のことだったりするのなら
    そしてその非道のことが,
    『共生』 の考え方から遠く隔たる,
    『優性』 の思想,が引き起こした非道のことなら

    かれらを彼らがやりたいようにさせる,そのことをも

    『共生』

    といえるだろうか?
    ならばその,『共生』は, わたしもまた,非道を行うことの危さを身に背負う,ということでもある。

    あなたはいつもそういう極端なことばかり,考える,口にする,といわれたとしても
    わたしは考えるし,口にする

    なぜなら,そう考えざるを得ない,ゲンジツが
    シュクシュクと,サクサクと進行しているからだ。

    昔からわたしはこんなことばかり思いつめてこんなことばかり書いてたわけではない,ということも,
    いまさらだがいっておきたいがw

    関東大震災の,ふつーのひとびとによる「不逞鮮人」大虐殺事件
    起きたことをなかった,と言い張ること。
    人數に間違いがあるから,事實でない,真實ではない,などと言い募ることが・・・。

    そう言い募ることは,そうリヴィジョンすることは,

      もしも本当にそうしたことがかつて起こっていたのなら,
      ――起こっていたのであるが――
      ふつーのヒトビトがそういう惨事を二度と起こさないために,將來二度と
      おなじあやまちをくりかえさないために,

    どれほど,何ほどか有効であるか?

    自分が過去にやったまずいことは,心に抱え込むのが,人の情ではないか。

    わすれてしまうことが,二度とそうした失敗を犯さないためには, 一番いいのだ,
    知らないことがなにより,二度とまちがわないためには必要なのだ,
    そうだろうか?かりに,そうであったとしても。

    わすれることがいちばんだ,
    かりにそれが日本の風土に合った,忘却することで寛容ココロをやしなうことが
    未來に對して責任ある態度,であったとしてもだ。
    それでもだ。

    かれらは,われわれに對して
    忘却させようとするのではなく,
    敢て知らしめようとするだけでなく,

    捏造。

    起きたことをナカッタコトとするために,捏造される,
    様様捏造して糊塗する,それを發信,流布させ,蔓延させようとする
    その,敢做敢為,敢てなされる「かれら」の「作為」には,
    なにか・・・・

    ただ,ただ,わすれてしまうこと, 
    よりも,もっと,このうえなく,
    思索の内のもっとも強い

    “意志”

    が,みなぎってるように,わたしには感じられてしまう。

    その漲る意志がコワい。
    排除する側に在ればコワくない,という流れ,
    それも,民主主義。

    しかし,

    『自由』 シュギではない。
    ましてや

    『共生』 であるわけがない
    わたしは單純に言って・・・・端的にいって
    ただコワい。
    コワガリなのである

    排除されるにきまってることを想像するのもむっちゃコワいが。
    知らず知らず,排除に加擔するのも,
    知ってて排除に加擔せざるをえなくなるのも。

    コワい。

    なぜコワいのか,
    それは考えてしまうからである。

    人類はソノジツ,考えない人間のほうが,「考える葦」よりも強い,という,

    これもまた。
    『葦は弱い』 の,
    その定理だ

    『しかし』 mais,
    『かんがえる』 pensant

    これがすなわち,『思想』 である,ということなのだろう,

    『寛容』は,寛く容れればよい,というものではなく,
    寛く容れる,という作為を,敷衍させる,ことだから,
    普遍化させることだから。
    不偏,であらねばならず。

    イントレーランスを容れることは,トレランスでは在らなくなっていくことにほかならず。

    空言好!

    20171003
    日本はかんぜんにおわったなw
    ジミントウから杉田水脈出馬wというハナシ

    「なでしこ,そよ風極右」「女百田尚樹」,キチガイ妄想のレイシスト。
    極右雜誌で,テロ熱烈讃辞扇動をつづけたオンナだがw

    語るに落ちたか
    まぬけなことに『南京大虐殺』を帝國日本軍の蠻行と認めてか
    ザイニチは殺せ,と,『鶴橋大虐殺だ』などとほざくオンナを,自民黨が出馬要請。
    小池百合子,中山恭子の誘いを振り切って,熱心にプロポーズする安倍のもとに馳せ參じたらしいw

    もはや,一定程度は,極右の實相をかくしてふつーのひとぶってた姓アベ的も
    ついに人間としての矜持もかなぐり捨てて

    つかいものにならなかったグッドルッキン稲田朋美,
    またもや懲りずにまたもやザイトクレイシストをスカウトする
    そんなジミントウが多數をしめる,の日本政治

    男女平等,女性差別廃止は “コミンテルンの陰謀” だそーだw
    どーだ?この時代錯誤は
    そこまでコミンテルンだの,ニッキョーソだのを過大評価もしてくれなくていいんだが

    國際社會でわらいものになるだけならいいけどさー

    最近嗤いながら讀んでるしょーもないヨミウリに言わせれば「左派」らしいwえだのサン,だって

    一度はキ黨から出馬を考えていたわけだからw

    にほんのりべらる,は,といえばこれまたほんとしょーもないわけで。

    立憲民主黨をたちあげたらしいが,
    すこしはりべらるをかきあつめて存在感を示してくれw

    結局,護憲反安倍脱原発市民團體のねがいをききながしつづけて・・・・,
    あげく仲間と見込んで期待したヒトビトから
    いっしょにやるキはさらさらない,とかいわれてようやくw
    排除されてはじめて,
    しかたなく理念を整合するのだろうか?

    これだwこれが

    日本のりべらるのすがた。だ

    かれらは,
    やっと。
    ・・・・。

    いつだったか,國會前の戰に敗れた前線の卒は
    「信用してませんからね,あなたがたを」
    とりべらる政治家を眼の前にして言いきってたがw

    徒手空拳の學生でさえ理想と理念の整合性,もって,みずから集うことができる。
    いや徒手空拳だからこそ,と,いうべきだろうが。

    それを,理念の整合性をついに,みずから獲得でき得なかった玉ムシ色のヒトビトは,

    平和憲法の理念が根こそぎひっくりかえされ,
    なおにえきらない態度だったヒトビトは
    みっともない憲法と侮蔑されていても,
    改憲派を「排除」できず
    政治屋としての自分を侮蔑されて初めて・・・・?

    要するに多數であることをアテにして整合性を二の次にしてきたヒトビトは

    今般,排除されることの理不盡さをしったヒトビト,ではあるがw,
    今般,排除されて初めていまさらながら,
    ひょっとしてじぶんたちは意外と少數でもないことにキづいた,
    というだけかもしらんがw

    一度は排除する方に入りたがったヒトビトであることを
    とりあえずわすれないようにしようw

    あーあ,これで共産票が,へる・・・・ぢゃないか




    20171001

    今もう,目の前で整備されようか,という國家の「緊急權」
    日本というくにの,はっきりとした岐路に,在って
    「緊急事態条項」への道筋”が,どれだけ危險なものか

    予測できる奴,できないやつ

    この斷絶は,深い。根深い。

    世界はみな危惧して注視しているのにいるのに。
    戰爭けしかけてるの誰だ?
    キムジョンウンなのか?
    世界は誰も米中戰爭も米朝戰爭も望んでないのに,日本の民はなぜこんなにも
    鈍感で從順なのか
    ひょっとしてひょっとするかも,という

    ものスゴイコワイ。なw



    20171001

    え゛?
    リベラル新党たちあげ?

    共産躍進をさまたげるの,か。
    カンベンしてくれ

    共産黨に入ればいいじゃだけのハナシないか。
    だいたい枝野も辻元も「希望」に入る選択肢があるならなぜ共産と共謀した?

    そもそも民主党があったことでどれだけ,日本の共産票を減らしていたかということをかんがみればww

    今度の騒ぎは・・・・・アカには福音だったのにw・・・・

    ねがってもない党勢拡大のちゃーんすっ到來!と,


    もー
    たのむからいなくなってくれ民死とー支持者

    そもそも共闘は,共産のうわ積みないけど,やってやってたのに。
    それも,單に安倍をほうむるというそのワンイシューのために
    憲法護る,と,それだけのために,

    共産黨は,たしかに黨利黨略をすて,黨是をごまかしてまで。

    これまでやってきたんだど。

    りべらるいいかげんにしろっ

    そうして,だれもが共産が共闘した意味をわすれ,なぜ,協力したか。も。。

    結局,コクミンのために理念のために,理想のタメニ,
    アカにはなんのいーこともないのに
    ココロザシもて民に對峙してたのはいったいだれだよw

    昔はアカと排斥され,今はバカにされ

    なぜ,
    りべらるは民進党によって護憲の理念も,憲法の理想もが大きくゆらいでしまったことを根本からからみとめないんだろう,

    愚直に憲法護ろうという党,は,共,産,黨,しかいなかった。

    それはゲンジツではないのかな
    いいわるいはべつとして。
    いいかげんそれをみとめろよ,と

    なぜ。
    こんな今のご時世に

    時代錯誤な志しもつ志位が。
    どれほどテキトーに,ココロザシまげて,譲歩してきたか。

    ヨノナカには,政權なんて持つキもさらさらない,ただのへそ曲がりが一定程度いるのがふつーなんだよ
    それを。。。

    ま。
    それがいけんかったというキもしないでもないが
    少なくとも。どんなにしょーもなくとも,ココロザシは志だ。

    それがあるやつは,つよい。
    すくなくとも,まぶしいトキがある
    だから目をそらす,そらされる





    そーだっ
    カマもハンマーもやめて,◯共マーク,いいぢゃないかっ

    篆書體で

    屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮 屮
    艸 艸 艸 艸 艸 艸 艸 艸

    ブツブツ佛佛ブツブツ屮屮クサクサ
    ブツっ
    グサっ
    死めっこらっっ

    「死刑っ!」

    起來!拿把𨨞鎌鐡鎚~,
    同! “英德納雄納爾” 言語好~♫
    殺! 人民到處如刈屮~♬
    なんちってw


    哈哈。



    20170930

    天心民意要同符  ――柳亞子 

    おい,くだらんぞ。

    日本。。

    おい,みんな,共産黨に入れようぜ,

    と,

    な ぜ い わ ん

    そーゆーまぬけなりべらるはいないのか?

    ふんっ

           “共”  gòng gōng        “共”  gòng gōng

    ・・・・。


    ・・・・。 


           

    《空言》柳亞子


        
       空言   Kōngyán

      
     孔佛耶回付一嗤     kǒng fú yé huí fù yī chī
     空言淑世總非宜     kōngyán shū shì zǒng fēi yí
     能持主義融科學     néng chí zhǔyì róng kēxué
     獨拜彌天馬克斯     dú bài mítiān mǎkèsī


          孔子,佛敎,耶蘇敎,回回敎, 
          これ,一嗤(いっし)に付さん
          空言なり,淑世には總て宜しくは非らず!    
          能く持たん,持つべき主義は科學に融けしものとなれ,
          これ,獨り,拜するは
          彌天に馬克斯のみ!だってさ
     

                   回世義天!



      *一嗤=冷笑
      *淑世=世の改善,世を革めるに
      *能持=能く持て。仏教語のdhāraṇī,(だらにー)でもあるがww
           いっさいの言語説法を記憶して忘れない。心に銘じよ,ということ
      *馬克斯=元祖洪水怪獸 カールマルクス署名  のこと也。
            布爾什維克 ぼるしえびきの「總攬把かーる・まるくす」
      *彌天=滿天,漫天。濫漫天。この世界に。


     

    あはは。
    リウヤーズー

    臆面もなく
    よー言ふわ, 
    ・・・・ぢゃなくて
        
    題していはく 空 言。   


          柳亞子



        
    さて,そらごとなり
    空空無凭啊

    一人一人,異なる,
    というただそれだけ。
    自分が成せる道は,しかし誰もが歩む道でもあるという,

    同じ道,
    なれど

    同じ道を往く違う道。

    同じ道を歩いて,なお,ひとりびとり,具有せるものが違う,
    同じ道の上にあって,見えてくる景色は,異なる

    同道せるとは倶亡であり,共生である

    この道にあって仰がば空の,色さえ異なる
    この道にあって俯かば土の,匂いさえ
    この道にあって欹てれば足音さえ

    一つとして同じくない

    kongou2.jpg
     

    “色” とはなにか?
    色とは,
    “識” である。


                   識 shí
     

    ならば
    “空” とは何か,
    無色,
    それなら
    光に決まってるぢゃないか
    という短絡はどうだ?

      光吞萬象   guāng tūn wàn xiàng  
      光非照境   guāng fēi zhào jìng 
      境亦非存   jìng yì fēi cún      
      光境倶亡   guāng jìng jù wáng


    色覺は光による。
    光は境を照らし出すが光明は自ずから自ずを照らさない
    黑い穴の窄き窖に,無色にして無涯なる “空”





    無二であり,無一,
    不二にして,不盡。
    光も,
    照らされる萬象も,
    無窮,Wú qióng 
    無涯,Wú yá   
    無碍,Wú' ài   
    一切有為法, 本來無一物



    慧能



    テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

    《宙合》 《窖》 『楞伽阿跋多羅寶經』 

     Je vais dans la nuit  
     
      我某夜成道,  至某夜涅槃
        ――夜に道を成して(悟りを得て),ある夜涅槃にいたる



    『楞伽阿跋多羅寶經』



     我某夜成道     我,某夜に道を成した。
     至某夜涅槃     某,夜,に,涅槃に至る
     於此二中間     此の二の中の間については,
     我都無所説     我はすべてを説くことできぬ
     縁自得法住     縁よりて自得法,本住法
     故我作是説     ゆえ我はこのように説うた
     彼佛及與我     彼の佛(の知),および,佛と我と
     悉無有差別     差別の有ることなど,悉く無し




    『楞伽阿跋多羅寶經』  卷三《一切佛語心品》
       
    大慧復白佛言:
    「如世尊所説:『我從某夜得最正覺,乃至某夜入般涅槃,
    於其中間乃至不説一字,亦不已説,當説,不説是佛説。』」
       
    大慧白佛言:
    「世尊!如來.應供.等正覺,何因説言:『不説是佛説』?」
       
    佛告大慧:
    「我因二法故,作如是説。云何二法?

    謂:縁自得法,及本住法,是名二法。因此二法故,我如是説。
    云何縁自得法
    若彼如來所得,我亦得之,無增無減。
    縁自得法究竟境界,離言説妄想,離字二趣。
    云何本住法
    謂:古先聖道。
    如金銀等性,法界常住,若如來出世,若不出世,法界常住。
    如趣彼成道,譬如士夫行曠野中,見向古城平坦正道,
    即隨入城受如意樂。
    大慧!於意云何,彼士夫作是道及城中種種樂耶?」
       
    答言:「不也。」




    大慧(※),復た,佛に言ひていはく
    「世尊!あなたは夜に道成し、某夜に涅槃に至る,その間のことをなにもいわない,なぜでしょうか?」

    「世尊!如來.應供.等正覺という,なぜあなたはそういってそれ以上何もいわない,それはなぜでしょうか?」

      我は二法によりてこのように説こう
      いわく,
      ひとつ,縁によりて,悟りを得る,
      ふたつ,もともと住まう
    (=本性として具わっている),がゆえ悟りを得る。

      ひとつ縁自得 
      如來が得ているところを,我もまた得たるとも無増無減のごとく。
      縁より得る(ことができる),それは言説の妄想から離れ,
      文字の “二”趣(※)より離れ境界を究竟すること,である。

      ひとつ本住法。
      いわく古くに聖なる道が先んじてある。
      金銀の性等しきがごとく。ある。
      法界は常住す,如來の世に出づるも,もしくは出でざるも。
      法界,常に住まう法界。

      かの成せる道,
      たとえば士夫が
      曠野を行くてに見ゆる古城
    (城の内,都市のことだろう)
      そこに向かう,

      平坦な正しき道をすぐに見ゆ,すぐに城内に到る。

      それは喜びであるか?
      どうおもうか?

     ―― 宋(劉宋) 天竺三藏 求那跋陀羅 (Guṇabhadra) 譯 




    ※ 大慧菩薩摩訶薩=悟りを開こうとする衆生菩提薩埵
    ※ 趣=疾。病

    意譯,我流につき間違いはご指摘ご教示ください



    MaiJiShanBodhisattva.jpg


     合十   héshí

     左右是假名     zuǒ yòu shì jiǎ míng,
     郤亦左亦右     xì yì zuǒ yì yòu,
     自覺左内心     zì jué zuǒ nèi xīni,
     覺他常對偶     jué tā cháng duì'ǒu,
     自佛與他佛     zì fú yǔ tā fú,
     左右別無有     zuǒ yòu bié wú yǒu
     合十示宙空     hé shí shì zhòu kōng,
     在我的兩手     zài wǒ de liǎng shǒu,


           上聲十九有  右偶有手

                   20170921



                 




    自己の光明の在るところ,自“由” 
    これいたしかたなく

    黯處といへども影に過ぎず,
    暗渠といへど間隙に過ぎぬ

    日の光にとき明かされぬ夜はなく
    月の光に曝されぬ夜もない

    光はそこに在る,といふ
    たとへ,
    眼を閉じたとて
    自ら,
    あるかぎり

    その中に

    光吞む中に
    照らし照らされる
    堪えがたいほどの涅白





    のまれてゆく 
    まっくら,

    眼眩み,黑む

    光の芯は黑い窖
    口もまた空
    入りては出ずる孔

    在宥す,いやおうなしに
    己れの在處。



    あかぬ

    往くも歸るも
    とどまるがごとく
    まとわりつくがごとく

    去るが如き來たるが如き

    其中間乃至不説一字


     『楞伽阿跋多羅寶經』巻三

    テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

    ジャワ ―佛陀―  ①אלף-בית ? Non   ②闕

    クリス ボロブドゥール
      


    “十” は,二
    合十。十 𠄠

    ब्रह्मन्  
    對立する法馬。
    天秤棒の, 左崕から右涯まで等距離等分刺突する劔尖(keris)
    ――クリスは飛んでしまふ,支えない
    だから

    もはや解體できないまでに刖されてから抜き出した文字をこそ,を。






    冂 jiōng 



    森寒の,門のなかの空隙に氣づく


    窮を遮る “質” もつ,門,そこにも缺落がある。



    “字” ,とは
    闕の意を識り,
    竅を窺うための風孔だ


    白晝
    意識のましろに黯く眩むとき轉輾ともんどりうつてひれふした

    腹這ひて臥した脊の遨地倒天。


    背くばかりの脊
    門の音を聽く

    闇はふかい


    轉輾回しつづける陥弄文字の掬しきれぬほどの羣(むれ),無數わたしはその最後尾に從ふしかなかつたのである

    “闕”

    (そむ)く方(かた)に向う




    ボロブドゥール

    テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

    感同身受,空空乎!詩囚野狐禪のマカハンニャハラミッタ


    そもそも,文字は
    人のためにあり,人がつくり,ヒトが,あらゆる世界のあらゆるさまを,あらわし,あきらかにするために,ある
    共有されて,共感するために存在する,
    しかも初めからあったものではなく,
    人為,の,
    人が仔を生むこと以外に生み出すことができるもの,
    それが,,

    一に。
    “象形” である,
    また,
    一に, “ことば”

    聲音は違う,聲音は人間以外も,また發する,發生される

    では,
    文字,字語、語言,言語,語文,文言,ちなみにこれらはすべて,すこしずつ意味が違うが。
    言葉, “ことのは” ,なんでもいいが,
    人が為し,人が為めに,有為なる,有為なす,
    しかも
    それは。
    “生きもの” である
    が。
    それは, “實物” だろうか?


    一切有為法,如夢幻泡影

    四句偈《大正藏經》

    豈但同。大不異小。水平而已。同!一起來。看!光華萬丈
     
    共生,とはなにか。
    共同タイ,
    共同體=Commonwealth だ,・・・とはなにかw 

    いやそもそも,共通する,とはなにか?


