Prolet'kult, 五・四文學運動,抗日戰爭詩,近・古體,舊體中國詩,野狐禪
管理人: 少玄 (女子,日本人)
楞伽案前, 楚辭肘後
― 本人不是佛教徒,
當然是一個的詩囚 ―
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⦿唐代 魏晉南北朝
中國詩について
中國詩はもともと,象形であるところの文字を用いて詠まれている。つまり西洋詩にいわゆるサンボリズム象徴詩,と言う「形式」は既に自得する。自得されてしまつている。
それが中國詩。漢字,一個の體は“意”,“理”を途方もなく内包し,文脈や文法を破壊するフォースを持つ。
詩作はそこから始めらる。古體,近體,舊體,新體,いつの時代,どの様式下であれ,漢字を用う限り,そこからは解放されることはない。が,裏を返せば“一個字”,それ自體が, “自由”,を持つ,ゆえ,詩は,自在でありパワフルネスとなる。
こうした作法の約束ごとは,宿命であれ,そこに限界あり,とはいえ,その限界はひろがりつづける。
前秦漢魏の古詩は,メタファーのいくつか謂わば慣習・クリシェ表現であるがそれを知るだけで,わかりやすくなる。
詩人たちのの膨大なアナロジーの蓄積にたじろぎ眩むが,知らねば,わからない。
しかし漢魏六朝の古詩を讀むことでメタファーの森林をわけいり知りゆくと,唐詩はそのうえに「表徴」に凭れるだけではない「表現」そのものが厚みを増し可能性がおおきくひろがつていることがわかる,跳躍的に,である。
さらに宋詩には,古來の中國思想に禪定(禪那 Dhyāna ディアナ)が加わり探究せられて淒みを増した思想的表現の飛躍がある。
Impressionism,Expressionism,
そのどちらにおいても深化がある。
これを,真に,深く實感すると中國詩の虜囚となる。w
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