    つまり, “共” ともに,のいみであるが。

    『説文解字』による

    也。从廿廾。凡共之屬皆从 。古文共。渠用切


    “共”  gòng gōng “共”  gòng gōng “共”  gòng gōng




    まるで草が二十(廿)をささえている,ようだ
    あるいは
    草が四方を志向しているようにみえる

    ・・・・。
    は,ニンベンつければ
    「ともに」,という漢字は偕,倶に,というものがある

    これらの違いは示唆的である

    バカの一つ覚え
    段玉裁『説文解字注』 をもちだせば, 

    同也。从廿廾。廿、二十也。
    二十人皆竦手是爲也。
    『周禮』、『尚書』, “供給供奉” 字,皆借字爲之

    (共字を借りて之と為す)
    衞包盡改『尚書』之共爲恭。非也。
    (共を恭とするのはまちがいだ) 
    『釋詁』。供、歭、共、具也。
    云。皆謂,備具。此古以供之理也。



    “供” には,求める,もとめあう,という意味がある。
    “偕” には together in いっしょに,一起,
    “倶” には 加えて,all,completely,company である意が強い,そして
    “具” わる,具える,供える・・・

    “幷” は,まずは “竝” び立つ
    さらに,
    “併” 。これは兩立,竝,と “合” の意を持つ


    また,
    は, “氵” つければ
    洪水という言葉がある。
    水があふれるには,それを容れるいわば器が,小さい,狭いというコトがまずあるだろう,つまり
    ときに,あるべき以上の水が “共” にあつまり,あふれる。
    なぜ,あつまり,あふれることを志向する水にすぎない “洪”水 がおそろしいかといえば。
    あふれたあげく周邊に,「吞み」こむ勢いで襲いかかるからである,

    では “洪” とはなにか,である。
    “洚水” を洪水というようになったのはなぜか,考えこんでしまう。

    “洪” ,とは,そも, “大” であるというw

    大きい,というは,決まった大きい大きさがそもそもあるわけではなく,小さいものも大きいものであって,小さいものがあってはじめて大きいと言うことができる,そもそも小さい,がなければ,大きいもない,
    もちろん逆も然り。

    共の本義は “同” であり,洪は, “大” である,
    ということをおもえばおもうほど,
    大同とは小異が成り立たせるものだ,と考えてしまうのは,わたしの固執(痼疾)ゆえか?
    あなたはどう思うだろう,ということは・・・・
    よくわからない
    もはやわたしは,考え方に偏りがあり過ぎていて漢字について,
    日本語プロパーにとっての漢字の意味を取り損なってしまうことが多い,
    わたしがふつーに考える手順は,他にとってふつーでないかもしれないので,まったく自信ないんだが。

    大同は,小異を合わせることである,というのはふつー,單純に考えればその通りでないのか?
    とおもうが。ちがうだろうか?どうだろう

    それを,單に大きい同じいを 「同化同調を強いること」,や,「全體主義」によると,とらえる人はまずいまい。
    いや,どうだろう,
    わたしはときに,ゼンタイ主義者や差別主義者とおもわれている予感はするし,
    人がわたしと同じことを考えない,ということは予想以上によくあるキもするのだが

    わたしはヒトと違うこといえばそれだけでスゴイとはおもわないし,人が同じように考えてくれるならそれはそれですごくうれしいことのようなキもする,
    が,よくわからないが
    まず,いまい。
    と言いきってしまうとゆう蠻勇をふるっておこう,


    同 tóng tòng“同 tóng tòng” 同 tóng tòng“仝 tóng tòng”



    “仝” は “同” の異體字である。
    “全” も,かつては,同の異體字である

    『説文解字』
    完也。 从入从工。全, 篆文仝从玉,純玉曰全。古文仝。疾緣切


    段玉裁『説文解字注』によると

    完也。 宀部曰:完,全也。
    是爲轉注。从入从工。从工者,如巧者之製造必完好也


    つまり “仝” は,工な技巧による完,を意味し
    篆文の “仝”,また“全” には王(玉)字が入り,純玉曰く “全” であるらしい

    その意はより “完全”。 より,完整,の意味が強くなる “同じさ” となる,ということだ

    “同”の異體字のうち ほぼ,同字に定着し,仝はまだ,かろうじてつかわれるが “全” はもう, “同” としては使われていない。
    發音も,まったくちがう

    したがって同が,もと有していた,完,全的意味はすこしうすれたということか

    つまり,・・・・

    “同”という 字の意味は,
    それはもともと,こうした意味を有していて,しかしのちに分かれていく。

    そして後ろにくっついたり前に置いたりする字によって,意味はますます限定されうるわけだ

    つまり,同,それジタイの固有の意味がそもそもいろいろあり,というだけのことをいいたいだけなのだがw

    どの意味の “同” が, “同” 字でもって表象されていったか,という假定の話である

    “同” に内包される “異” ,を,共有,「ともに “大きな” なにかを有」にする,作用,そのことを
    正に,そのことを “同”というのであって,
    「異ならない」ことと “同” とはカンタンにイコールではむすばれない,のである

    なぜそんなことを想ったかというと,

    じつは。
    “色不異空,空不異色,とあえていうとき,なぜ, “色同空,空同色” ,と言わないかということである。
    これは,ご存知,『摩訶般若波羅蜜多心經』の玄奘三蔵によるサンスクリットの漢譯文だが。
    そしてもうひとつ

    色即是空,空即是空のまえに,不異,という。
    色不異空,といって「色と空はなにもちがわん」,といい,
    かさねて色即是空,空即是色という,ブッダの意志,意圖とは何かということだ

    姚秦のころの西域人(新疆ウイグルクチャ)の鳩摩羅什に至っては, “非色異空。非空異色” という,譯文である(『摩訶般若波羅蜜大明呪經』)。
    鳩摩羅什クマーラジーヴァは漢語に通じただけでなく,きっと詩人でもあるのだろう,
    よく六朝の四六駢儷文と對偶になじんだのだろう,とおもわれるがw

    鳩摩羅什も,とうぜんのことながら,唐びと玄奘三蔵も漢語をよく嚴密精緻につかいわけるひとたちであったこと,論を俟たない。
    美しい漢文經典の代表だ。。

    ほんとうはサンスクリット(梵文)原典では,「色,とは,空におなじい」,と謂う示しを,
    ブッダは,三種の別をもって提到している,
    それをきちんと三つ傳えている漢譯もジツはあって 色空空性是色,つまり

    “色性是空,空性是色,色不異空,空不異色,色即是空,空即是色”
    の三つ
    ということだが。
    假りに,これをわたしが譯してみると

    (この世界に),
    われわれが捉えられる事物(=)というのは,その性質として,そもそも「實體がない」(=)。 
    「實體はない」(=)というとき,そもそも,その性質として,捉えられる事物(=)というものがないからである
    (この場合,(これ)は,This is )

    物質界に,その現象(=)はそれも,實體がないこと(=),とことならない(不異)。
    實體がないこと(=)と現象(=)さえも,ない,このことは,ことなる(),とみるべきでもない(

    物質界に,その認識を,もつこと()は,實體がないこと()と,そうすることによって(=),(ぜ)),となせる・・・・・
    (この場合,は,正しい,の意味)
    實體がないこと()とその認識()をも,もたない,物質はなにも有さないこと,このことを,ひとしくなそうとしなさい(=即是),
    (わが弟子),シャーリープトラ(=舎利子),よ



    即是といういいまわしには就是。便是。のいみあり,
    また,等於,である,つまり,ひとしい,だが
    だから 「色これはすなわちクウに等しい」,という和譯,となるわけだが。
    なぜ即,是,なのか

    やはり,ちがう漢字が一字でもつかわれる文章ならば,ほかの字がたとえすべて“同じ” でも違う。
    マッタク違うコト,もしくは少し違うコトを傳えようとする意圖がある,はずである
    このことを,おろそかにしてはならない,とおもう

    そして,モンダイは
    即(卽)の意味である
    (卽) 卽食也。卽、當作節。周易所謂節飮食也。

    即には,節食,のつまりは,端的に言って “減らす” ,意と,
    “就く” の意がある
    ということである,人がある造作を為す,何かに就き,何かを為し成さんとする,ことをあらわす言葉でもある。
    ということ

    即には,また立即,直ちに,の意味があること,又當,の意もある

    色,は,空,と,たちまちにみなすことができるよう,み,なすことに,ただちに,あたりなさい,

    鳩摩羅什も玄奘三蔵の譯も,一字一字を吟味すると,ホントに見事な譯であることはまちがいない,
    われわれは今,サンスクリット原典の和譯もカンタンに讀むことができるが,それを讀んで,なおいっそう漢譯の素晴らしさに驚嘆するのであるが,
    (とりわけ『楞伽經』,『維摩詰經』,は孔孟老莊の深みあって初めて為さしめえた對譯だとおおもうのだが)

    漢語の嚴密にして融通,精緻にして包括の汎さ,漢文の論理性を思えば
    日本人が,佛典漢譯をほんとうに,理性的に讀んでいるだろうか,ということは,よくよく考えさせられたのである,
    (以來,わたしは野狐禪の無明の道を歩むことになるのだが)

    サンスクリットから日本語に直接翻譯されだすと,トツジョとして,漢譯はダメだ,の,漢文譯は,漢文特有の修辭があって冗漫だ,だのと,というバッシングが澎湃としておこり,
    オキョウがわかりづらいのはうっとおしい漢語のせいだ,とムチャクチャいうのが,今のニホンにはありがちなハナシ
    仏教系ネトスピの反中意識もまた相当なものなのだろうと想像する。

    いや,わからないからって,むずかしいのを,インチキみたくきめてかかる,ダメ呼ばわりするのはみっともない,と言わざるを得ない,それはそもそも反知性的ゴーマン病ではないんですかい。
    などと,いいたくもなるのであるが
    (ゴーマンはガデンインスイ而して知識を振りかざすオマエのほうだっという罵聲もマジ聞こえてきそうだが)

    「般若心経」において
    「一字二字を變えただけで繰り返す」ことが,漢譯が論理性を構築していく過程を,よく言い得る,
    スリリングなまでに,よくあらわす,だからである。

    それを
    これは,美文の單なる強調や,くどい性格からくる大仰,だから繰り返している,みたいなとらえ方は

    あまり謙虚な讀み方の態度とは言えない。

    修辭的發見とレトリックの不適切な關係にとらわれているのは,むしろ日本人であるように思える,もし,論理性を見ようとせず,繰り返し提示されることにナットクしてしまっているのであれば。

    「色,は空,空,は色」をくりかえすのはなんとなく,ではなく,レトリックの虚飾によるのでもないのである

    六朝時代に「非色異空」,といってたのが,なぜ
    唐代になってなぜ,「色不異空」なのか?
    また,あえて「同」と言わないか?
    そのうえ,もう一度でてくる,なぜ「即是」なのか?
    そこを論じつくして説明された般若心經の解説を,ふつうに見たことがない(少なくともわたしは見たことがない)のはなぜだろうか?

    よく考えれば,というか,文字を吟味すればわかることで,調べりゃわかる,程度の知識にすぎないことだとおもうが,
    みなそれをやって,それでなおかつ,今さら精緻に言い分けてつたえるほどのたいした意味のちがいはない,と斷じてしまっているのだろうか?,
    「色即是空」を,
    『色はかたち』,『カタチは實體ではない』,です,などというハナハダ不完全な,説明をして,それで満足しているのだろうか?
    満足できているだろうか?

    これはもはや,わたしにとっては永遠の謎だがw
    紙も墨も筆も高價だった時代,昼が短く燈火のもとでなぜに同じことをわざわざ二度も三度も書くか?という
    そんなことを,なぜか,たまたま思ったので書いているのだが。

    ハナシをもどせば
    大同

    共通の目標に向かう時,目標を共にする者の内部にある(かならずあるといっていい)差異を克服することは,
    理念の純粹化とはまた別のハナシ,である
    にもかかわらず,
    差異を認められないがために目標が見失われてしまうw。
    差異を認めてしまっては “同” することもできないで,まさに,どうすることもできない・・・・

    それはなぜなのか?

    それは・・・・
    この共生の理念が,理として,ニホン風土に合った理念として整理されてないからではないか・・・・
    そんなことをときとして想う

    分斷がある時,「分斷していく」,という民のベクトルを否定したがる,
    それがりべらるの限界だと,いうことを躊躇しないでみとめていこう,と
    書いた

    差別と,分斷は,ちがうのである,寛容と,同化がちがうことを意味するのとおなじように。
    と書いた。

    共生は,竝,生,幷生であって,同化ではぜったいにない。
    あたりまえだ,字が違うのだから。
    と書くと,おそらくだれもわたしの書く事を真面目にうけとらないだろう,
    というやるせないおもいはあるもの,
    と書いた。

    書いたはいいが,書いては見たものの,
    しかし,
    考えてみれば,
    段玉裁『説文解字注』もいうように, “共” と “同” はいにしえにはおなじいみをもったということもどっかで書いたキがする

    (誰も,オボエて(讀んで)もないだろうから,「オマエは支離滅裂だ」,というお叱りをうけることもないが)

    なんどでも書くが,漢字が違えば,意味する,意思,は違うのである
    いにしへに違わなくても,でも,今,字が異なり分かれるからにはちがいがすこしでもある,ということもいえる

    “共”,についておおむねの理解あり, “同” ,についておおむねの理解ある,
    しかし。
    ・・・・・。
    その小さなちがいは,なにか?
    はたまた,もともとはおなじだった,というその, “同じさ” ,とはなにがおなじだったのか?w

    (今、モンダイにして扱ってる漢字が “同” だの, “異” であるだけに,よけいヤヤコシくなるばかりなんだがw)

    つまり “根”元 は “同” じい,もの,だったということだが。


    異  yì“異 yì”  同 tóng tòng “同 tóng tòng”



    ジツは,“異” にも, “共” の字は入る,が,
    これは “共” ではなく, “艸”“廾(分,弁)” である

    しかし,  gōng” は ,

    いや,この こそ, の,

    ・・・・・・・・成り立ち,その意味,この、共,という字があるべき,因,また “動機” ,であるところの,
    “分” をあらわしている

    ジツは,
    ジツに,こうした字解,解剖行為は
    これ,思想の最小單位(青梗菜かつて曰く),
    をとりだす,
    そもそも思想思惟.いや,諸相字意の最小のエレメンツなのである

    “同” とは,そもそも,あるところに “會,合,” する,という意味が本義である
    communauté, つまりコミュニティ,
    もしくはCluster,クラスター

    「共生」と,今いうは,ともに倶に偕に,活きる道を,觀(み),自存“自在” する,

    分斷される切れ目を認め,而且つ,ともに,生を “為” す, 生に “就”

    “分” すなわち “廾” を,とりもなおさず “異” を認めることから始めなくては,はじまらない。

    身もフタもない言い方だが,

    みとめる努力,直視しようとしないひとびとは,かならずやポピュリズムを真っ向否定する,
    “people” の意志は,populism だ,ということを前提としない,
    だから,ではないか,と。
    書いた。

    これはピープルの意志,というものの得体の知れなさを他人事として,時には恐ろしいもの,とときには,まるで地力のないものと思ってしまう,いや,想いたがる,だから,ではないか,
    と,書いた。

    かつてロシア・サヴエート勞農政府は,貧乏黨,洪水怪獸といわれたが,
    洪水が恐ろしいのは,吞みこまれるひとびといるからである,怪しいやつ,や,獸が,おそろしいのはわからず,非力だからであるが

    アカに恐れを感じる人々は,おそれを抱くからにはその力を知っているからであるはずのに,その力を,まず認めようとしない,
    そういう歴史が,レボリューションの時代には必ず,構圖として,歴史的,痕跡としてあるのであるw

    本來個別の分別,や,差異がある中で,つまり個 “體”差,ということだが,罅や隙が生じること,これはあたりまえっで,

    差異を認めるところからはじめなければ,通じ合える部分は見つからない。

    通じ合い,會合し,會同をおこなう,
    同とは,この合同し,共同していくための,營み,つまり,作用のことではないか?

    マッタク初めから同じモノたち,そういう,何かの  “實” “體” をあらわす,コトバ,ではそもそもないのである

    “體” ではなく, “用” としての ,は, “用” として “共”“生” きる,ヒトという “體” に資する。

    それが “供” に, “偕” に行き,往き,生きる “人” と “倶” にあるべき,つまり人が “具有” すべき “體” である

    倶には,はじめべつべつであっても,最終的には一緒になる,
    いっしょにいきつくの意味,もある。
    それこそが,ニンベンに具がつく意味である,といっていえないことはない
    ともに,にも,いろいろあり,
    しかし, “一起” ,という意味はすべてに共通である

    共に生きる,という,「ともに」,とは,「同一」,とは違う,ましてや單一とはちがうということだ

    共同體とはなにか?
    集合體,クラスター,であり,コミュニティ,を構成する。
    その構成要素は,もちろん,,Peuple, citoyen,による。

    “同” 體 とは,單一をあらわすことばであるわけがない,同一でもない。

    ましてや日本語のゼンタイ,全体主義のゼンタイ,ではないことは言うまでもない,
    全は曾て,同と同根だったが。
    ここに漢字の變遷,變容をみてとり,その變わりようは,論理性の整合とパラレルであった,そしてしばしば混淆した,と考えるのは,それほどむぼうなことではあるまい。


    ここにモンダイを提示すれば,では,同化とはなにか?


    “同” する,でなく, “同” ではなくする作用,このことを “同化” というのである,

    こういう理解,これはまちがっていない。

    現に「同化政策」が「共,同,體つくり」に失敗する,という歴史的「事實」に,ばかばかしいほど,あからさまにあらわれているではないか?

    大同,とは「大きくてひとつ」の,同じい顔 “色” を持ったナニカ,ではなく,小異を含むからこそ大同,なのであるが。

      異  yì“異 yì”   “畀 bì” 畀  bì



    は “廾” にささえられ,
    は,“共” にささえられる。

    とは,“弁”, “分”, “异(異)”
    しかし。
    とは,そもそも“廾” にささえられるが, “畀” のあいだにあってささえている

      草  屮 cǎo“屮  草 cǎo  艸” 草  艸 cǎo 



    では
    “畀 bì ” とは何か,
    相付與之。  “與” えるである。
    そうして,しかし

    とは。なにか
    とは。なにか

    もちろん
    そも,そも,,芽,草萌,のことである

    このブログでもさんざんフれてきたが。

    草萌,これは, “民”

    “民” という文字は字解すれば,
    屮の種,なのである。


    四句偈 『涅槃經』二十五 《師子吼品》

    “一往一來。住在一起”
    その一つ一つに,如來は存る,在る,ゐる,のであり,
    その一つ一つが,具有するのが如來であり

    猶,無處不在,ゐないことなどなく,どこにもゐないがごとき。

    四句偈 『金光明經』《四天王品》


    佛眞法身    佛の眞は,法身(ほうじん)
    猶若虚空    猶し虚にして空の若(ごと)し
    應物現形    物に應じ形を現し
    如水中月    水中の月の如(ごと)し



    法身,これは,まさに,眞に對する假であるところの,實體のない身(體)

    應とはなにか?
    照見,といってもいいが,

    “相對(あい對す)” といってもいい,
    だから,
    “絶對”(對の絶える) とは, “應無方” ,である,

    これはジツは,漢族が,もとよりもっていた,思想にほかならない
    そこに,
    「空」ナルを見る,「觀自在」の概念が,忽然と現れ出た,

    艸,化して,花笑(咲)くがごとく
    あたかも,法身の華が,化生のごとく

    物化とは,死滅でありながら,化生,であるという,
    ・・・・・


      Ji-huá  艸  化   Ji-huá 華 金文

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    “有餘涅槃” 天水麥積山石窟

    maiji002.jpg


    崩落しかけている佛像を戀ふ,
    骸。
    そこにゐない,
    まなざしはまなざさず,
    形。
    信仰已銷烕,猶如倶具現。 

    それを。
    殘といふか空といはぬのか
    宙宇につながらぬのか。

    かつて菩提薩埵
    ―बोधिसत्त्व bodhisattva―
    菩薩發心の現場があつた,
    という,痕蹟を 

    はるかな過去,のみ。それのみが阿僧祇につながつてゐる

    つながりつづける,その記憶のみが

    一切ならぬ「 “全,體” 軀」,に取り殘されて,なほ
    ゐることのいきどほろしさ,おそろしさ, 


    maiji0011mono.jpg




     そこにゐない,?
     佛がゐない世界はあるか?
     ない。
     ならば “無處不在” たる “如來” とはなにか
     在らない處など無く,
     “來たるが如し” ,いまだ來たらざる
     “如來如去”

     それが じつは“空” であるという逆説。
     麥積山石窟の毀ぼれた像がそれをよくおしえてくれた

     佛言のなかの
     “色” とは何か,?
     “識” の,對手,對像であり。

     どちらも韻目は “職” 。 聲調は “陰入” ,色小韻.。
     だが。

     いろ, とは顔气のこと
     だから
     “對” は,譍無方也であり, “空” となる


    識 shí
       “識” , 常也。常當爲意。字之誤也。
       草書,常と意は相似る。
       意とは、志也。 志とは、心所,之れ也。


       意と志、志と識,古くは皆,通用す。
       心,之れ存する所,之れ意という。
       所謂,知識とは此れ也。

       『大學』。いはく誠,其の意。

       卽ちジツは,其れ識也。

       按ずるに,凡そ,知識、記識、標識、
       今,人は入・去二聲に分ける。
       古,入・去分别無し。 三者,ジツに ,一義也。
               ――段玉裁『説文解字注』


     
     “空” とは何か?
     それを。
     “如來 Rú lái ”,來たるが如し,未だ來たらざるは去るが如し
     と,

     しかしそれを“自在” といってよい,というのが佛敎思想の醍醐味

     これを, “假 Jiǎ” といつてもよい,
     “假” というとき,それは “眞” であるからこそ, “如” ,なのである
     “Jiǎ lái ”  といっても, 
      “Rú lái ” といってもいい

     “無處不在” ,  “如來常在”
     どちらもブッダそのひとのことばであるが

     そも,觀,自在とはなにか?ということだ,
     まなざし,まなざさず,應無方

    四句偈 『金光明經』《四天王品》


     甘肅省 天水市麥積山石窟の佛像が大好きだ。
     保存状態はおそろしく惡い,手先が毀ぼたれ,肌膚は頽れ。

     悽悽として竚立する。

     寂滅の途半ば,淒慘な表情のまま凍りついたようなものもある。
     左魂右魄啼肌瘦・・・・
     永く永く くりかへしくりかへし 續けられる
     戰亂兵燹の歴史。
     中央亞細亞の嚴しさ厲しさが時空を超えて保存されてゐる。
     さらに人間の妄執。滌拂出來ない結習。 

     無餘に至らぬ有餘涅槃。

     涅槃に至る夜に・・・・・・
     去つて往つてしまったものたちの
     除き拭きとつたばかりの
     脱離の殘滓が浮かび觀えてしまうような。
     度(わた)つたばかりの
     解脱の殘響が底から聽こえてくるような。

     殘されし。
     慘慘たる不參の苦修者の菩薩の群れは,
     無劫 “沙” の時間からこぼれおちたかのように。
     しかし靜寂が確かに在るようにも思える,現場にたてばどうだろうか・・・・

     わたしは去つたことがない。
     いつか,去きたいと,纏病弱身・・・・には憧れに終わるかもしれぬが。

     あるいはただ存在を如實にあらわす菩薩像の羣れもある
     人間のおろかさを感じずにはいられない。
     無常を咒う姿。
     聖俗をこえた空虚。
     ここに洞悉された天機などない,崇拝もない。

     具體の信仰がない。なぜなら骸だから

    maiji20170903.jpg

     
      “ナニナニ時代” と “ナニナニ時代” の罅隙に落ち込んだ

     ただただ分斷された六朝の,劉宋から齊,西魏北魏,北周のキワに。
     天地離阻,神人慘酷 江河の歴史。
     江南の書香はない,,灑爽典雅なく
     春に光る風・・・・もない・・・。

     しかし。

     わたしは,とにかく無念が痛切に感じられるものが好きなのだ,
     この性情はいかんともしがたい。

     大陸に殘る齊以降,いわゆる北魏佛。
     わが國の佛像の祖形ではある。

     わが國の佛像は・・・・細やかに,かつ力強い曲線,
     清冽にして柔和な表情と肢體, まごうかたなく美の造形。
     そうした日本の「佛敎美術」としての,壓倒的な存在感,には
     比すべくもない。だろうが,

     麥積山石窟にはそうした造形美,冴えた美しさとは異なる,存在感があるのだろう。

     そして敦煌莫高窟とも異なるはずである。
     稠密な信仰の空間ではない,敦煌には信仰の “かたち”,が殘る,
     信じ仰ぐ人の。
     そんな氣がする。

     天水麥積
     惨憺たる穢土塵埃を殘してもっと無殘,・・・・菩提薩埵のなれのはてならぬ
     骸,無骸だ
     わたしはすくむように,おののくように
     このむ。
     いたむ
     というわけだろう,
     恐懼は疼愛。

      第百五窟 左壁弟子阿難 (西魏)
      天水麥積山石窟 第百五窟 左壁 弟子阿難陀 (西魏)

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    物華遍照復如故,土思島名“邊,野,古”!

      
     おゝ
     蔑すまれ,不具にまで傷づけられた民族の誇りと
     聲なき無數の苦悩を載せる故國の土地!
     そのお前の土を
     飢えたお前の子らが
     若い屈辱と忿懣をこめて嚥み下くだすとき――
     お前の暖い胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
     うなだれ,押し默つて國境を越えて行くとき――
     お前の土のどん底から
     二千萬の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!



      ☞ 槇村浩 《間島パルチザンの歌》  一九三二年三月一三日

       (この詩はほんの一部である,ブログ内に槇村浩の詩はいくつか載せている)

    麥積山石窟
     
    他にないからしょーがなくて讀んでるアサヒシンブン,2017年8月26日朝刊,もうひとつ。

    ヒサビサ陰翳をもった讀みごたえある,
    『政治季評』というコラム記事だが面白く示唆に満ちた論考が載っている。

    ☞『 沖縄「怒り」の核心とは 豊永郁子氏,という政治學者の寄稿であった。

    ジョンロックの『市民政府論』を引いて,沖縄問題に對する非常にまっとうな視點を提到する。
    これを讀んだ日の朝から,ずっと考えていた。

    おもえば,これはノーム・チョムスキー,オリバー・ストーンらがしめした沖繩への「連帶」その底流をなす本來的意味での「自由思想」の,思想系その流れ,といえようもの。
    が,ニホンでは
    なぜか,これは「中國人や朝鮮總連や日本のアカが裏で糸引く的モンダイ」として,ウヨクにバカにされつづけてきた。

    こういうネトウヨや,ウヨウヨいる,
    「とにかくなんでもかんでも中国,朝鮮人が裏で糸引いてる説」信奉者で,思考停止している幼稚ウヨ知は論外として,も,
    では,と。
    そうではないニッポン本土 “土人” は・・・・。

    日本という本土の平和の現状維持を希求するばかりのアタマでも,沖繩の怒りは,ほんとうに理解できない。
    なぜって,かれらは。

    日本がもし國民國家で,市民社會を形成するのであるならば,彼ら沖縄の民はニホンジンではないからである。

    非常にきわどい書き方だが。

    これはいまなおつづく,普遍的,先住民族,被征服民,の,そしてマイノリティの,根深い困難の問題,である,
    ということだ

    本土,土人,というような日本語にも象徴されるような近代日本の國家理念と連關して,マッタク解決されない,問題でもある

    琉球處分,臺灣領有,日韓併合。
    あるいはカムチャッカ半島,千島,北海道の「先住民族」もそうである。

    そもそもが,大和,和人,倭人,皇國臣民,なんでもいいが,ニホンジンが,蕃夷戎狄的,蠻,土民として「征服」した――武力侵寇に由ったり因らなかったりするわけだが ――,「邊境」の “國” 域。

    われわれら,本土側が,
    彼等を隷属させる宗主國である,という “本土”ネイション と,
    彼ら側 “邊境” ネイション ,そのピープル,民族,
    という,
    彼・我の,位置關係。

    歴史の經緯,これをかんがみれば。

    帝國主義と征服者,は,いまもレイシスト,の本質を隠して生き殘っている,
    それがたまたま,いま,單に「帝國主義」とはいわれない,というだけで
    抑壓者、壓迫者。
    いっぽう,植民地,被征服民,被差別者,
    という,抵抗者。

    この關係は 注意深く覆い隠されているだけで,いまも,ニホンに「差別」,感情として,嚴然とありつづける,
    しかし
    これは克服すべきモンダイだ,というモンダイ提起も,あまりなされない。

    このモンダイ提起とならない無作為は,ある意味では,
    分斷のない社會というものがよい,理想だ,
    という考え方,
    そこから一歩も出ないでいる,『寛容』,
    「リベラルの “寛容” 原理主義」とでもいうべき許容力,
    そのせいだ,と,わたしは思っている。

    分斷がある時,「分斷していく」,という民のベクトルを否定したがる,
    それがりべらるの限界だと,いうことを躊躇しないでみとめていこう,と
    いつもおもう。
    差別と,分斷は,ちがうのである,寛容と,同化がちがうことを意味するのとおなじように。

    共生は,竝,生,幷生であって,同化ではぜったいにない。
    あたりまえだ,字が違うのだから。
    と書くと,おそらくだれもわたしの書く事を真面目にうけとらないだろう,
    というやるせないおもいはあるもの,

    なんどでも書くが,漢字が違えば,意味する,思,想,は違うのである

    共生をめざす,とは,分斷あることを認め,なおかつ,供に,偕に,活きる道をつくる,そういうことであるのだが,

    身もふたもない言い方だが,認めることから始めなくては,はじまらないのである。

    みとめる努力,直視しようとしないひとびと,かならずやポピュリズムを真っ向否定する,
    “ピープル” の意志は,ポピュリズムだ,ということを前提としない,

    だから,ではないか,と。

    これはピープルの意志,というものの得体の知れなさを他人事として,時には恐ろしいもの,とときには,まるで地力のないものと思ってしまう,いや,想いたがる,だから,ではないか,

    プロレットカルトは日本において “文” 學ではない,と久しく言われる

    わたしがいう,プロレット・カルトの定義をするなら
    まさにこの分斷を覆い隠すに寄与する “おとぎ話” ,精緻でなく,粗雑で,いい加減な思惟の土壌に立つ幻想
    そうしたものへのアンチ,である。 

    曾て,日中戰爭まえ。
    日中戰爭の前には,確かに,分斷をあからさまにさらけ出すレーベル,があり,コレールがあった,とりもなおさずプロレット・カルトがあった。
    戰前には。
    この場合,の「戰前」は,パールハーバー前ではもちろんない,
    1920年代後半から日中戰爭勃發前までである

    山東出兵、間島出兵,張作霖爆殺前後,そのころに, ☞ 黑島傳治らによって描出された “階層” ,
    ありとあらゆる,地域,に共通して存在する,「階層」の問題,
    差別,分斷の様子があられもなく,ある,そのことを,抉り出すようにして,表にさらした。
    あえて,抉り,切り分け並べて見せた,これらの分斷を見えば,皇國は大同社會ではない,と。
    誰でも言わざるを得ない。誰もが讀む書物ではないが。

    どうしようもないほどの,その,各階層においての,罅隙,ブンレツ,ブンレツして分裂をあるがままうけいれるしかない,ひとびと。

    抑壓者の無策と,被抑壓者の無力と自棄が細かく記され,そして「分斷」は告發されていた。
    片方にあるのは,他暴であり,片方にある暴力はどうしようもなく,自暴的だ,

    より弱者に向けられる,自暴自棄的暴力のことだ…・。
    一方で,
    必ず弱者と弱者が,連帶することをもかいまみせるような。

    黑島傳治は,プロレットカルトの最高峰だと,わたしは想う,もっとも端的に,ラディカルに
    端と端を描き,極と極のせめぎあいを連ねる,連帶だ,が,
    その連帯のありえなさを描き,しかし,――じつは,此れが,黑島傳治を最孤高たらしめるゆえんなのだが――,ありうること,を,も,わずかながら垣間見せる,

    たとえば,
    『武裝せる市街』
    ――ちょうど北伐,華北の軍閥の抗爭と,全国統一を目指す民國政府軍と,そこに帝國が入らざる介入をし、日本人の經濟的侵略のために帝國の武力を行使する――そういう1920年代――

    (いったい,1920年代,皇國の為政者の,だれが三十年後の中國殘留孤兒の出現を予見し得ただろうか?)
    (その予見を記す,『武裝せる市街』,のラスト,シーンこそ,プロレットカルトの最高處にあった,とわたしは信じるが,それは戰爭の宣,と,デルポイの神といってもいい,とおもう)

    そうして,帝國は,シベリア侵略,東北華北侵略に齒止めが利かなくなったあげく,日中戰爭は防ぐことはできず。

    黑島傳治の描いた世界は,内地には,あり得ない世界だった,
    日本人が眼をそむけ,また,信じようとしなかった,そして,
    プロレットカルトの “希み”は,アカ以外,當時もいまも,なかなか顧みられない。
    見られない。

    だれからも “ 託されず” ,だれもそれに “託そう “とは,しなかった。
    眼をそむけるために隠匿された,その所在を,明らかならしめよう,それをずから明らかにしようとした文人は投獄された

    分斷とは
    否定してはいけない
    のである,もちろん肯定もしてはいけないけれども。まず明らかにする必要はある,あるべきものである,
    それが,確かに存るのなら,在るのだから。
    が,

    いったい,今,だれがそれをやってるだろうか?

    沖縄と,政府の間に,もはやりべらる,平和主義者,が介在する餘地などなくなっているのである


    基地問題,オスプレイ,地位協定,個個のそのときどき,現出される,事象。
    つぎからつぎへ,と起こる,彼らに對する人權侵害のことをもっとかんがえていかなければならなかった,小さな個別をとりあげることも,大きな流れの中でかんがえることをも。見出しみとめさせる,そのことは必要だったのに。

    ムカンシン?違う,もはやムカンシンを通り越して,本土は,みようとしない,
    いや,もはや,眼を背けて,日本列島という,幻想ばかりみつづけている。


    わたしは以前から,フシギでしかたがなかったのは,

    日本のりべらるは,なぜ,
    敢て,獨島も,尖閣も,日本ではない,と,いわないのか,,

    ということだった。

    日本であるわけがない,と。

    なぜ,いわないか,ではない,
    なぜ,
    あえていわないのか,と

    言わない動機は,わたしには,よくわからない,理解不能なのである,いや,あえて理解したくもないのである・・・・。


    それらは。いったい
    誰が,聲をあげてつまびらかにするべきだったのだろうか・・・・?

    ウヨクが日本の固有の領土だ,といいつづけるなか・・・・・
    いったいこのくにの “りべらる” は。

    なんてオトナの見識なのだろう,と。
    極端なことを言うヒトを,それは問題解決にならない,と窘める,その事は必要であるが,
    そもそも固有の領土と主張するヤカラに,問題解決の意圖などハナからないのであるのに。

    わがくに固有の領土と,「今,言い募る」,これは全く間違っている,
    と。

    それが,どちらであるからわからない,から黙っているというのは,言い募りほえるやつらの下支えをしているに過ぎない,問題解決の意圖もないわめくだけの言説を,りべらるが支えているのである。

    わたしは韓國の満聲載道をみるたびにおもう。
    彼ら韓國の民は,そういにかなってやるべきことをやっている。 

    少なくとも,半島の中に分斷を抱え,國家とネイション,民族とピープル,そのの歸屬をアイデンティティして考えつづけているではないか

    彼等もやはり,光を覆われ遠ざけられ,取戻し,また失いかけてしかし取り戻した,という經緯がある。
    沖繩にも, “光復” あってしかるべきだ,
    このごろつよくそうおもう
    心の中にみえる “彼ら” は,光のなかに有るようにわたしにはまぶしい。

    東三省の民も,華北の民も,江南の民も,もちろん両廣,福建,臺灣,(ありとあらゆるところの民は,皇國の敗戰によって “光復” した)1945年。

    沖縄の民に,對峙するうえで,我われ “本土” は,どこまでを,どこから,いつから,いつまでを,沖縄は日本であるといえる時間,を,概念として持ち得ているか?

    そもそも日本とかんがえるべきなのか?
    わたしにはわからなくなっている。

    大きな大きな國家の犯罪を,――地上戰によって,全土を兵燹の中に陥れ,
    そして帝國日本軍は沖縄の民を守らなかった,四人に一人が兵燹の中で亡くなったという惨禍は,アメリカが,(だけが,)おこしたのではない。
    時に皇國のため,として――信じていたか信じていなかったかそれはわからないが――帝國日本軍はかれら沖縄の民を死地に追いたてていった,

    そうした戰時下におこった無數の不条理の證言を,

    「戰爭中のことだ,みなタイヘンだったのだ」,
    といって
    彼らの島に起こった特殊性をかんがえないですませてきた本土。


    彼らにとっては,帝國日本軍も,また明確に敵であった,

    敵性の所業を平然とおこないうる味方,という恐ろしさは,はたして想像がつくだろうか?

    今,彼らは・・・・。
    沖縄という地域的 “特殊意志” とされてしまって――それは「地域エゴ」や「自己責任」などという現代の感性で語られるようなものではない,一過性のものではなく,民族のアイデンティティに歸すべき――,まさに歸屬すべき
    ――かれらの『意志』のモンダイなのに

    かれらが
    我われから,つねに見下されがちな, 沖繩の“特殊意志” というみたて,から逃れるために,おこないうるのは,

     沖繩「國域的」「一般意志」,を集約させる,
     沖繩は沖繩の中で「社會契約」契約を。済ます,こと

    ここ數年ずっと,わたしは「これ」によってしかもはや解決できないのではないか,強くそう思っていた。

    そのことを理論づけるのはやはり。

    ふるめかしい,が。

    ロック,ルソー,ミルをひもとくといいw

    そう,ジョンロックの “市民” 概念を以て,近代 社會的“理” 性の始まりと,もしも考えるなら――わたしはそうかんがえているが――

    “社會契約” とは,民が「社會」と契約するものである。

    政府でもなく,世間でもない,ということだ

    その「契約」をかわす “權” だけは平等でなくてはいけない。
    そうでなければ, “民” 權 ではない

    たとえ「契約」によって結果得るもの,享受できるものに差が生じたとしても。

    それはもちろんおなじ水準にあるべきだが,それはいつの時代もむずかしい,
    そしてその差が許容できる範圍を大きく逸脱していたら,
    とうぜん「抵抗」するべきなのである

    Droit de résistance,沖繩の人々はこれを行使している
    しかし。

    沖繩の主張は日米安保を阻害する,
    とか,
    安全保障のためにある程度我慢するべきだ,

    という主張が案外まともな言説として通用していることに驚くのである,

    「邊野古」の基地建設は 肅肅―シュクシュクと――と進んでいっては,ゼッタイにいけない!,
    とつねひごろ考えている人でも,

    沖縄の意志や怒りは “特殊意志” 表現にすぎないと考えている人も多いだろう。

    しかし “特殊意志” ,この對義は何かといえばとうぜん“一般意志” であろうが,

    一般意志,は,この問題に関しては「本土」のひとの本土意志,にすぎない,

    沖繩という,大地のなかに,一般意志と特殊意志がせめぎ合ってる状態ではないのである。

    單純なことである,日本が,もし沖縄も本土も抱える一大民主主義國なら,

    本土の人間が「特殊意志」をもって沖縄の抵抗權を阻害しているのである。
    これは民主政態ではない,(とりもなおさず,正體ではない),ということだ!

    かつて,琉球という域が,單なる “囗―くに” となって,帝國日本に編入されたとおぼしき時期から。
    沖繩は困難をせおうために,編入させられた,と思わされるほど,日本の本土に比べて壓倒的困難を,本土のニンゲンによって,一方的に背負わされている

    そういう歴史に想い馳せれば,わたしは沖縄が獨立を志向することはあたり前にあってとうぜんとおもう,
    まったく理の當然なのである

    Droit de résistance は Droit de révolution なのであるから。


    ところで,この朝日の
    ジョンロックを引いて書かれた論考を讀んでいて,思ったのは,ニホンではなぜか,統治理念として現代まで繼承されてきている社會契約の理念が,王權を否定した際用いられた理念,古めかしい理念としてかんがえられがちだ,ということだった

    戰中,こういう啓蒙的自由思想が斷ち切られたせいか戰後『社會契約論』などというのは,ブルボン王朝,ルイ・カペーの時代のハナシ,絶對君主や王權神授説を否定するに用いられた便法として,古臭いメソッドのように思われがちである,,

    がそれはあきらかに,おかしなことなのである。
    恰も,畏きヤマトの神々が

    民に,ほんとうの「抵抗」は權利である,力である,ということを教えるな!

    ずっと戰中から今に至るまで,大地の陰から囁きつづけているようだ,

    そんな「だれか」の意向によって,
    遠ざけられた契約論のかわりに教え込まれてきた,日本人の社會的美德は,
    すなわち忖度,うのみ,おしつけられて納得,忘却・・・・
    そんなものであることをもっと社會的に自覺,そして政治的に覺醒する必要があるということかもしれない。

    抵抗はやむを得ずする,そういう一面もモチロン,ない,とは言わないけれども

    そうではない。社會の中にあって必要惡ではなく。
    それがない社會は好い,かもしれない,しかしそれがあるシャカイが惡いわけではない

    抵抗は權利なのである


    maijisimai.jpg



    とうてい民主主義國家では容認できないはずの,土地の収奪,人權蹂躪が,差別が當然のように横行する。
    被差別,とは,この場合
    土人として,本 “本土” , “土人”に,敵視される
    という日本の中の沖繩,である。

    まるで。かれらは事實上でも言説上においても,

    『被征服地』の欄柵に押し込められてしまってる,被征服民のようではないか?

    ネトウヨ言説は
    基地反對運動は本土のアカが入り込んでやっている,などという,ややこしいウソを言いつのる

    沖縄の民を情動でもって侮蔑し,差別しているのにもかかわらず,それを “本土”人 にはあからさまに言わずにすまそうというのは,なぜなのか
    とよく思う,
    よくわからないが,そうした意識を糊塗しようとするから,あのひとたちの理屈の整合性はどんどん,おそまつに,そして,ついには論理でなくなっていくのである。

      抵抗は外のものがやってきてやってる,
      ハンタイしてるのはアカと結託したアカだけだ,
      沖縄の人はそんなにハンタイしてない,
      いや,一部はしてるが金のためにハンタイしているのだ

    本土の人はかんちがいしてしまうではないかw

    そういう印象操作にかき消されて
    ・・・・・。


    これは,ねとうよの,

      『あの戰爭はアジアの解放だった』
    からはじまって
      『帝國日本の自衛だ,やむを得なかった』
    しまいには
      『いやみんなやってた,日本だけが責められた』

      『やってなかった』『起きてなかった』
    という,知的な論証風いいぐさからはじまって,
    論破されると,
      『いやそんなにひどくなかった,人數が間違ってる』
    とトーンダウン,
      『數え方を變えればこうなる』
    まで後退してしまいに
      『もうさんざんあやまったからいいだろう,
       いつまで謝らなきゃいかん,未來志向だ,』

    身勝手に終わるのとよく似ている。
    そもそも,いつでも日本側が持ち出し,ムシ返しているということにきづいているリビジョニストはいないかのようだ
    日本がムチャを言い出すから,澎湃と反發が興り,究竟日本がブザマに謝る羽目になる,

    謝ることがブザマなのではなく,ムチャを言い出す日本が全くブザマなのである

    「沖縄はハンタイしてない説」もよく似ているのである

    せめてそこをとりつくろわずに,ややこしい捏造や印象操作をせず,

       『本土の為に土人は我慢しろ』

    といってくれればいいのだ,『分斷』と差別,そのものをみせよう,といういさぎよさ,明快さ,なぜはあのひとたちにはないのか?。
    いつも私はそう思う。

    差別言説はイカン,視たくない,と人は言う,しかし現實に,日本に嚴然としてあるのだから。


    なぜにかれらは,自身が持つ人種差別の本性をことさらに隠すのだろうか?

    それが惡いことだとしっている,すくなくともはなはだテイサイが惡いということを知っている,からだろうか?

    わたしはベツにニホンジン敵視差別のはなはだしいレイシストと,もしいわれても別にかまわない,反論もしない,
    それでもって,おのれの論理の整合性を担保されるなら,そうとらえられても,これはいたしかたない,とおもっている。

    あのひとたちのこの,卑“屈” に見える矛盾と整合性のなさは。
    これはマッタクわけのわからんことなのである

    あのひとらは,いったい誰に對して,体裁を取り繕うか?
    沖縄をアカとみなすバカどもは,いったい誰に向かって卑屈に身を屈めるか?

    論理性,に對して,近代の理性そのものに,對して,
    ときによっては “白人種” ,にたいしてであることさえある。

    差別意識というのは,とてもフクザツな心情で,それだけに表現される時は粗雑になってしまうことがおおいw
    それに比べて沖縄の民の明快さ!
    沖縄という囗=域に在っては彼らの抵抗は一般意志であり,

    そしてなにより,彼らの意志はわたしにはまぶしくみえる
    彼等は屈していない。

    曾て,日本人に屈從を強いられた人々は,國家としては帝國日本に屈從しはしたものの,民は屈しなかった,だからこそ。
    光復をみたのであり,帝國日本は敗れたのである

    對手は卑屈に身をかがめた,そう見えた様なキがしたのは,我われ側が,出張っていって,居丈高をえらび,高きより見下したからに過ぎない,
    過,信したからであるに,過ぎ,ない,ということだ

    そして沖繩も,またけっして“屈” してはいないのである


    槇村浩がかつて,牢獄の中で,その冷たい床に刻みつけた「不辱身,不降志」

    おきなわの,おじい,おばあもまた,
    「聲なき無數の苦惱を載せる故國の土」,
    へばりつき,すり潰されようと
    本土には屈しないだろう,わたしは,そう思っている

    なぜか,といえば,それが
    それを貫けることが,そのもの,「抵抗」だからである。
    さらにいえば社會契約の當事者であるからこそ,抵抗權が生まれる,だからである

    この書き方で,通じる人にはおそらく通じる。
    至ってカンタンな,コトの道理である
    さはさりながら
    この書き方は全然言い足りてないので,また,別にもう少し書き繋いで行こうと思うが

    別の角度から。

        maiji20141123g-R.jpg

    わたしはそもそも,この大地に,ひとは,ディアスポラと落地生根しかいない,
    とおもっている
    そして, “國” は變易する。
    たまたま日本はヘンエキしない,だけで。

    窮境,究竟,
    ある形に――區切られた土域, “囗” ――國家と言っても,部族と言っていっても,社會といってもいいけれども

    そこに落地生根する民がいる時,

    それは先住者,か,征服者,か,どちらかである,ということ,
    これもまた歴史,歴史には,それしかないのである。

    未開の無人の地が無限にあれば,そうであれば,「新しい先住者」は生まれつづけもするだろうが,
    今,ディアスポラは,難民となるしかない,
    それを克服しようという,歐洲は
    いま,ジョンロック以來,
    人間という,――好むと好まざると移動する,という属性をもつ生態――生き物社會の
    グローバルにひろがり過ぎたムズカシイモンダイに挑んでいるわけだ,

    いや,かれらは國境を多く抱える大陸において,いつの時代も
    直面しつづけている,ということかもしれないが・・・・。

    そうして,今朝からわたしはとりとめなく,虐殺された朝鮮人,強制的に連行された徴用工たち,朝鮮人軍属,もちろん從軍慰安婦たち,のことを考えていた。

    日本にはジツはレイシズムと先住民族の被壓迫という,
    兩方のモンダイが固く根深く存在していることに,キづいていながら
    (少なくともアカは認知し,このことを認めらるるべく,あきらかならしめるべく,沖縄から拡散させようと努力しているのだが)
    まったく放置されてしまっているかのごとき,
    である,
    根源的な問題,としてでなく,沖縄問題はもっぱら基地負担という,或いは
    帝國の犠牲になった地上戰という惨劇のあったことを知りながら,アメリカ,アンポモンダイといった抹消に現れた症状だけを診ようとしている日本本土人
    彼らの怒りの本質はそもそも何か?

    硬直膠着して惡化するばかりのこのごろの情況に。いまさらながらに,
    あきれ,ほんとうに驚いたのである。

    彼等はゼッタイにくじけない。

    その事を確信を以て,本土のココロある人間は言い切りたい,言い切るべきである

    獨立運動をも辭さぬ、という彼等の強い意志と力は,を正面から,真直ぐうけとめて見ることに,まず躊躇するな,といいたい

    それは,わたしが彼らを, “ニホンジン” ではなく , “民” ,である,
    とみるからであり,

    理不盡ばかりを強いる “日本” に同化だけはしたくない,という強い意志,が,かれらには漲っているように,みえるからである

    そもそも
    沖繩は,沖縄の民は,「日本」という “本土” にある國家と,社會契約を結んだか?

    結んでいるとすれば,それはどのように具象化され具體化されたというのか?
    結んでいるとすれば。
    今の情況は近代の理性に照らしてみれば,まったく邪、不正,悖る状態ではないか?
    どうか?


    この 『沖縄「怒り」の核心とは』 という論考の最後に
    岩波の 『市民政府論』,翻譯者,メソジスト教會のキリスト者でもある鵜飼信成に言及して,い

    鵜飼は「京城」の帝大で學生と『市民政府論』の講讀演習をしていた,という,
    その事實に,何かわたしは強く心揺さぶられ,心が沸き立つ,というのは少し違うものの,激情を覺えた

    ここで言及されているるような話は,曾ての植民地朝鮮では,よくあった話で,――少なくとも朝鮮の事情にまったく疎いわたしにしてさえ仄聞する,という程度には――

    ――いま,韓國ではおそらく社會契約の手順も一つ一つすすめられているではないか,我われ日本は,韓國人の人権意識には遠く及ばない,そんなことを,卒然とまた,痛切に感じさせられた――


    ――ひるがえっておもうに,辛亥革命以降中國ではあまり例のない話である

    ジョン・ロック――今では古典的と冠せられてしまう自由主義――やジャン=ジャック・ルソーの啓蒙主義思想は,
    中國(清末)では帝國日本より一足おくれて繙き讀まれていったわけだが,
    辛亥後は近代思想の吸収は帝國日本よりあるいは速かった,歐米列強の瓜分――瓜を切り分けるがごとく領土を分割する――によって,そうならざるを得ない苦境困難がそれを早めていったともいえる

    民國では歐米とそれほど變わりない速度で,マルクス主義や社會主義インターナショナルの先進思想が三民主義のいろづけのもと進捗,浸透していった,それは明らかに,かれらの社會がそれを要請していたのである。

    帝國日本人が「滿洲國」でロックやミルやルソーを,ということはあり得ない。
    辛亥以前にそれは,あった。
    淸國留日學生は,「帝國」成りたてほやほやだった日本でそれらを學ぶものの,
    帝國日本で,その思想が活かされていないこと,を,も,見切って回國する。

    辛亥に至る數年前,革命 “前夜” いわば, “夜明け前” のはなしである・・・・。
    先に夜が明けたのはどっちか?
    そして先にまた黑黯のの闇に,黑甜の眠りに沈もうとしているのはどっちか?
    現代の,中華人民共和國を,視れば,沮喪ぜざるを得ないのも,また,わたしにとっての “シンジツ” ではあるが

    そして。しかしこの論考は,なぜか

    「この書(玄注;鵜飼信成譯『市民政府論』ジョンロック著)の出版は戰後まで一切なかったという。戦前の日本に,訳が存在していたら,あのような戰爭が起こっていただろうか」

    このようにむすばれる,この終わりの一文はまったくトンチンカンと言わざるを得ない

    日本人もロックを学んでいれば戰爭を起こっていただろうか?などという,言いは,わたしは,論考のはじめからほぼ納得し,領會しながら讀みすすめていたいただけに。
    ・・・・,失笑してしまったが

    あっさりといってしまえば

    章太炎(章炳麟),鄒威丹(鄒容)ら,は,日本留學中,ロック,ミル ,ルソーを學び,確かに彼らは辛亥革命へのみちすじをつけたのではなかったか?

    まったく,自由思想,というものはいつの時代も不變である,そして,普遍であり不偏である。
    そもそも。

    「抵抗者」はいつでも,,それをあやまたずとらえる,
    ということだ,


       maiji20141123g-C2.jpg

    近代史を追っていて,あるとき。

    中國という,老文明の重厚さ,壓倒的な質量もつ思想,その背景をもって,迫ってくる――ある種,黴臭さにも似た,臭氣――文明のブ厚さに,疲れるとき
    ふと,手に取った尹東柱(海煥)の詩や槇村浩が,妙にみずみずしく,若若しい,清馨が,ここちよい。
    そこに,ある香氣は,朝鮮半島と北方ふくむ日本列島の,共通した,
    コトバ惡いが,書生っ氣のように,擦れていない詩情のみずみずしさで,
    冰質と凛冽,をつねに感じる。

    別の言葉でしるせば,その清涼感は,わたしの,たまたまよくしる漢土の淒涼であり。
    わたしにとっての “國” , “竟” 概念と一直に結びつく。

    鴨緑江の,松花江の寒冽であったり,シベリアの,サガレンの,間島の,凍りついた風の中で途切れてついえてしまう,うた,である。

    ある時期の,若い,青い,朝鮮の「抵抗」,レジスタンスが,非常にピュアな,清冽なものに感じられる。

    それがなぜなのか
    朝からとりとめなく考えていて,今日。
    被征服者であり,今なお,日本において最も陰険で暴力性を帶びたレイシズムの對象となっている,

    そういうかれら朝鮮人の歴史を知ることは,ジツは,ニホンの社會がわかわかしい論理性を獲得しようとするとき,
    案外近道なのではないか,そんなことに思い至ったのだった

    こころのなかで結論づけていたいた。
    學ぶべきものおおいだろう,メタファーとして, “間島” は,そのよすがとなるだろう,・・・・

    おもえば今年は
    尹東柱,生誕百年である,


    さて,抗日詩。

    zhangbaishantitle.jpg金紫衡 《山居雜詠》 十二首之一 


      山居雜詠 十二首 之其一  一九四二年五月于延吉天寶山


     西望松遼接兩蒙  Xī wàng SōngLiáo jiē liǎng Méng
     延邊翠色絶關東  Yánbiān cuì sè jué guāndōng
     物華天寶鐘靈秀  wù huá tiān bǎo zhōng líng xiù
     長白山前泣落紅  Zhǎngbáishān qián qì luò hóng


      西望すれば松遼,兩(ふた)つ蒙古に接し 
      延邊の翠色,關東に絶す  
      物華,天寶,鐘靈の秀(すぐ)れるも  
      長白山前に,紅き(太陽),(血涙)の泣落せり 

    松遼 SōngLiáo=黑龍江の支流・松花江水系の流域
               遼河水系の流域そのあいだの平原地帶

    物華天寶 wù huá tiān bǎo=自然界にみちあふれる寶
           物華は萬物の精華,自然景物。
           天寶は天然の寶物。
           金紫衡が移居しこの絶句を詠んだ山,
           延吉天寶山の意とかけて
           南北朝・梁柳惲 “離念已鬱陶,物華復如此”を典故として
           物華には “國家風光”の意あり

    鐘靈 zhōng líng=靈秀の氣,匯りめぐり聚するさま
    延邊 Yánbiān=朝鮮族自治州。長白山陰(北)にある,
          


    意譯,我流につき間違いはご指摘ご教示ください


       
    物華復如故!遍照光依舊 

     延邊,延吉,朝鮮族自治州
      《松花江上》にもうたわれているように
     「我的家在東北松花江上,那裡有森林煤礦」
     地下資源のゆたかなところ,だ, 「那,無盡的寶藏」
     この延吉縣天寶山は銀銅鉛礦,である。
     そして山の向こう,もうすぐそこは,中國朝鮮の國境地帶。

     國が,壊れて,崩れて, 國家が毀滅する。  
     國が亡ぶ,とは,しかし・・・・
     靑史の文字上のことでしかない,その地に生まれ住まう民にとって。
      
     兵燹にまきこまれ死ぬものと。
     なにかをまもるため,兵となって鬪い死ぬものと。

     しかし,くに,が亡びてしまえば!

    “護國の鬼” にもならず,
     弔うものおらねば,埋葬もされず,ましてや,“國殤” もうたわれぬ

     蟻や鴉がその尸,を毀壊するにまかせ,
     靑塚壘壘,草むす大地。
     “滿洲”には,「萬人坑」おおく,「靑塚」の,さらにおおく。

     物華( 花 )とは,これはなにか?
     光のこと,であろう,
     では
     『莊子』の言う 物 “化” とは,なにか?
     ジツは死,のことである。
     窮まりて變ずることであり,死,であり・・・・・

     “花” とは,“艸” の,“化” 生であること,その字があらわしているとおりである

    齊物 “水平”思想の元祖ともいうべき
    『莊子』は言う
    「吾以天地爲棺槨,以日月爲連璧,星辰爲珠璣,萬物爲齎送。
    吾葬具豈不備邪?何以加此!
    「在上爲烏鳶食,在下爲螻蟻食,奪何其偏也!」


     
    まさに,自由,自存,在宥の極まりを突き抜けた竟地, 萬物流轉,“齊物” の,體現といえよう,莊子,自ら死の後始末の “かたち” を弟子に示した委託であるが。

    “死” とは,ただ水平に, みずからの“尸”“横たえる” ことだ,ということも言って言えないことはない,と,わたしは思う,

    それが,『莊子』の思想である,といいきりたくなるくらい

    maijiGuanXin.jpg

    日本は近代,ヨーロッパの惡しき側面をすべて吸収しながら
    それによってまた,好き面をとらえそこない・・・・・
    社會契約は,いまだなされておらず,つまり,

    市民社會に――國連の人権問題報告官にいわしめたような――あるたぐいの「文化」がない,

    被征服者と被差別者のモンダイは
    なにも解決してないどころか,手つかずに放置され・・・・。

    いわゆる琉球處分――もうすぐ130年となる帝國による琉球王國併合,とその結果――,
    沖繩の地上戰,帝國日本の犠牲とさせられ,
    今なお,アメリカの与力の一州と化したw日本のために負担を強いられつづけている,という

    ・・・・・・。

    邊野古でおととい,
    車道で座り込み抗議していた沖縄の,おじい,おばあ,が疾走する車に足をひき逃げされた。
    これは,かの,地の日常でもある
    あまりに理不盡のハナシである

    しかし。

    かの土地に, “理” は,そこに,民とともに根付いてあるのである

    目もあてられないほど,荒れ果てた茫茫の,くに,それは本 “土” の方である。

    “野” が,理性,理念を喪失して
    まったくてつかずに放置されてしまっている。

    ・・・・。

    さはさりながら
    地,は“土” 也,
    荒蕪の,“里” において,

    土,里もまた, 沮喪して,思うだろう,

    草,が,いかに荒れのびていようと。
    草は草の伸びるままのびていく。

    間違っても,何かを選び取ってはいけない。

    農薬をまいて過保護にしたり,化學肥料をまいてキチガイにしたり,
    そんなことをしてはいけないのであるw

    ましてや,ただ 殺人“到る處刈る”草の如し など,
    もってのほかだ

    自然の摂理にもとるモンサントみたいなやり方も,テロと土壌の荒廢するばかり
    “土” を痩せさせてしまう

    “土” にとって
    たとえ,不逞の草,共謀する草,ヒコクミンの草であっても・・・・・,

    野草である限り,それは,一本の非力の草でしかないし。

    草民蒼氓は,いまは茫茫であっても,いつか,その地にあった秩序を,自ずから形成して, “野” ,となし。
    なしてきた,

    そうしてそれは, “棺槨” ではなく,心地よい “褥” を作る,ことを必ず志向する

    それが,自由であり,自由とは,草志であり,草思である。
    というこれもまた,おそらく,条理,であるとおもうから

    窮境,國家など,土なくして,草なくして成り立つものではない
    あの,おじいおばあがいなければ,沖繩は沖繩ではない。日本が “吞”み込んだとして
    亡ぶのみである
    “國” は變易するが,早々たやすく併吞することなどでき得ない

    物華如此“邊野古”!
    いい地名である

    はたして邊野古の “光復”
    物華萬丈の照らす “水平” 線を,見とどけるまで
    わたしは生きていられるだろうか?
    望みは,薄い,

      maiji37bosatsu-1.jpg

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    過猶不及?見乎隠 顯乎微。りびじょにすと極右の終わりの始まり♬ 易窮即變,變即通,通則・・・

    八紘一宇言語好, 到處殺人如刈草  その③

    今朝の他にないからしょーがなくて讀んでるアサヒシンブン。

    かつて國際派と誤解され,いまは極右にして
    リビジョニストなショータイダダ漏れ小池百合子とゆー我がトーキョートチジ,
    おもしろいことをしていた。

    孔孟老荘の囚徒であるわたし,のアタマに即うかんだ
    “すぎたるはなほおよばざるがごとし”

    『論語』先進第十一
    子貢問。 「小池百合子決定不追悼與慣行追悼也孰賢。」
    子曰。 「決定不追悼也過。不誠実地追悼也不及。曰。然則・・・・。

    つまり。
    子,曰はく
    「過猶不及。」ヤリすぎたるは,ふつーにヤッてヤリ足りないより,なおいかん


    いや,ちがうなw
    莫見乎隠 莫顯乎微

    (かくしたる)ヨリ,見(あらわるる)ハ (なし)
    (かすかなる)ヨリモ,顕(あきらかなる)ハ(なし)


    小池百合子は,ここにきてなにをおもったか,例のうしろだて,ハッコーイチウな背景に
    媚をうっておくという,無用のことをしたw

    関東大震災時の,ニホンジンによる,朝鮮人虐殺,毆殺,撲殺
    暴徒でもテロリストでも何でもない,身を低くせざるを得ないうつむいて道の端を歩くしかない弱者を
    ムリヤリ引きずり出して,公衆の面前で “イッパンジン” が路上でリンチを行い虐殺した。

    とゆう,世に知られているのか知られてないのかよくわからんが,事實。
    もちろんこの,「いっぱんじん」は,
    今般施行されたキョウボウ罪法案の「キョウボウ罪」にはフれる,キョウボウ團體,
    に属さない。

    あるいは共謀罪には問われないはずの,イッパンジン,
    ということになるやもしれぬ,ならないかもしらんが。
    天道に照らしては明らかに「罪」である,ふつーにキョーボー案件,
    ,いっぱんじんによって共謀され,兇暴の集團となった案件ではあるが。
    罪の概念定義ではなく,イッパンジンの定義のハナシだw

    つまり,
    だいたいが「集團的」なんて言葉がつくと,ろくでもないことをしでかす,とゆう,
    あるいは
    イッパンジンの一般とは,單に,多數集團を示す,とゆう,
    ニホン語漢語の印象操作,
    のハナシだが。

    が,それはさておきだ
    これは――今回追悼文をおくらなかった,というだけのことにすぎないが,――
    些細なことではない
    必ず,小池百合子都政の,
    ・・・。
    千丈の堤もアリの一穴的,坹,

    ならぬ

    ボケツを,
    みずから掘ったw

    その素性を,非常に排他性に特化した意味の名を持つ,ナニナニ「ファースト」,という,きわめてラディカルなw
    政治團體の根源的な意,とその本質を,はからずもあらわに表している

    これはもしやネトウヨ,もしくは,
    自慰史觀とはなぜか言はれない,
    し,
    被害妄想史觀ともなぜか言はれない,
    アンチ加害史觀,の連中の・・・・・

    終わりの始まりだっw

    と思ってしまうのは樂觀主義者の玄ちゃんである
    インテリゲンチャン的には,
    これは,
    東洋思想に通底するw有因有果

    易,窮則變, 變則通, 通則久

    モノゴトの道理であるのら

    さかしらなあじつけをすれば。これは,
    この世はヒトの世,モノゴトとゆうのは,

    邪必歸正,棄暗投明!
    という
    もっとわかりやすく言えば,

    寝た兒をわざわざ起こすなよ,
    であるw

    國連人權問題の専門家・報告官が注視する中,わざわざ,

      アタシ,追悼しません,だって,この日は天災の被害者を悼む日ですもの,
      なんで,人災,アトローシテイの犠牲者を悼む日なもんですか

    的なことを
    よせばいいのにわざわざ言明しちゃう都知事w
    とゆう。

    この案件は。
    白人至上主義者がかつて,
    いや今もだ,
    無辜の黒人を樹に吊るしつづけた振る舞い,となんらかわることがない。
    ラディカルなことを言えば

    出自ルーツ,が,淵源辿ればはるか遠くブラックアフリカの奴隷貿易なのか,
    はたまた近代の生々しい出來事,(狭義もしくは廣義の)強制連行なのか,

    のちがい,にすぎない

    1923年9月關東大地震による混亂の中で,民間人の「自警團」がよってたかって
    「不逞鮮人」という名目のもと
    を虐殺した事件,
    ネトウヨと不要意なネット閲覧のせいで,風化の一途をたどっているが。

    考えてみてほしい,

    いま,もし 関東大震災がおきたならら
    日本人は,我々を・・・・あるいは,
    とおびえるひとびとがいることを。
    ザイトクカイに,ゴキブリ呼ばわりされ,連日がなり立てられてPTSDになった朝鮮學校の子供たちのことを。

    この帝國日本人の一般市民が,ニホンジンの排他的特性を極限まで暴走させた
    まったく,いわけの余地なき蠻行,
    それは,ごく普通の生活者の住む家のすぐ前で,くりひろげられた理性の崩壊,
    である。

    官憲も傍観した,いやときには煽ったフシさえもある,という。
    リンチによって殺された犠牲者には中國人も,日本人も,いる。
    ドサクサマギレに憲兵に連行され扼殺された文人らもいる。
    ちなみにその下手人は「滿洲」地域に出奔すると岸信介とつるみw,文化界を牛耳り,最期は服毒自殺した。
    敗戰の六日後である。

    いくら,大震災という,未曽有の混亂の中で起きたこととはいえ,
    日本に固有の,世界に似た症状はおおくあるものの,
    ―――何處でもあったこと,だから普遍のこと,ではない――
    日本で起こり得た,日本人が起こし得た,
    レッキとしたレキシのジジツなのである
    ・・・・・。
    とはゆへ。

    あなたがねとうよでなく,ふつーに理性ある方なら

      なんでw
      そもそも奴隷貿易と日韓併合いっしょにするなよ,
      かなり極端だな,このヒト,

    とおもはるるであろーが

    コトはもっと「コンゲン的」にして,本質的な淵源のハナシを
    すこしは普遍的かつ不偏的なコトを,
    もうすこし書くつもり。

    臆面もなく。
    つづく

    と。ところで今,
    學習能力のことを想っていてふと,思い出したんだがw
    つい最近,中國で,artificial intelligence、AI の,開発のために,だか学習能力向上だかなんだか,わすれたけど
    人工知能が中國人民のネットユーザーのコメントに受け答えする,とゆうサイトをつくって,
    當意即妙の答えを連發してたそーだが,

    あるとき 『中国共产党万岁!』 と書きこまれたコメントに對し
    AI,が
    「こんな腐敗しきって無能なのに,なにがバンザイだ,おかしいんじゃないか?」
    と返したそうだw
    あわてた当局は例によって斷開連接,したそうだがw

    ・・・・。
    日本社会でもし,AI が,KY,とか忖度,とか言う,日本ドクトクの美ガク,というかw
    知能というか機能を習得できないまま,あれこれ論理的に齒に衣着せずにしゃべりだしたら・・・・

    面白いことになるんでわないだろうか,などとひとしきりニヤニヤしてしまった

    ほんとのほんとに誰も言えてないことを・・・・,
    言っちゃあいけない場所で,もちろん一番絶妙のタイミングで,レンパツしてしまうAI

    人工知能にそこはかとない恐れや不安しか感じないわたしも,なんだかワクワクしてくるのであった
    すくなくとも日本人の一般的な論理性よりは,論理性を獲得しているであろう AI w

    論理の不在と欠乏をあちこちで指摘してまわるAI
    生身のやつくがやってると,そーとー排斥されて憎まれるだろうがw,
    なんてったってAI。
    人間じゃないもの,たとえ村八分にあっても排斥されたところで,その「自覺」はなく
    挫折もなければ,自閉症にもならない。

    脅迫されて殺害予告されたって動じないし
    元より「齒車」でできてる機械だから表向きには 「人間疎外」ともならないし。
    ガッコウにも行かなくてもいいし,ビョウキもなんにもないっお化けのごとムテキ。
    ・・・・・。

    そう,ビョーキ,いやハイセキのはなしであるが。

    あまりに長くなってしまったので分割した

    つづく

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    抗戰詩ⅵ 黄假我《錦州廣濟寺前對大塔》,唐鼎元《哀瀋陽》

    八紘一宇言語好, 到處殺人如刈草 その②

    1928年六月四日,奉天軍閥 “大張”張作霖 が爆殺される(皇姑屯事件 )。

    直後に六月八日民國革命政權の北伐軍が北京に入城,
    これをもって,南京を正式に,中華民國の首都とし,北京を北平と改稱,
    北伐軍旅を完遂させる。
    所謂, “大革命” ,である。
      
    張作霖死後,奉天軍閥大帥のあとを繼いだ,息子の張學良 は,
    父親の爆死が,ジツは關東軍特務の陰謀による謀殺であった,その真相を知ると,激怒した。
    なぜか帝國日本を憎惡し,中國からの滿洲地域の獨立を學良にそそのかす
    帝國日本の干渉を斷固拒絶,學良なりに抗日意識をムキダシにしたのであった。

    張學良は,自身の誕生日を,父の命日(農歴四月十七日)に變改し,
    帝國日本の「理念」を奸智とし,彼の滿洲經營にあれこれくちをはさむ關東軍の干渉にことごとくさからい,帝國日本の影響を東北地方から排除一掃することに,心碎くようになる。

    これは,ヒトの情としてあたりまえのことではないか?

    こそこそ隠れて愛する父親を,爆殺した帝國の特務に,なぜに,さらに自分が支配する東北地域の權益を明け渡してやらねばならないか?
    日本人が考えたことは,もしも滿蒙が中國であるならば,かなり圖圖しい,・・・・というか
    “出” 過ぎたかんがえではないか?

    正に文字通り,帝國日本人居留民とその軍隊は,南滿洲鐡道の通るあたりに限って認められ委ねられた保安義務から大いに逸脱したところまで,際限もなく “出” ばっていった。

    彼らがやってきたのではなく,我われ日本國側が出張っていったのである

    なぜか?

    これを別の言葉で言い換えれば,後に肥大し過大な欲望をかなえてくれると,コクミンの信望を抱かせることになる,理念にもとづく東亞の新秩序,

    八紘一宇,貴様のものは俺のもの,
    おれさまのものはおれさまのもの,なぜならわれわれは大いなる大和民族だから。
    的,理念。
    帝國ニホンジンはそうであるべき,と考えた。 

    天皇ヒロヒトは,天照ラス太陽に勝るとも劣らない世界に冠たるアラヒト神であるから。
    われわれは,ペルリが黑船にのってやってきたときからこれまで,他國の侵略を受けることなく,大清を打ちコラし,ロマノフ王朝とたたかって負けなかった,
    し,
    日本人は血の犠牲をはらって勝ち得た,帝國の權益は,まもられねばならなかったから。
    われわれニホンジンは,すこしの血を流したからには,すこしはうばっていいのである。

    しかしなぜか,愛する父親を殺されて,齒噛みした學良は。
    そうは考えなかった。

    さらに,學良は,三民主義による經世濟民,保公天下を理想として,國府軍との内戰状態による擾亂を回復させたいと考えた。

    日本人にとってはおどろいたことに,學良は,中國人であり故郷を愛し,父親の死を悼みもした。
    キョーイクチョクゴの理念に悖るようなことでもない,とわたしなどは思ってしまうんだが,
    帝國日本人は,學良を
    ナマイキな奴とキメツケタ。

    が,ともかくだ,

    學良は委細かまわず停戰をきめると,對峙していた中華民國國民政府軍との戰闘停止の申し入れをし,不抵抗を國府に確約する。


     張氏帥府  
    張氏帥府 瀋陽

    そして1928年十二月二十九日,
    それまで奉天派が使用していた北洋政府の五色旗から變易したのである,
    “青天白日満地紅旗” はためく奉天城内で南京國民政府の領導に服從することを,高らかに宣言(東北易幟 )し,
    これをもって南京國民政府・蒋介石 は張學良を,東北軍政の領袖として,東北の統治を彼に任せること,
    そして 中華民國の全國統一 の完成を宣告し,全國に通電を發した。


    入兵三百出十萬, 公私轉瞬悲塗炭

    1931年九月一八日,柳条湖事件いわゆる滿洲事變の勃發當夜,張學良 はチフスに罹患していて,北平にて治療中(鴉片中毒の治療だともいわれる),
    幸か不幸か東北軍の主力學良麾下の兵二十萬は長城以南に退いていた。

    加えて滿洲事變の勃發後,奉天から追い出された,中國軍十萬餘。
    すなわち當時,“國民政府から任されて東北三省の軍政を支配していた張學良”,が掌握する,東北軍あわせて四十萬弱の軍隊が,南京政府中央の不抵抗の方針によって,
    帝國日本の武力侵寇に對する抵抗を,すべて「自重」するよう抑え込まれていた。

    抵抗の志やみがたくも,攘夷の忼慨もだしがたく,しかしながら,中央の方針によって一時撤退を余儀なくされ退避していた,その東北軍の大屯營は,遼寧省錦州城外に在った。

    この錦州は。
    1931年(昭和六年)十月八日關東軍の爆撃機十數機より空襲爆撃をうけたところ。

    甚大な被害はなかった (ものの,白人が被害をうけたこと特記しておく)

    帝國日本軍,最初の空爆,ということらしいが,

    この錦州空爆の作戰指揮をとった“天才”石原莞爾 によればなんとなくおこなった“偵察行動”だった,そうだ。

    ときに,陸相・南次郎は「中國軍の對空砲火を受けたため,止むを得ぬ自衛行為」,
    だ,といい,
    さらに張學良が錦州に集結させた軍隊を駆逐しなければ日本の
    「これまで營營と “築き上げてきた”ニッポンの權益が犯される恐れが強い」
    「つまりこれはまさしく,ソンリツキキジタイ!
    と,言い張った。

    そして,外相・幣原喜重郎が,錦州には戰火は及ばないだろう,
    と國際社會に表明していた,まさにそこらヘンに,
    關東軍は爆撃を加えたわけであることをもって,
    帝國日本政府は,曾ては陸軍の長,フィリピン総督もつとめたヘンリー,純白人はもとより「名誉白人」の「既得権益擁護」にも理解あるか,と,おぼしきアメリカ國務省長官ヘンリー・ステイムソンに,

    「これこそがジツに,“日本の自衛權發動”!
    と,いーわけした。

    が,この爆撃をもって 「自衛権?どんだけー?ありえないっ」,
    と,ビックリしたヘンリー・スティムソン長官は
    「パリ不戰条約違反以外のなにものでもないっ」
    と,キメツケて帝國日本を,強く,非難した。

    そもそも,帝國日本の天皇ヒロヒト氏は,
    かつては関東都督府守備隊,當時は關,東,軍と呼ばれていた陸軍と,
    朝鮮から馳せ參じて “越境”將軍 の異名をとった朝鮮派遣軍司令官林銑十郎らが滿洲で起こした軍事行動とは,

     “滿洲民の抗日運動カゲキ化” に對して専ら
     “治安維持”と,“居留民保護のため”,やむを得ざる “膺懲”である

    との認識をもっていた
    フシがある。

    “限定的”な武力の使用として極めて小規模な軍事行動,と聞かされた天皇のオツムの中では,そのような理解がなされていたようだ,
    さらにはなぜか

    張學良君いずれ奉天に歸還することあるべきが望ましくもあらマホシかな,的,前提が陸軍にはとうぜんあるものと。

    とらえられあそばした,らしい。

    奉天某重大事件つまり張作霖爆殺のときと同様,再び關東軍に,ダマサレた。
    らしい
    統帥權干犯,なんだか,天皇の軍事容喙だか,陸軍のトッパツジタイだがなんだか,よく知らんが。

    立憲君主制において,軍事行動の“限定的”,この意味,とは
    このようだった,
    して現在,“限定的”軍事行動の定義とは,結局どういうものなのか・・・,

    つまるところ主権者たるらしの,このわたくしメも,長いこと考えているが,
    未だよくわからない。
    勿論,今般の“自衛權”發動すべき,ソンリツジタイの事例とともに,
    予測もつかぬ。

    黄假我 《錦州廣濟寺前對大塔》

     錦州廣濟寺前對大塔    Jǐn zhōu Guǎng jì sì qián duì dà tǎ

     來對浮圖思渺茫   lái duì fútú sī miǎománg
     遼西終古總荒涼   liáoxī zhōnggǔ zǒng huāngliáng
     千年風雨鳴歸鳥   qiānnián fēngyǔ míng guī niǎo
     萬劫滄桑剩夕陽   wàn jié cāngsāng shèng xīyáng

     浮圖の寺(廣濟寺)に來たりて對するに渺茫と思う
     遼西は終古(きわまりなく),總べて荒涼たり。
     千年の風雨にも,つねに歸りきたる鳥が鳴く,
     萬劫滄桑に剩(あまし,のこされ)るは,ああ,夕陽のみ


     *廣濟寺=遼代1057年建立 遼寧省南部錦州市。大塔が有名 
     *浮圖=佛,あるいは佛教徒,梵語音譯( fú tú 宝塔 浮屠とも)
     *終古=久遠 永遠,無窮
     *萬劫=種種の毀壊滅難のくりかえし。佛敎のいう
      世界が生じ毀滅に至る過程を一劫となす,その萬回
     *滄桑=滄海桑田の略,
      大海變成農田,農田變成大海つまり王朝交代。世事多變。人生無常;
     *剩=余す,余剩



    國讐父仇何掛齒, 將軍新寵如花美

    ところで例によってネトウヨ大本山・ウィキペじぃアだが張學良クンについて
    いろいろくわしく書いてある。
    アヘン中毒であり,民の膏血搾り私腹を肥やす
    軍閥の攬把(領袖),貪婪で,ケタハズレの金持ちの成り上がりであったこと。
    わたしも,
    そこに異論はない。
    ついでにつけくわえれば,重情好色,花花公子,と。

      張學良

    とはいえ,それまでよりはましな,ある程度新しい割據のスタイルを模索して
    當時,東方のコックピット,極東の火薬庫,といわれた東北地方の治安を,
    維持することに腐心していた,
    ――なべて東北の領民にとって善政とはいえないまでも――

    實際,張學良政権になって近代的な法による支配をめざしその行政府は恤民的な政策を施行する努力に傾注,一定程度の成果 を出していた。

    というひともいた。

    當然,張學良と,もとより敵對し,あるいは張父子に北方邊陲に追いやられて
    いた他の軍閥や馬賊,にとっては,すこぶる目障りな存在であった。

    ・・・・もちろんある帝國の人びとにとっても,

    ということはいわれている。
    ようだ。

    なぜに目ザワリか。
    なによりも,滿洲にすむ三千萬からの一般大衆,學生らの求める,
     “排日,という方向性で東北住民の魂に觸れその意氣によく適い”
     人心を収攬 していた,ために,
    小張元帥の聲望籍籍,有名赫赫,日ごとに高まるばかりとなっていた,から。
    ・・・・・。
    少なくとも東の滄海からきた倭人の野蠻横暴ゴーマンよりはマシだろう。

    東北出身で,教養も學問もあり,北京官話も訛らず話せる,英語も堪能,
    英米との交渉もスマートにこなし,國際支援も,それなりに取りつけることができる
    という張學良に,
    ブルジョア階級も,これを支持しはじめていたところだった。

    というウワサ。
    があったからだ。
    このウワサあったからこそ,帝國日本は自國の権益縮小を大いに恐れた,
    というはずだったんだが。
    これはネトウヨの理論構築の前提だったと言う気もしないでもないし。

    しかし,インターネットで檢索すれば。
    整合性ないネトウヨ大本營,的検索結果一番にでてくるところにはそんなことは,
    書いていない。
    おそらくカン違いしているのは わたしのほうなんだろーが。

    而して,ほんとにそんなウワサがあったかどうかはさておき,
    日本は治安の著しく擾亂する滿洲,においては,權益の維持のため
    一層ヤッキになり,

    いずれは,

    自衛權を發動するという予測のもとにか,奉天城内に向けるべく大砲を,

    いつのまにか運び込んだ。運び込んでいた。


     ▼ 張氏 大帥府靑樓 (大張小張的“宮殿”)
    瀋陽市 張氏 大帥府靑樓 「小張“宮殿”」

    由來亦有興亡事, 奇恥大辱古無此

    さて,帝國日本の妄動
    “關東軍による治安維持” と言う名の “限定的” 武力行使,

    天才・秀才・・・・石原莞爾

    かねてより構想する對ソ戰にむけた満蒙領有支配,そのもくろみが潰れさると,方向は微修正されていき,
    日中戰爭がはじまるころには,不戰をとなえて,陸軍の主流からは外れていく
    世界最終戰爭アルマゲドン的デンパケイの示唆で心一杯,若干の「轉向」あり・・・・

    ソヴェト勞農政府軍との戰いは,非天と天の戰いか,アフラ・マズダとミスラかしらんが,阿修羅のごとく恐れて,
    今はまだ,今はまだ,まだだ,まだだ,
    と言いつづけながらホケキョウ唱えて阿修羅身の護法を腹の中で念じていたのかもしれない。
    とおもわれる,フシもある

    もとよりホケキョウ信者の彼は,
    パナウェーブ研究所がキョーサントーを恐れるがごときほどには,非理性的ではないにせよ。

    いずれにせよ,
    東京裁判っ,,帝國日本を裁くのなら。

    そもそもはっ。

    黑船よこしたのは,おまえら,ぢゃないかっ
    とばかりに,眼光鋭く

    「ペルリを呼んでこいっ」

    とのたまった,御仁
    (このヒトがなぜに,ジギャク史觀の元祖と言われないのか,これはわたしには不思議なこととおもわれる)

    究竟,ホケキョウ信徒か,イタコ信者か,ただの天才なのかはよくしらんが
    デンパケイであることにはほとんど異論はないだろうとおもわれる

    もしくはこうもいえる,
    カガク的にも,唯物論的にも,かれの最終決戰を予感したデンパ予知,より,
    毛澤東の實證的精神による『持久戰論』の方が,第二次世界大戰の勝利には,
    比較的近かった,と。


    彼が,彼らが,いくら天才であっても,手足となるのは天才ではないのであるw
    そして,補給なく,降伏するな,「玉碎けるが如く,うつくしく碎けちれ」,
    と命じられて,國柱,國殤されし軍人よりも,

    奴隷はいやだね,と「同歸於盡」を志願した,もとより,食うものもない,
    貧乏人たちで構成された紅軍のほうが・・・・・

    同じネイションに生きて,同じパトリオットリズムではあるが。

    輜重,兵站,…・補給を全く無視した,なんとかなる,の,セイシンロン,
    が,
    まずもとより補給もないのはいたしかたなく,武器彈藥をやってくる敵からどう奪うかを考えた,抗日ゲリラたちの,すなわちゲンジツと地の利を戰術にとりいれた,セイシンロン,


    負けた。

    いずれにしても,彼方此方双方の兵隊の腹を満たすのは,そもそもその地に生きるその地の土を耕す零民の腹を満たすべきもの,

    そしてその,彼らと戰爭被災民の,つまりそもそも中國人の腹を満たす,わずかばかりの食料は。

    かれらの抗戰開始以來。いや,柳条湖事件いわゆる滿洲事變の時代から
    現地の民は日本軍に略奪される前に,東北抗日義勇軍や,はるばる北上してきた紅軍,八路軍にこそ,喜んで據出したいと考えた。

    八紘一宇な大東亞の盟主らしきオオミカミの手先に捧げたいと思う民は,
    中國大陸には,ザンネンながら,いなかった

    ということだ,

    この嚴然たる因而「結果」,
    「事實」といってもいいかもしれない歴史認識が,
    われわれには殘されているのみである。

    少なくとも
    帝國日本が石原カンジ的最終戰爭に至る前に,敗戰したこと,
    そしてアルマゲドン的世界,最終,兵器,を二發も落としていったアメリカに
    隷属している,いまや核の傘にいれてくれろとすがる,丸腰ならぬ,ニッポン州
    右に言わせればへっぴり腰の,
    核廃絶に及び腰の…・我がニッポン,國,モドキ

    これは疑いようない今のゲンジツだ,かの,最終兵器は・・・・・。

    地球を少なくとも一回だけ滅亡させるに足る・・・・・。
    最終戰爭抑止,だそうだ,w
    そりゃそうだ,始めた途端に亡びるなら,兵燹,の,烽火をあげる暇もない,沙場と化して途端に宇宙の塵となってしまう。
    三光作戰はじめるまでもなく・・・・ジンカンに阿修羅上場の浩劫おこるまもなく。
    あえていうなら,戰爭起こる間もなく破滅するなら戰爭だけは抑止できる,
    但し,人類滅亡は抑止できるとは,限らない,という。

    優先順位の狂った核抑止論。

    アカではないマルクス主義者は過去については「時系列」信者であり,
    しかもトリアージ教徒である,優先順位がある,というこのことがすべて,なのである。

    單純にジケーレツを考えれば。
    いったん地球を破壊してしまえば,そのうえで,敵基地が應戰してくることも,ミサイルを防衛することもできない,という明快さの方にココロうばわわれてしまうのである

    抑止できるのは,地球を存續させること,のみ,という。

    世界を何回も破滅させるに足るプルトニウムをいくらためこんでたって,
    破滅させられるのは,ただの一回だけなんですねー,という,

    これがわたしのゲンジツ認識だが
    なにかまちがっているだろうか?

    そう,大体だ,この,ご時世に,キムジョンウンは
    てぽどん,だ,火星だなんだいわなくても,
    六ヶ所ムラの再生工場に,トマホーク級一發ブチ込む,と

    おどせば,それで,す,む,の,で,あ,る

    世界は一瞬にして,一回潰滅する。
    それを言わないところを見るとやっぱり,丁丁發止の裏にはナニかあるw
    と思わざるを得ない

    近代の戰爭は商賣。
    トランプは既に十二分に目的を果たしているぢゃないか

    河岸と田野で狂犬吠えつけり

    ふんっ ` ´

    さて
    ハナシが際限なくそれていったが,ハナシを戻すと山海關の東の軍天才秀才作戰參謀は,錦州爆撃のあと,
    つぎにはなにをかんがえたのか,と,かんがえてみれば,

    今度は,『滿洲國』建國,へと突進む。

    特務機關の暗躍で,復辟の夢に,ココロ蝕まれ喪心惱亂自大狂の
    宣統廢帝プーイー(愛親覺羅溥儀)を,
    極秘の内に,ナントカ温泉に誘い出す

    ――ちなみに途中で,万一政府(=帝国だw)バレたら,プーイーもろとも爆弾でフッ飛ばして “同歸於盡” の覺悟もあったという,どうにも亂暴者ばかりの天津特務機関の 謀略――であった。
     

    ついには内地の民も,満蒙領有國家建設という,大きな夢に擧國一致で熱狂し,

    滿蒙地域の帝國日本居留民のみならず,なぜか中國人モンゴル,朝鮮族,女真族からラマ教徒までから,熱く切望され,推戴されたんだ,
    として,ヒロヒト天皇の臣たる“兒皇帝” プーイー“御執政”が誕生する

    のちには,しょうことなしに格上げされた康徳帝“御親政”のもと,
    ・・・・・。
    詩に曰く

    萬劫滄桑剩夕陽, 民に殘されしもの,夕陽のみ

    と,いうコレが證據の,
    漢滿鮮蒙・南蠻東夷北狄西戎+日本,五族共和の王道樂土,理想の新國家
    を幻出せしめた,とつたえきく。
     

    唐鼎元《哀瀋陽》 二十年九月十八日起至二十六年三月止



    昨夜夢中猶漢月, 夢醒不是漢山河

    古風七言歌。宋韻,四解。換韻ごとに一句目押韻。  
      
      河倭(歌戈韻),
      萬炭泛(寒山韻), 
      事此毀貔姿支思韻), 
      塁鬼美已(齊微韻)


    張學良は,おもてでは檄を飛ばしながら國讐も父復仇も歯牙にもかけず,
    自身の兵を温存し,不抵抗をきめこみわずか三百の兵の日本軍に奉天
    入城をゆるしてしまった。 
    十萬餘の兵を退却させ,いっぽう遼東から急を告げる(羽書)を南京に發し
    救援を請うべきなのにまことにゆっくりしたものだ,何のための虎兵を養って 
    いたのか。
    敵を見たとたんに冬こもりのようだ,之鞭打ち之蹴るも動かず,
    この上は,蒋介石の御覺えめでたく,その寵愛をうけること花の美の如し。

    夢醒の間,公私も瞬く間に轉じ住民すべて塗炭の苦しみ悲しみ。
    哀瀋陽。


       1936年
             1936年張學良



    この詩の含意は。こんなカンジだろう,手嚴しい。
    そんな瀋陽を吊哀する。
    しかしながら,この,《哀瀋陽》
    のちにつけられた,とおぼしき題注がある,

    “民國二十年 (1931年) 九月十八日起至二十六年 (1937年) 三月止”
    と。

    唐鼎元 《哀瀋陽》の詩意。
    詠懷,詩情もまた複雑である。
    あるとないとで大違い。
    “三月止”
    ・・・・。

    題注,この語があるゆえに,載せようとおもった詩である。 

    七・七事變勃發前1937年三月,ようやく第二次国共合作,内戰即時
    停止一致して抗日にあたるむね宣言された。
    その最大の功労者は,やはり。
    だれがなんといおうと, 西安事件 を起こした張學良少帥 ,なのである。

    その間,權力闘爭に必死で,顧盼されることなく見棄てられてしまっていた
    東北の淪陥四省。 “光復” までの長い長い道のり。
    張學良は蒋介石に憎まれ連行。
    臺灣で,蒋介石の逝去まで幽閉軟禁される。

    このあたり,抗戰,いや歴史の複雜に綾なす絲,空に浮かぶ繊雲弄巧。光。

    張學良 については☞ 『東亞新秩序』の前景氣,超過利潤⑤ 《過塘沽》
    黄假我詩はほかに☞ 黄假我 《瀋陽中秋對月》



    有所思

    昨夜夢中猶漢月, 夢醒不是漢山河

    戰後。
    日中國交回復後しばらくして,“慰靈の旅びとの日本人” が,滿洲を訪れる。
    そっと,たむけるものすべて,花であろうが石であろうが木切れであろうが,
    慰靈の旅人が立ち去るや間髪をいれず取り除かれる,
    中國という大地,天道のゆるしのもとに。
    默默と,除かれる。
    “了” とはならず。 “解” ならず。 時期は,尚早ということだった,
    心情において,しのびがたい,當然そうであろう。

    日本人の何百倍もの數の生命が日本人によって奪われつづけた大地である,

    おおきなおおきな,真っ赤な,滿洲の “日輪が困憊する” ほどの
    兵燹の,“丘八禍”,の丘。
    靑山江河黄大地
    他の “くに” を冐し,瀆し,他國の大地を力で奪う,ということはそれほどのこと。

    そうした斷ち難い,地の,血の,怨恨も,長いときをへてようやく薄れたかけた
    かに見えた・・・・,
    日本人の慰靈の旅を,愍ましく不憫の心のおもいやりで,ようよう,受け入れる
    そういうことも, あるいは,出來ようか,という,・・・・
    彼らが涙を呑み込む時期。

    世紀の變わりメの頃からだろうか, 狂騷とともに日本において信じがたい暴言の
    數かずが,わたしたち戰爭犯罪人の子孫たち,その惡狼の口から吐き出される。
    狂騷はいつしか・・・・21世紀に狂想となって定着し,土着し,惡意を持って
    粘着させられ,そして稚拙極まりない外交の中でも應酬されつづける。

    いまでは,たしなめるものもいない,か,に見える,このくに,の,ありふれた風景,いや“風土” である。

    風,と,土。

    他國のうけた被害を想像せずして自國の加害の事實はうけいれられない

    日本人のどれくらいが,彼らが,かつて受けた被害,を,想像するだろうか,

    想像力を驅使しなくとも,
    自國の被害は知るものである,しかし,それはなぜ起きたか,想像できなければ。ほんとうに自國の “被害”を, “思”,い “想” ったことになるだろうか ?

    なんどでも書くが,
    想像できなければ,日本人は石ころや木偶とかわりない。
    アジアでは,中國では,その,石ころも,樹木も,ことごとく受害したのである。
    彼らの山河は “國” 破れて猶あり,民の受害をことごとく目睹しきって,
    ただただ復すを待った。

    “同胞受苦,河山待復”
    “光復” という言葉は,天地人間(ジンカン)その浩劫、それら一切の受害が,復すを待つ,永い永い時間を象徴する言葉である

    かれらのいう “光” とは何だろうか?
    それは,
    空閒が,土が,生きるものいっさいが,たとえ受害しても,つまり たとえ天が受害しても,光は蔽われ,隠れているだけだ,という,
    文 “明” への,
    “國家” をこえた,大地と,日月の運行,そのもとに生きる “想” 念が,

    彼ら,中華思想,文明に對する,矜持,自豪が,

    光復

    という言葉を生んだ。

    古來より,漢土につたえられてきたことばである。

    單に,異民族の侵略から,のがれて,漢民族のもとに “國” 土が復したとき,それを光復という。
    「革命」とおなじくふるいことばだが,易姓革命のときには,王朝が易ってもこの、光復という語は使われない

    そのことばのいみする
    あられもないさま, あられもなさ

    それは,まさに曙光を奪われたことがある民にしかわからない,ということかもしれない

    萬劫滄桑剩夕陽, 民に殘されしもの,夕陽のみ

    あとには夜が待つのみである,という日々。
    この句の深さ,闇のくらさ,ながさ。
    これを映して剩(あまり)あり,と。

    もう一度
    “黄假我《錦州廣濟寺前對大塔》 
    に目を通していただければ,と思う

    瀋陽市 張氏(張作霖・張學良)大帥府

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    抗戰詩ⅹⅳ 王冷齋《盧溝橋抗戰紀事 四十首》二首,田翠竹《甲辰雜詩》其六

    “皇軍”笑落秋風裡, 亂血凝紅濺馬蹄
                                ――田翠竹


    QiuJuesue.jpg《盧溝橋抗戰紀事 其三十八》王冷齋

     盧溝橋抗戰紀事 其三十八  Lúgōuqiáo kàngzhàn jìshì

     血灑長空大地間    xuè sǎ chángkōng dàdì jiān
     寒流衰草盡朱殷    hánliú shuāi cǎo jǐn zhū yīn
     忠魂合傍佳人冢    zhōnghún hé bàng jiārén zhǒng
     匹馬西風淚欲潸    pǐ mǎ xī fēng lèi yù shān

    注:
      我軍轉移後,予在長辛店附近公主墳收集隊警,
      乃遭敵飛機來襲,左右頗有傷亡。血濺予身,不騰悲痛。


    注:我が軍,轉線移駐後,予,長辛店公主墳附近にあり
    收集されて警戒中,
    乃,敵飛機の來襲に遭遇,左右で頗る受傷するもの,死すものあり。
    血濺(ちしぶき)予の身にあたり悲痛にたえず。

     血,灑(そそがれ)て長空,大地の間     
     寒き流れ草,衰え,盡(ことごとく),朱く殷 (あかぐろ) く   
     忠魂を佳人の冢の 傍に 合すべし   
     匹馬も西風に涙,潸潸,おとしながさんとす


    意譯,我流につき間違いはご指摘ください



    滄波極目江鄉恨,衰草連天塞路愁――陸游

    從軍中,詠まれた絶句群なのだろう
    佳人の冢,この近辺は清朝の公主王女の墳墓の地,靈廟多い
    が,むしろ

    按ずるに,長空,衰草,西風,は
    匈奴單于に贈られた王昭君の墓,靑塚を連想させる

    陣亡すなわち草生す丘。
    杜甫いう
    “古來白骨無人収”


    この絶句の力強さは, “呼" し, “殳” を執り,無 “虞" という,押韻字にあり,
    また,字句のことごとくすべて,靈活の表現だ,と感じられた

    七七事變いわゆる盧溝橋事件事變中,宛平城を死守した,王冷齋という英傑の文人の,まさに劍膽簫心。
    言志の剛,勁,聲音の温柔。

    それは,閩候人(!),王冷齋,という英傑の俠骨の事跡を知らずに讀んだとしても,
    詩を解すものなら壓倒され息をのむ力強さ。

    いずれ四十首すべてを載せたい。

    この人は東京裁判の際,東京に來て,いわゆる日中戰爭最初の「北支」の情況を
    つまびらかに作證したことでも有名である(かどうかは知らんが)

    中國の知力膽心ある政治家はみな,すごい詩を書く,と改めて知らされた
    四十首である

    《盧溝橋抗戰紀事 其四十》王冷齋

      盧溝橋抗戰紀事 其四十  Lúgōuqiáo kàngzhàn jìshì

     延安振臂起高呼    Yán'ān zhènbì qǐ gāo hū, .
     合力前趨願執殳    hélì qián qū yuàn zhí shū 
     萬眾一心同御敵    Wànzhòngyīxīn tóng yù dí,
     山河保障定無虞    shānhé bǎozhàng dìng wú yú 

     延安は臂振り高く呼ばわり,起こす
     力,合わせて,殳を執り前趨せん願う。
     萬人,民衆一心同じくして敵を制御せん,
     山河を保障するは,定めし虞(おそ)れ無し,虞,の地!

     



    この絶句。
    この四十首連作の最後をしめる,にふさわしい

    とりわけ結句は神韻! 定無虞。 dìng wú yú 


    山河保障定無虞!

    三十七年七七事變いわゆる盧溝橋事件直後の連作である。

    この信頼,信望。

    冒頭語の「延安」は當然,北上抗日先遣軍八萬餘軍がたどりついた延安。
    春秋戦國時代晉國故地,そのあたり,は,古稱,雅稱,
    「虞」,
    である

    定無虞。
    恐れなし虞地が山河を保障する

    1937年夏からはじまった抗戰の端初から絶大な信頼をうけ,
    以て人民が合力していた
    さま。

    哈哈
    「詩日」、「有詩為證」だw

    日本のネトウヨはよーちなウソばかりいう

    わたしはすくなくともアンチ東京裁判史觀より,
    あのグッドルッキンキンキーな前防衛大臣のポーレンチより,

    赴東京,作證皇軍蠻行したこの人の言うことを信じたいなぁ

    田翠竹 《甲辰雜詩》其六

    “序:一九四四年夏,日寇陷湘潭,兵馬倉皇,生靈涂炭,
     余避難于古塘橋畔,日夕數驚,以詩記之。


    序:一九四四年夏,日寇陷湘潭,

    兵馬倉皇(あわてふためき),生靈(萬民百姓)涂炭の苦,
    余,古塘村の橋畔*に避難して,日夕驚くこと數おおく,以て詩之を記す


     其六

      古道旗翻夕陽西    Gǔdào qí fān xīyáng xī
      村前村後有人啼    cūn qián cūn hòu yǒurén tí
      “皇軍”笑落秋風裡  “Huángjūn” xiào luò qiūfēng lǐ
      亂血凝紅濺馬蹄    luàn xuě níng hóng jiàn mǎtí

       古道に旗翻り夕陽は西に,
       村前村後,いたるところ人の啼(なきごえ)有り。
       “皇軍”,笑いながら落ちゆく,秋風の裡に
       亂血を馬蹄,濺(はねあげ)紅く凝りぬ     濺  jiàn
     
     濺

      濺 汚灑也。
      ——『説文解字』。
      段玉裁注:“謂用汚水揮灑也。


      濺汚はおもに血しぶき



    抗日戰時,江南,江左,福建閩侯,廣東蕃禺に至る中國大陸の東南岸の,
    詩骨,斯文の傳統でもある,

    一簫一劍平生意

    諸夏中國は縦横に廣く深い。

    テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

    馬一浮 《千人針》《短歌行》

    八紘一宇言語好, 到處殺人如刈草
                              ―― 馬一浮《千人針》

    八紘一宇 ,その言や好し,到る處,殺人,あたかも草を刈るが如し



    帝國日本人の多くが悲惨なおもいをした,多くの 日本人 犠牲者をだした,
    大東亜戦争,太平洋戰爭。
    その悲惨を語ることで,すませてしまうなにか。

    太平洋戰爭のみを見つめてしまえば。
    たしかにミスターヒロヒトがいうよう,

      我が國人が あまりに皇國を信じすぎて 英米をあなどつたことである
      我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである

    であり,英米をあなどつたから負けた,神がかりセイシンロンが非科学的だった,という反省がなりたつ土壌

    しかし,じっさいには,

    中國大陸への,非道の行いあって,その因あっての結果對英米戰爭である。

    パールハーバー以前に
    11年間にわたっておこなわれた帝國日本による侵寇,侵略行為
    中國大陸における動産不動産の一方的強奪と破壊,
    非戰鬪員,現地住民の非力の老人,女コドモまで殺戮した日中戰爭の,記憶を
    わすれさせ,加害のジジツを闇に葬ることになる,粗雑な平和の希求,平和の誓いは,
    所詮日本人の自己満足史觀のうえにたった「反省」である

    今日は,盧溝橋後,華南に侵入した「支那」派遣軍と,江南の抗日勢力が苛烈にぶつかりあって,現地住民のおびただしい血が流された
    淞滬會戰,八・一三淞滬戰役の始まった日からちょうど八〇周年をむかえる

    そこから南京屠殺,まで一キ呵成にすすんだ,現地住民をまきこむ戰鬪,
    日中戰爭の泥沼に足を踏み入れた,帝國,皇軍,ヒロヒト大元帥と皇族が將として,司令官を務める作戰は

    地上戰
    だった。

    日本人の戰後の「反省」は内地の焦土からはじまり,
    帝國日本軍の壯絶なな行軍,餓死,病死,玉碎,太平洋の海と空に散った若者,特攻隊の不条理,學徒の徴兵,内地の飢え,引き揚げの悲慘・・・・・,無數の無意味な死,・・・・,

    沖繩の地上戰で,おびただしい同胞が,帝國日本軍作戰遂行のために
    殺された事實が聖戰なのだから,敵國民の殺戮は聖殺戮。

    である。

    その悲劇は語られ戒められるが,
    もう戰爭はやめよう,とはいわれるが,

    もうわれわれは,二度と殺戮者になるのはやめよう,
    とは語られない最近のニホンジンの反戰である。

    今はもう語られる必要もない,ということか

    人間魚雷,特攻
    丸木舟の自爆テロをしいられた,ミスターヒロヒトの赤子たち。

    それらの悲劇があった背景には,英米への侮りがあった?

    こんなソウカツをされてしまう,ニホンジンの戰爭觀,平和主義は,
    世界のどこでも通用しない,とりわけ帝國ニホンジンによって多大な「迷惑をこうむった國國のひとびと」には

    侮り,侮辱し,中國は主權なき我が領土,とキメつけて,カッテに収奪と侵攻をつづけ,
    はてに殺戮と寇略をほしいままにし,
    そのはてに,ようやく
    日中戰爭の開戦がありw

    しこうして日中戰爭泥沼化,英米の反発,しこうして日米開戦である。

    したがってつまり。

    われわれ帝國日本人と曾て呼ばれた国民が,いくら心のなかで鬼畜米英とののしったことがあったとして
    ゲンロンで,スローガンで學校で街頭で,英米人をあなどった,とて,だ。

    そのために日中戦争がはじまったわけぢゃない。

    英米人は,侵略されたわけでもない。彼らの植民地において,彼らは既得権益を奪われたが

    いったいに。
    せんだって引用したヒロヒトの文言には,日本人以外の被害者の姿は,ない。

    千人針變萬人坑,尺布何能召五丁

    千人針に,萬人,坑(あなうめ)さるる,「五人組」召し,尺布のごときがなせるさま

    『ビルマの竪琴』という小説がある。
    非常に日本的な戰爭小説である,
    この「反戰ものがたり」は,究竟,侵略された緬甸の現地の民の聲は一切ない。
    主役は「 “歸”れなかった同胞」 であり,
    還らぬ,意によりて,囘國せぬ “水島上等兵”の “こころざし” のものがたり,
    だが。

    戰爭の一面,それも,視たい部分しか見ていない日本的作為的,身勝手な反戰小説である。

    わたしは「ビルマの竪琴平和主義」とでも,戰爭ゼッタイハンタイ主義とでも名づけたいキ分。

    そしてまた,日本人は,佛道の本質を理解しているのか?
    という根本的な疑問は,世界で多く發せられたであろう書物だろう。

    《千人針》馬一浮1

       麥積山石窟. 佛弟子

    《千人針》馬一浮2

      《千人針》    馬一浮

     遊子征衣慈母線    Yóuzǐ zhēng yī címǔ xiàn
     此是太平桑下戀    cǐ shì tàipíng sāng xià liàn
                 一解   去 霰

     島夷卉服亦人情    Dǎo yí huì fú yì rén qíng
     何故云鬟偏教戰    hégù yún huán piān jiào zhàn
     街頭日日聞點兵    Jiētóu rì rì wén diǎn bīng
     子弟家家盡遠征    zǐdì jiā jiā jǐn yuǎnzhēng
     傾城歡送皇軍出    Qīngchéng huānsòng Huángjūn chū,
     夾道狂呼萬歳聲    jiádào kuáng hū "wànsuì" shēng
                 二解  平 庚

     衆裡抽針奉巾帨    Zhòng lǐ chōu zhēn fèng jīn shuì
     不敢人前輕掩袂    bù gǎn rénqián qīng yǎn mèi.
     一帨千人下一針    Yī shuì qiān rén xià yī zhēn
     施與征夫作蘭佩    shī yǔ zhēngfū zuò lán pèi.
                 三解   去 隊

     大神並賜護身符    Dàshén bìng cì hùshēnfú,
     應有勳名答彼姝    yīng yǒu xūn míng dá bǐ shū
     比戶紅顏能愛國    Bǐ hù hóngyán néng àiguó
     軍前壯士喜捐軀    jūn qián zhuàngshì xǐ juānqū
                 四解   平 魚

     拔刀自詡男兒勇    bá dāozì xǔ nán'ér yǒng
     海陸空軍皆貴寵    hǎilù kōngjūn jiē guì chǒng
     白足長憐鹿女痴    bái zú zhǎng lián lù nǚ chī
     文身只是蝦夷種    wénshēn zhī shì Xiā yí zhǒng
                 五解   平 東

     徐福乘舟去不回    Xú fú chéng zhōu qù bù huí
     至今人愛説蓬萊    zhìjīn rén ài shuō Péng lái.
     豈知富士山頭雪    qǐ zhī Fùshìshān tóu xuě
     終化昆明池底灰    zhōng huà Kūnmíng chí dǐ huī
                 六解   平 灰

     八紘一宇言語好    "Bā hóng yī yǔ" yányǔ hǎo
     到處殺人如刈草    dào chù shā rén rú yì cǎo
     蛇吞象骨恐難消    Shé tūn xiàng gǔ kǒng nán xiāo
     火入鬆心還自燎    huǒ rù sōng xīn hái zì liáo
                 七解   上 巧

     蓽路戎車勢無兩    Bì lù róng chē shì wú liǎng
     水碧金膏看在掌    shuǐ bì jīn gāo kàn zài zhǎng
     明年 《薤露》 泣荒原   míngnián “Xièlù” qì huāng yuán
     一例桃根隨畫槳    yīlì táo gēn suí huà jiǎng
                 八解   上 養

     千人針變萬人坑    Qiānrénzhēn biàn wàn rén kēng
     尺布何能召五丁    chǐ bù hé néng zhào wǔ dīng
     羅什當筵食蒺刺    Luó shén dāng yán shí jí cì
     佛圖隔陣訝風鈴    fú tú gé zhèn yà fēng líng
                 九解   平 庚

     四海爭傳新秩序    sìhǎi zhēng chuán xīn zhì xù,
     河間織女停機杼    hé jiān zhīnǚ tíng jī zhù
     秦都閭左已空閨    Qín dū lǘ zuǒ yǐ kōng guī
     夏后中興無半旅    Xià hòu zhōng xìng wú bàn lǚ
                 十解   上 語

     君不見櫻花上野少人看 Jūn bùjiàn,yīnghuā Shàngyě shǎorén kàn
     銀座歌聲夜向闌    Yínzuò gē shēng yè xiàng lán
     板屋沉沉嫠婦嘆    bǎn wū chén chén lí fù tàn
     朱旗猶夢定三韓    zhū qí yóu mèng dìng sān Hán
                十一解   平 刪


    旅遊の子のよそゆき衣服を縫う,慈母の糸,
    此れは太平,桑下におもう心。
    島くにの卉服の夷人とてまた人情あらん,
    何故に雲鬟結いしオンナら,偏りて戰わしむか。

    街頭では日日,兵士らの出征点呼を聞き,
    家家,こぞって子弟を遠征せしむ。
    傾城の皇軍出征を歡び送るか,
    道を挟んでバンザイ狂呼しあう聲。
    衆,裡に針を抽し巾帨を奉じ,
    敢えて人前では輕がるしく涙みせず袂を掩いて。
    一帨に千人が一針をいれ,施し與え,征く夫に秋蘭を佩と為す
    オオミカミ賜いし護身符,榮えある功名にかのオンナたち答えるべく。
    家家戸戸に紅顏みな能く國を愛し,
    軍前に壯丁男兒喜んで捐軀(身をすつる)。
    拔刀し自ずから詡(誇示)する男兒の勇,
    海陸空軍皆貴き寵をえん。
    白足和尚は長憐みて鹿女仙女は痴,刺青の只,是れ蝦夷の種。

    徐福は舟に乘りて去ったまま回らず,今に至って人道蓬萊を説く。
    豈に知るや富士山頭の雪,終に昆明池の底に灰と化す。
    八紘一宇,言や好し,到る處,殺人草刈るが如し。
    蛇,巨象,吞む,骨の恐れは消し難し,
    鬆心を恐れ火を入れては燎を還る

    蓽路に兵車,戎の勢いは兩(ならぶもの)無し,
    水碧金膏,掌中にあるがごとく看る。
    明年,《薤露》を唱うて荒原に泣く,

    千人針は萬人坑,
    尺布何ぞよく五丁を召さん。
    羅什筵に蒺刺を食らう佛寺では陣ごとに卒塔婆のかねをまわす

    四海に爭い傳える新秩序,
    河間の織女の機(はたおり)杼(ひ),停まる。
    秦都の閭左(平民區),已に閨房,空となり
    諸夏の后,中興は半旅もなさず。

    君,見ずや見ざらん。
    上野の櫻花,看る人もなく,銀座歌聲,夜,まさに盡きんとす
    板塀家屋は沈沈として嫠婦(寡婦)嘆き,
    いま猶,朱き日の丸旗,夢にはまだ,三韓をしたがえて・・・



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    卉服=.邊境遠方地区少数民族或いは島人,日本人のこと《魏書匈奴傳》
    雲鬟=女子の結った黒髪
    鬆心=堅貞高潔的節操
    羅什=鳩摩羅什
    蒺刺=木の根野草の意か,漢方薬草
    三韓=朝鮮半島。“古直《哀朝鮮》三韓日暗淡,倭兒意氣雄”



    亂離朋友異膠漆,干戈兄弟皆參商

    亂離の,とき,に 朋友は膠漆と異なれり,干戈の,ま,には 兄弟は皆,參商にあり



    亂離も干戈も,戰爭のことである。
    “參商”
    遠きにあること,隔絶した距離にあることを, “參商” という

    参星と商星。
    参星在西,商星在東,此出彼没,永不相見。
    である
    たとえるに,彼れ此れ對立,不和睦,のこと
    でもある

    戰爭はあらゆる意味で絶對的に反對,これはフツーのヒトなら,主義主張ではなく,
    あったりまえ,のこと,だ
    武器商人でもないかぎり。天皇でもないかぎり

    戰爭がおのれに,利,をもたらさないなら,戰爭は誰でもハンタイなのである。

    なぜ戰爭が起こったか,その原因,
    その “利” ,を受けて, “理” をつくりあげ,それを, “義” と,やみくもに信じる, “大” 勢がいて

    戰爭は興り。拡大する

    《短歌行》 馬一浮


    悲劇,とは “相” である。
    相を反省して,どうするか?

    戰爭をハンセイ,戰爭にハンタイするなら,
    戰爭の “相”を引き起こした “因” とはなになのか?

    物事, “歴史” は,ひとり,ひとりの視野に見られ得る,“相”であり,多種多様。
    とらまえかた,はひとそれぞれ。

    “相”は無限 “大” ,變易していく,果てしなく。
    無涯。

    “社会現象,仍仍相因,層層銜接”

    あるマルクス主義者のことばだが。

    そこに,
    そのつぎからつぎへと,縺れあって,有因而して有果,變易,しつづける相のなかに
    その無涯の茫漠のなかに,
    ひとそれぞれではあるがしかし,共通の因子をみつけることができるなれば。

    いや,
    それを,みつけなくてはいけない,という。

    歴史に學ぶ,というのは本來そういうことではないか?

    結果起きた,悲惨な “相” を, ハンセイ することなど,誰にもできない。
    でき得ないのであり,ましてや。

    謝罪 ,も,また,でき得ない。

    ということだ。

    その因となった 「なにか」に「ハンタイ」するひとりびとり,
    である必要がある。
    その因子, “根” と “積習” を見つめる必要がある,ということだ。

    そう考えればわたしがどうしてもナットクいかないのは。

    日本では,
    なぜ加害者としての立場から戰爭を記憶しようという動きが見えないのか?

    ということ,これにつきる


    離言説相,離名字相,離心縁相,畢竟平等
    無有變異,不可破壞,唯是一心,故名真如


      一切の法は,從本(もとより)已來(このかた),
      言説の相を離れ,名字の相を離れ,心縁の相を離れ,畢竟平等にして,
      變異あること無く,破壊すべからず,唯是れ一心なるのみなれば,
      故に真如と名づく


    『大乘起信論』一切 

    水島上等兵は,佛道を理解していたか?
    否。

    菩薩道とはそういうものだ,渡り, “度”するための,
    發意 そういういいかたはできるかもしれない。
    ww
    それを,ボサツ,發心,という。

    しかし。
    菩提薩埵(ボーディ・サットヴァ) बोधिसत्त्व, bodhisattva

    そこにあって,ともに,生きる,
    その地に生きる,
    すべて,を,

    “大” を,“乘” せて,“度”(わた)る ,を “得” ん,

    とするのが
    佛教,少なくとも,大乘佛敎のおしえである。

    すべて,ともに “度” (わた)る,?
    それは,そんなコト無理だ,


    というか?
    さはさりながら。

    一,は, “全” を構成するひとつ,であり
    小,が, “大” を背負うのである,

    という,そこを見つめることができなければ,發度,ではない。
    ボサツのココロ發す,とはならないのである

    佛言にいう一切衆生。

    “一切法,從本已來。唯是一心”

    水島上等兵の,緬甸における,菩薩薩埵は。
    どうか?

    水島上等兵の襤褸は,袈裟は, “法” 衣は,

    “薫習” ,されていたか?

    否。
    阿僧祇に否,
    だw

      maiji815.jpg

    テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

     

    玄


        管理人: 少玄 (女子)


      
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      ― 本人不是佛教徒,
       當然是一個的詩囚 ―



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    * East Asia War &  Prolet’Kult contents
     日中戰爭とその記憶

    南京虐殺日中間の戰爭,その記憶 ①~⑥にすすむ

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     1931 錦州爆撃・張學良
     1933 熱河作戰・張學良
     1931 九・一八柳条湖
     1937 毒ガス使用作戰
     1937 淞滬會戰八・一三
     1940 棗陽戰(棗宜會戰)
     1940 宜昌作戰
     1931 抗日義勇軍・楊靖宇
     1943 常徳よ號作戰
     1935-東亞新秩序の前景氣
     1936 塘沽協定と熱河作戦
     1937 天津の支那駐屯軍
     1937 7・7盧溝橋事變勃發
     1938 漢口の國民政府
     1938 中國の抗日論調
     1938 國民政府 武漢防衛
     -1938 南京屠殺アトローシティ
       1 2 3 4  5 5 6

     1906 アナキスト的國粹主義者
     1907 東京 亞洲和親會
     1925 上海游記 芥川龍之介
     1949 『中國のレジスタンス』

     
    黑島傳治1898-1943
      『防備隊』 1931
      『國境』 1931
      『』 1927
      『』 1928
      『武装せる市街』 1930
      『パルチザン・ウォルコフ』 1928
     竹内好  1910-1977
     ・
    日中國文學者からの告發
     ・帝國民間人のアヘン賣買
     ・中國の抗戰意識
     ・la résistance 同歸于盡
     ・ファシズムとパン
     ・經濟収奪の前段階

     芥川龍之介 1892-1927
     中野重治 1902-1970
     槇村浩 1912-1938
     小熊秀雄 1901-1940
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       日本人反戰同盟
       (1938-1945 中國)

       
       鹿地亘 1903-1982
       『自傳的文學史』(1959)
     第8章(前)・檢擧 拷問
     第8章(後)多喜二獄中志・死
     第10章・検察 釈放 脱出

       『中國の十年』(1946)
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      1 出獄から
      2 昭和十一年舊正月
      3 夏衍 蕭軍 左翼作家聯盟
      4 民族魂 魯迅との邂逅
      5 阿Q 魯迅の死
      6 七・七事變の勃發
      7 反侵略友誼的激勵
      8 上海 ルイ・アレー氏
      9  ホンコンへ脱出
     10 入境の日本人解放鬪爭
     11 武漢時代 國共合作
     12 武漢時代 朝鮮義勇隊
     13 武漢時代 日本人捕虜
     14 大移動 南嶽會議前後
     15 呉石將軍と廖濟寰氏
     16 桂林時代 蔣介石
     17 桂林時代 崑崙關
     18 重慶 反戦同盟總部
     19 湖北 陳誠將軍 恩施にて
     20 湖北 宜昌の前線
     21 ―新四軍事件
     22 郭沫若のこと
     23 重慶 ― 南進か北進か
     24 反戰同盟發展 
     25 重慶 破壊者 潜入
     26  天皇制の問題
     27 祖國 最終章


    * list of poetry    Anti-Japanese wars
      抗日戰舊體詩

      本ブログの骨幹です。
     一九三〇年代,抗日戰爭期,
     中國文人が詠んだ帝國日本の
     侵寇,掠略加害のありさま
     祖國の救亡のため抵抗し命を
     落としていった無數の草民,
     中華の大地,山河を忉怛し
     惜慯した哭詩,吊詞,哀歌
     口號,頌歌。
      抵抗者の忼慨をうけ連綿と
     傳えられてきた歌以言志。
     新・舊體詩,填詞,白話詩。
      歴史書の記述とは又,異なる
     日中の戰爭の實相が,曝され
     吐露されています
     以下クリックで直接進めます
      は特に御薦めする

      

      詩人詩篇題 INDEX

     田翠竹 1913-1994 湖南 湘潭
     《洞庭碧血》其四其二
     《血観音歌1943年作
     《重九》《甲辰雜詩
     《抗戰百詠・十首
     《還湘又將別家去桂書懷
     《避難吟荒江雪意
     《中秋后還家再去耒陽
     胡繩 1918-2000 江蘇蘇州
     《南京夜聞流亡東北學生
     《松花江上
     寇夢碧 1917-1990 天津
     《淪陷紀事詩
     黄假我 1916-1985 湖南寧郷
     《青年謠壬午五四青年節
     《柬呈柳亞子先生
     《暮春雜詠
     《過塘沽
     《瀋陽中秋對月
     《宿錦州
     《錦州廣濟寺前
     金紫衡 1914-? 河間瀛州
     《四周年瀋陽驚變九一八
     《沈監秋夜
     《瀋陽除夕寄徐
     《延邊辭歳1943年除夕
     《蘇武牧羊圖
     《山居雜詠
     《北平易幟
     《南京陥落
     《吊江南
      
     錢鍾書 1910-1998 江蘇無錫
     《故國》  《哀望
     《得龍忍寒金陵書
     張滌華 1909-1992 安徽鳳臺
     《南京大屠殺感賦
     盧前 1905-1951 江蘇南京
     《招西北之魂
     《百靈廟,更招東北之魂
     王季思 1906—1996 浙江永嘉
     《懐人五絶
     羅元貞 1906—1993 廣東興寧
     《路過上海有感
     《黄浦灘倚欄夜作
     《清明哭母二首》 《病裏
     《初到并州懷劉越石
     《中秋漫筆二首》
     《故都秋夕
     《送行
     《夜過景山
     張采庵 1904-1991 廣東番禺
     《勝利在望書此志喜
     《鬼意
     《亂離
     《秋夜》  《感憤
     《寇陷長春李君如玉僅
     身免南下相逢握手一慟

     聶紺弩 1903-1986 湖北京山
     《題 “藥” 兼吊秋瑾
     胡士瑩 1901-1979 浙江嘉興
     《過秋瑾墓感賦二首
     王禮錫 1901-1939 江西安福
     《再會,英國的朋友們
     何永沂 ?-? 廣東
     《報載日本首相參拜靖國
     神社憶南京大屠殺事感

      

     舒慶春 老舎 1899-1966 北京
     《七七紀念
     《沫若先生邀飲賴家橋
     《述懷
     《賀冰心先生移寓歌樂山》
     《哭王禮錫先生二首
     常燕生 1898-1946 山東
     《遊春八首選二》其一
     馮振 1897-1983 廣西北流
     《暮春
     《傷楠兒
     《野望
     《登蒼梧北山
     《草食人
     《病後
     《登銅石嶺最高頂
     林庚白 1896-1941 福建閩侯
     《次和炎南兄七七見寄韻
     《續丁丑雜詩六之一
     《水調歌頭,聞近事有感
     《丁丑雜詩三首
     《渡江至武昌
     《江岸散歩
     《月夜小步
     《七月十二夜坐月
     《浣溪沙
     《首都飯店聞警同北麗
     《病起聞警
     《江防
     《聞道二之一
     《難民來
     《夜聞鑿防空壕聲
     郁達夫 1896-1945 浙江富陽
     《贈光華報同人"/>
     郭沫若1892-1978 四川樂山
     《挽王禮錫
     唐鼎元 1894-1988 江蘇常州
     《哀瀋陽
     《武漢空戰三捷歌
     柳亞子 1887-1958 江蘇呉江
     《八聲甘州-次任潮將軍
     韻為亡友庚白先烈賦

     李濟森 1885-1959 廣西蒼梧
     《八聲甘州-林庚白
     先生香江殉難以表哀

     張鳦生 (不詳福建)
     《感事次達夫先生韻
     《南京失陥
     《七七掲開抗戰序幕
     《吊鑒湖女俠墓
     《贊東北義勇軍》二首
     《九一八感作
     《頌寶山姚子青全營殉城
     李大防 1878-?  四川開縣人
     《金陵作
      
    * list of poetry    Late Qing,Republican

        ☞瞿秋白 瞿秋白の生涯と詩作「形單影隻,孤苦畸零」雄魄 顛簸的一生

     史鐵兒 1899-1935 常州武進
      『餓郷紀程
    』1919-1923
     〔新體詩〕
      《心的聲音“遠”》1920年
      《去國答"人道"》1920年
      《無涯》(1920年)
      『餓郷紀程・跋』1921年
      《國際歌》 1923年
      《赤潮曲》 1923年
      《夢中鞋》 1923年
      《鐵花》 1923年
      《天語》 1923年
      《小小的蓓蕾》1929年
     〔舊體詩〕
      《詠菊》 1914年
      《哭母》 1916年
      《雪意》 1917年
      《紅梅閣  1926年>
     〔獄中誌〕
      《
    絶筆》1935年6月18日
      《浣溪沙》1935年5月
      《卜算子詠梅》1935年5月
      『瞿秋白筆名印譜

        


        ☞ 林庚白子舊體詩に すすむ

      林學衡 1896-1941 福建閩侯
     〔七言詩〕
      《次和炎南兄七七見寄韻
      《續丁丑雜詩六之一
      《丁丑雜詩三首
      《渡江至武昌
      《江岸散歩
      《首都飯店聞警同北麗
      《病起聞警
      《江防》 
      《難民來
      《夜聞鑿防空壕聲
     〔五言詩〕
      《聞道二之一
      《月夜小步
      《七月十二夜坐月
     〔詞牌〕
      《水調歌頭-聞近事有感
      《浣溪沙
      《菩薩蠻-送別
      《減字采桑子-雨夕書懷
      《曲牌行香子-
       -舊曆重陽樓望寄璧妹
      《琴調相思引-午夜聞歌
      《賣花聲-雨中樓望
      《鳳凰台上憶吹簫-
       -雨夜無寐》《-海行夜起》
      《滿江紅-秣陵感懷
      《摸魚兒 紅豆




      淸末民初“革命春秋”
     
     鄒容 威丹1885-1905四川巴縣
     《獄中答西狩
     『革命軍
     劉師培1884-1919江蘇儀徴
     《一萼紅-徐州懷古
     《賣花聲-登開封城

     黄節 玉昆1873-1935廣東順德
     《送劉申叔元日東渡
     秋瑾 璿卿1875-1907浙江紹興
     《滿天紅
     《杜鵑花
     《去常德舟中感賦
     《杞憂人
     《梅十首選其二
     《詠琴志感
     《讀書口號
     《殘菊
     《秋海棠
     梁啓超 1873-1929 廣東新會
     《讀陸放翁集

     章太炎 1868-1936 浙江余杭
     《獄中贈鄒容
     《辰州
     《亞洲和親會規約
     陳國常 1864-? 四川榮昌
     《徐烈士墓
     《秋瑾墓

     康有為 1858-1927 廣東南海
     《
    大同書成題詞
     黄遵憲 1848-1905 廣東嘉應
     《庚午中秋夜始識羅少珊
     魏源 默深1794-1857湖南邵陽

     《江南吟・其八
    * list of poetry     The Qing Dynasty 

        龔 定盦 龔璱人
         浙江杭州 1792-1841

       
      『平均篇
      『乙丙之際箸議
      『己亥雜詩全三百十五首
     〔七言絶句詩〕
      《己亥雜詩 百二十五
      《己亥雜詩 六十二
      《己亥雜詩 八十五
      《己亥雜詩 九十六
      《漫感
     〔七言詩〕
      《己卯雜詩自春徂夏全首
      《又懺心一種
      《常州高材篇
      《驛鼓
      《夜坐》其一
      《夜坐》其二
      《秋心》三首之壹
        
     〔五言詩〕
      《夜讀番禺集書其尾
      《又一首
      《戒詩》五章其一、二
      《自春徂秋偶有所觸拉雜
      書之漫不詮次得十五首

      《紀夢》七首之五
      《賦憂患
      《賦得香
      《觀心
      〔曲牌〕
      《端正好
      《醜奴兒令
      《念奴嬌 湘月
       龔自珍 編年校注 古典文學叢書
      ☞ 人痾芙蓉 阿片戰爭
    * list of poetry     The Ming Dynasty 

      屈翁山 屈大均 號 莱圃
       1630-1696 廣東番禺

       
      〔七言詩〕
     【屈大均詩集】七言絶句目録
     【屈大均詩集】七絶集 貮・參
     【屈大均詩集】七絶集 肆・伍
     【屈大均詩集】七絶集 陸
     【屈大均】《哭華姜百首》

      〔五言詩〕
     《哭内子王華姜》一三首
     《詠懷》一七首
     《詠古》二七首

      〔曲牌〕
     【屈大均詩集 詞牌
     《念奴嬌 湘月
      
      








    * list of poetry     The Song Dynasty

       文天祥 宋瑞 諡 忠烈
        江右人 1236-1283

       
       《劉琨
       《夜坐

       劉克莊 潛夫
        莆田城廂1187-1269

       《雜記十首》其二,其八






       元遺山 元好問 裕之
        山西秀容 金1190-1257

       
       《論詩絶句
       《孤劔詠
      《種松》 ,《出都
      《俳體雪香亭雜詠坐
      《壬辰十二月車駕東狩後





       陸放翁 陸游 字 務觀
        浙江紹興 1125-1210

       
      《夜歸偶懷故人獨孤景略
      《東籬雜題
      《雜書幽居事
      《水亭》,《八十一吟
      《卜算子詠梅







       邵堯夫 諡 康節
        范陽人 1011-1077

       
        《觀物吟
      《義利吟
      《自餘吟
      《乾坤吟二首
      《天聽吟
      《辛酸吟
      《論詩吟
      《夢中吟
      《不寢
      《洗心吟
      《晨起
      《寄楊軒
      《百年吟
      《感事吟
      《繩水吟
      《淸夜吟
      《歩月吟
      《月新吟
      《月到梧桐上吟




    * list of poetry     The Tang Dynasty

       李長吉 李賀
        791-817 河南昌谷

       ☞李長吉詩カテゴリーへ直截すすむ
       〔五言詩〕
       《申胡子觱篥歌
       《詠懐其一
       《詠懐其二
       《七月一日曉入太行山
       《潞州張大宅病酒遇江使
       《走馬引
       《古悠悠行
       〔七言詩〕
       《長平箭頭歌
       《酒罷張大徹索贈時…
       《綠章封事爲呉道士…
       《酒貝宮夫人
       

       杜少陵 杜甫
       712-770 長安

       《戯為論詩絶句》其一,五
       《詠懷古跡》五首其一,二


       孟東野 孟郊
       751-814 湖州武康

       ☞孟東野詩カテゴリーへ直截すすむ
       〔全詩集〕
        壹・一~四卷(宋本)
        貮・六~十卷(宋本)
       〔樂府〕    《古怨別
       《古別曲
       《飢雪吟
       《寒江吟
       《苦寒吟》
       《遊俠行
       《羽林行
       《春日有感
       《游俠行
       《偶作
       《遣興》
       《
    聽琴》
       〔七言絶句〕
       《
    登科后
       《傷舊游
       〔五言絶句〕
       《旅行
       《邀花伴
       《古恩
       《閑恩
       《喜雨
       《春後雨
       〔五言古詩〕
       《答盧虔故園見寄
       《哭秘書包大監
       《送孟寂赴舉
       《寒溪》其三,五,六
       《夜憂
       《夜感自遣
      

        賈浪先 賈島
        779-843 范陽涿州 

        ☞
       《壯士吟
       《劍客
    * list of poetry     The Six Dynasties

       庾子山 庾信 庾開府
        梁 513—北周 581 

       庾信カテゴリーへ直接進む
       『庾子山・全詩集』上
       『庾子山・全詩集』下
       《哀江南賦・序
       《哀江南賦①
       《哀江南賦②
       《哀江南賦③
       《哀江南賦④
       《擬詠懷詩
       《詠畫屏風詩
       《望月詩
       《舟中望月詩

       庾子慎 庾肩吾
        梁 487-551

       
       《經陳思王墓詩
       《同蕭左丞詠摘梅花詩
       『庾肩吾・全詩集

       江總 江總持
        梁 陳 519-594

       《橫吹曲
       


       鮑明遠 鮑參軍 鮑照
        劉宋 414?-466

       鮑明遠 鮑照カテゴリーへ直接進む
       《代出自薊北門行
       《代結客少年場行
       《代升天行
       《扶風歌
       《學劉公幹體》其一~五
       《擬阮公夜中不能寐
       《冬至》,
       《代夜坐吟》

       
       江淹江文通
        劉宋 齊 梁 444-505

       《劉太尉琨傷亂


       劉越石 劉琨
        晉 224-262

       ☞劉琨カテゴリーへ直接進む
       《答盧諶詩・序
       《答盧諶詩
       《重贈盧諶詩
       《扶風歌


       嵆叔夜 嵆康
        晉 270-318

       ☞嵆康カテゴリーへ直接進む
       
    * list of poetry     The Han,Wei,Jin


       曹操 曹孟德
       沛国譙 155-220魏武

       
       《歩出夏門行

       曹子建 曹植
       192-232陳思

       
       《求自試表》上
       《求自試表》下
       《升天行
       《朔風

      漢魏晉 建安文學 三曹


      繁欽 繁休伯 建安?-218
       《遠戍勸戒詩
       《征天山賦
      繆襲 繆煕伯 建安186-245
       《屠柳城

      漢代樂府歌辭
       《戰場南



    * list of poetry    Pre-Qin and Others

      詩賦・樂府歌辭・偈頌
       
      南北朝・北歌
      《望月》蕭綱・梁簡文
      《隴頭歌辭
      《青溪小姑歌》南北朝末隋初


    * list of poetry    Japanese modern

      小熊秀雄 1901-1940
      『小熊秀雄詩集1935年
      『流民詩集1947年
        ☞ 詩篇 TitleMenu
       

      中野重治 1902-1970
      《新聞にのった寫眞
      《兵隊について
      《噴水のやうに》《歌
      《私は月を眺め》《波》4

      金子光晴 1895-1975
      《落下傘》《湖畔吟
      《燈臺》
      槇村浩 1912-1938
      『間島パルチザンの歌』
       ☞ 詩篇 TitleMenu

      金鍾漢 1916-1944
      《合唱について
      《一枝について
      《古井戸のある風景
      《待機
      《行状
      《空山名月
      《

      黑島傳治1898-1943
      『防備隊』 『國境』 『
      『』 『武装せる市街
      『パルチザン・ウォルコフ』

      田邊利宏 1915-1941
      
    ☞ 詩篇 TitleMenu

     反戦詩人☞ 詩篇TitleMenu


      富澤赤黄男 1902-1962

       

      《蒼い弾痕》『旗艦』1939
      句集『天の狼』1941
      句集『天の狼』抄1951
      《風景畫》 『蛇の笛』1952


       短詩運動 大連『亞』  
       
       
       安西冬衞 1898-1965
      《黑き城》『渇ける神』1933
      『大學の留守』1943
      《砂漠》『軍艦茉莉』1929
      《夜の思料》『軍艦茉莉
      《八面城の念力》1933
      《砂漠の行者が臥てゐると
       鴉が食物を運ぶ

       『亞細亞の鹹湖』1933

       
       北川冬彦 1900-1990
      《
      《戰爭》『戰爭』1929
      《絶望の歌》
      《壊滅の鐡道

      《風景》《埋葬》『氷』1933
      《爛れた月》《斑らな水》
      『檢温器と花
    』1926
      《泡》『馬と風景』1952






     
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    * comment
  1. 玄:No title (11/12)
  2. くわがたお:No title (11/12)
  3. 玄:No title (11/12)
  4. 青梗菜:No title (11/12)
  5. 玄:Re: No title (10/20)
  6. 玄:Re: No title (10/18)
  7. くわがたお:No title (10/18)
  8. 玄:反みつをがそーゆーことゆーな (10/18)
  9. 玄:Re: 気が合いますね。(笑) (10/18)
  10. 青梗菜:No title (10/17)
  11. motomasaong:気が合いますね。(笑) (10/17)
  12. 玄:Re:鍵コメ様 (10/17)
  13. 玄:元雅さま (10/17)
  14. motomasaong:アジア太平洋戦争当時を見ているのでしょう。 (10/16)
  15. * list of poets & link

     中國詩について
     中國詩はもともと,象形であるところの文字を使って詠まれている。つまり西洋詩にいわゆるサンボリズム,象徴詩,と言う「様式」は既に自得している。自得してしまっている。
     それが中國詩。
     古體,近體,舊體,新體,いつの時代のどの形式であっても漢字を使う限りそこから自由にはなれない。
     こうした作法の約束ごと,いわばクリシェ表現であるが,メタファーのいくつかでも知っているだけでも,漢魏の古詩は,類推しやすくそうとうにわかりやすくなる。
     まず,膨大なアナロジーの蓄積に眩むわけだが,漢魏六朝の古詩によってメタファーを知ると,唐詩は「表徴」と言うより「表現」そのものがおおきくひろがっていることがわかる,跳躍的に,である。
     さらに宋詩には,古來の中國思想に禪定(禪那 Dhyāna ディアナ)が加わり探究されて淒みを増した思想的表現の飛躍がある。
     Impressionism,Expressionism,
    そのどちらにおいても深化がある。
     これを,真に,深く實感すると中國詩の虜囚となる


     

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